ワンドロ 「野球」

丹空 舞(にくう まい)

ライオン

「ボール当てる音だけでも聞かせてくれ!」


ベンチから、大声が飛んだ。

その直後、ショートの前に球が転がる。

平凡な内野ゴロだった。

が、その瞬間、グリフィンズのベンチに今日一番の歓声があがった。


打たれたピッチャーは後ろを少しも見ない。

表情を変えずにファーストだけに視線をやっている。

すぐにショートからファーストに安定した送球があった。

安定感のある、普通のアウトだった。


これでツーアウト。ポジションの交代まであと一人。

アウトにされたバッターはたかだかと右手をあげて、まるでヒーローのようにベンチに帰った。

「すげー!」

「ナイバッチ!」

「よくやった!」

「うわー、きてる俺」


ライナーズのベンチは静かだった。

時折、思いだしたように、ドンマイと誰かが声をかける。

応援することを辞めて、静かに見守っていた。



そのとき、後からやってきた保護者が応援席に座った。

「わー、もう点差開いちゃった?」

「遅かったじゃない」

同年代の女性、誰かの母親だろう、が返す。

「ねぇ、もう終わっちゃうよ」

「えっ? 今、表でしょ」

「表だもん。これで相手が打てなかったら、勝ち」

「あれ、今盛り上がってるのって、グリフィンズ?」

「そうそう。さっきようやく一球かすって大喜びしてるわ」

「逆かと思った」

「ふふふ。ウチは誰も声出せないよ」


二人の母親は、ベンチにいる我が子に視線を向ける。


「すごいね」

「うん。あんなの……そりゃあ、相手だって、味方だってああなるよね」


興奮するグリフィンズはあと1アウトで負ける。

静まりかえっているライナーズはあと1アウトで勝つ。


「なんだかあべこべで、変な感じ」

「ほんとに。おかしいね」


春の日差しは少し暑いくらいだ。


「プレイッ」

打席に立った次の打者が、大声でオオッと叫んだ。

ピッチャーは眉ひとつ動かさない。首も振らない。

しんとした静寂の中、ピッチャーは長い腕を振った。

バシンッとミットに球が収まる。

構えたところに磁石で吸い付いたように、ボールはピタリと寸分たがわずはまった。


グリフィンズのベンチは盛り上がっていた。

「びびんなよ!」

「このままいくぞ!」

「つづけー!」


もう一球。

バシンッ。

ストレート。

ミットは動かない。

これでツーアウトだ。


「やべぇ」

ライナーズのベンチから、ぽつりと声が零れた。

監督が、うぅ、と唸った。

「なんなんスか、あいつ」

呆然としたように誰かが呟いた。


ライナーズの監督は拳を握っていた。

圧倒的な才能の前に、立ち会う大人は冷静でなければならない、というのが彼の持論だった。


ピッチャーが振りかぶる。

外角? 落ちる? いや――。


耳を震わせる鮮烈な音と共に、バッターは渾身のスイングをした。


「アぅッ!」


審判がアウトコールをする。

バッターがため息をつきながら笑った。

「エグぅ……」


それぞれのベンチから選手が駆けだして並ぶ。

試合終了だ。



スコアは0-5。

6回表の攻撃が終わったところだった。

整列の中で、ピッチャーは頭一つ、いや、二つ抜け出ている。


目の前に立ったグリフィンズの選手が、

「ハハッ」

と乾いた笑いを零した。


「ありがとうございましたッ!」


挨拶が終わるや否や、それぞれのチームの選手たちはすぐにベンチに戻っていく。



グリフィンズの選手たちは、全員どこか晴れ晴れとした顔で、奇妙に笑っていた。


「あいつ、化け物だ」


それは負けた彼らの最大級の賞賛であり、悔しさであり、事実だった。




「ミーティングは戻ってからだ。撤収急げ」

監督の声に、選手たちは素早く荷物をもって球場を出る。


大柄なピッチャーは、何も言わずにメンバーに貰った氷を肩に当てた。

帽子を被ったままの黒髪は汗で濡れている。


「体は冷やすな。肩はしっかり冷やしとけよ」

「はい」


アイシングを渡したメンバーが、「なあ」と話しかける。

「なんで最後、ストレート?」


ピッチャーは宇宙のように黒々した瞳を、真っ直ぐにメンバーへ向ける。


「言ったから」

「は?」

「最後のバッターに。三球目、ストレートって。打つ前、口で」


スパイクがガチャガチャ鳴る音の中で、アイシングを渡した選手はあんぐりと口を開けた。

「……なんで」


そうしてピッチャーは初めて、口角をあげた。


「予告したら、打つかなと思ったから」

「は」

「見込み違いだったけど」


と、悪戯が失敗した小さな子どものように、舌を出す。

黒々した長い睫毛から汗が落ちる。

それは涙のように、ピッチャーの顎にまで垂れて、乾いたコンクリートの灰色にぽたりと落下した。

アイシングを渡した選手は、口を開けたままピッチャーを眺めていた。

ピッチャーは口の端をニッと引き上げて、歯を見せずに笑みを深めた。

その拍子に硬直が解けたように、選手は泣きそうな顔で隣にいたキャッチャーを見た。

キャッチャーは試合後の上気した息をしながら、首を振った。


――最高で、最低の投手。


しかし、誰も何も言わなかった。

ピッチャーは荷物を担いでベンチを出ていく。


試合のある日はいつも晴れている。

夏でもないのにとても暑い。

ピッチャーは、それなりに疲れていた。


(今日のメシはなんだろう)


すれ違う者みんなが、その存在を目で追っていた。

ピッチャーはそれらの視線を何一つ気にすることなく、悠々と球場の廊下を歩く。

圧倒的な王者のようなその背中は、荒野を進むライオンのようだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ワンドロ 「野球」 丹空 舞(にくう まい) @vimi831

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る