異形

@guchita

天谷隆二 三十五歳

「近いな…行くか」

昼食の炒飯を食べかけたまま、俺は玄関を飛び出した。

自転車に跨り、異形の存在を感じる方へと進んでいく。

その時の集中力によるが、普段だと、大体半径五百メートル以内に異形化した者がいれば、その居場所を感知する事が出来る、といっても異形との距離が遠ければ遠いほど感知しづらく、五十メートル以上離れてしまうと、かなり大雑把な方向しか分からなくなる。

八年前の”あの事件”で身に付いた、特技みたいなものだ。

今探している異形との距離は、おそらく三百メートルほどだろう。

俺は座席から腰を上げ、グングンと自転車を漕ぎ進める。

今の時代、五月中旬といえばもう、ちょっとした夏みたいなもんだ。こうして軽く運動するだけで汗ばみそうになる。半袖を着てくりゃ良かったと、少し後悔した。

「アイツか」

閑静な住宅街。家々が建ち並ぶ間に、一つの公園がある。

遊具はブランコと鉄棒くらいしかないが、敷地はやけに広く、公園というより広場と呼ぶ方がしっくりくる。

その公園の中心あたりに、ウゥ…と呻きながら蹲るスーツ姿の男がいた。

日本に異形が現れてから六十年。

謎が多く、未だ分からない事だらけの異形たちだが、変異の種類として、大まかに三つに分類されている。

その中の一つが、今目の前にいる「野獣型」だ。

主にみられる特徴として、大きく発達した筋肉と、それを覆う体毛がある。牙や爪が鋭く変化している者もおり、発達する部位や体毛の色も含め、様々な種類が存在している。

今回発見した異形は、両腕が異形化しているようだ。体毛は生えていないが、明らかに普通の人間ではない。

彼の着ているスーツは既に限界を迎えており、もうスーツではなく、タンクトップと化していた。その名の通り、まさに異形だ。

「このままバレなきゃ楽なんだけど」

公園の隅に自転車を停め、そろそろと近付く。

音を立てないよう、細心の注意を払いながら、俺は歩みを進める。

異形は呻き声を上げ、頭を抱えるばかりで、周りの様子なんかは、ちっとも気にしていないように見える。

そんな油断が俺の中にあったせいだろうか。

異形との距離が残り十メートルほどまで来たところで、異形の呻き声が止んだ。

「チッ!」

俺は間髪入れず走り出す。

異形の男は腰を浮かせ、こちらを振り向こうとする。

異形化の状態からして、この男は理性を失っていると考えていい。思考能力の残っている異形が、呻き声を上げる事はほとんど無い。

異形化した者の大半が、破壊衝動に駆られ、まるで獣のように振る舞い、暴れ回る。さっきの呻き声は、ほんの僅かに残っていた理性で、必死に破壊衝動を抑え込んでいたのだろう。

だが、タイミングが良いのか悪いのか、俺の存在に気付き、意識を向けた時点で、本能的に俺の事を警戒した彼の意識は、破壊衝動に呑まれてしまったのだろう。

そうなればこの筋肉野郎の思考は、まさに見た目通りゴリラ同然、本能のままに周りを攻撃しようとする。つまり…

「こう来るだろ!」

振り向くと同時に、異形と化した男の右腕から繰り出される、豪快で、単純な一振り。

分かりやすく顔面を狙ったその一撃に、俺は、踏み込むと同時に体を沈み込ませ、出来る限り姿勢を低くする。

力任せなその拳は、俺の背面よりはるか上で空を切った。

避けられる事を想定していない脳筋がゆえに、その後の反応は鈍い。

異形の男が、避けられたという状況を理解するより早く、俺は体を起こし、コイツの腕を掴む。

「よっ!」

俺が掴んだ男の腕は、みるみるうちにしぼんでいき、俺と大差ない程度の太さになった。

「ウゥ!ハァ…ハァ…あれ?ここは?」

自我を取り戻した様子の男と、俺の目が合う。

男の髪はボサボサで、顔の輪郭が大きいせいか、頬がやつれているように見える。

男は目をぱちくりさせて、俺の目を見つめている。まだ焦点が合っていなさそうだ。

「えっと、あなたは?」

ふらふらした状態のまま、意識もはっきりしないであろう男が、俺に問う。

「俺は天谷隆二。いきなりだが、あんたの異形化を治療させてもらった」

「僕が…異形?」

「そうだ、最後の記憶は覚えてないか?」

「…!」

男が目を見開く。

自分が異形化していた事に気付いたようだ。

異形化し、暴走している時の記憶はなくとも、異形化する直前の記憶は覚えている筈だ。

異形化する前兆として、大抵の場合、心身に異変が起きる。感情が抑え込めなくなり、それと同時に体中に力が溢れるという。

力が溢れるという表現については、今までに異形化を解いてきた人の大半が、そう表現する。とりあえず体の底から力が溢れてきて、何でも出来る気がするんだとか。だが実際、異形のほとんどは、ただ暴れ回るだけで、周りからすれば迷惑でしかない。

「…」

男はショックを受けている様子だ。

それもそうだろう。世間での、異形の扱いは、決して良いものではない。見た目も力もバケモノになってしまうのだ。異形側も被害者であるという考えもあるにはあるが、人々が直感的に抱いてしまう感情は、やはり恐怖に近いものになる。

男は、自身の異形化によりタンクトップになってしまったスーツを視認しつつ、困惑しながらも俺に感謝の言葉を述べた。

異形化には、感情の昂りや、ストレスが原因で発現する事が多い。彼に異形化した背景を尋ねてみると、彼自身、自分の人生に行き詰まりを感じていたようだ。名前は林健太。歳は今年で二十九。大手企業のサラリーマンとして、それなりに優秀にやってきたらしい。だが、もう少しで迎える三十代に焦りを感じていたようで、その焦りから、最近は精神的に不安定だったという。

そんな誰しもが抱いてしまうような感情で異形化は起こってしまう。だが、どれだけストレスを抱えようが異形化が発現しない者もいれば、ほんの些細な感情の変化で異形化する者もいる。これが謎の多い異形化の現状だ。

林健太は、異形化の治った腕をさすりながら、異形化について聞いてきた。

「異形化って治療出来るものなんですね」

「いや、基本的には無理だ」

暴走した異形に対し、有効な対処として、警察は麻酔弾を使用している。

異形を麻酔で眠らせ、感情を落ち着かせる事で、異形化が治まる。再び感情的になれば、異形化してしまう事もあるが、現段階では、それ以上の対処法は確立されていない。

「ま、俺は例外なんだけど」

「どういう事ですか?」

「俺も異形なんだよ」

「え?」

驚く林健太に対し、俺は近くのベンチに腰掛けてから、右の手のひらを差し出した。

「…」

林健太は驚いた顔のまま、いや、驚きを増した顔で俺の手を見つめる。

俺は、その日の体調にもよるが、異形化する部位を、ほぼ完全にコントロール出来る。

林健太に見せた俺の掌は、手の皺すら見えないほど黒く澱んだ色をしている。自分の手ではあるが、見つめていると吸い込まれてしまいそうな感覚になる。

「俺は、自分が触れた異形を、元の姿に戻す事が出来るんだ」

さっきのあんたにもそうした、と俺は言う。

「ありがとうございます」

林健太が礼を言う。

「面倒な事になる前に、あんたは早くここから去った方がいい。もし、誰かが通報していれば、もうすぐ警察が来る筈だ。」

「天谷さんは…」

「俺はここに残って適当に誤魔化しておくから、安心して帰りな」

丁度、パトカーのサイレンが聞こえ出した。

やはり通行人の誰かが通報していたようだ。

「また異形化しそうになった時は、手遅れになる前に、ここに連絡してくれ」

俺は仕事用の自分の名刺を一枚手渡した。

「すみません、ありがとうございます」

林健太は、名刺を受け取り、ぺこりと頭を下げると、サイレンの音がする反対方向へ小走りで駆け出していった。

俺は、ふぅ、と一息吐いた。

「またあの警官が来なきゃいいが…」

一仕事終えた俺はポケットから煙草を取り出し、ライターで火をつける。

説明しておくと、警察が異形を捕らえた場合、麻酔によって異形化は解除されるが、経過観察として数日の間、身動きを拘束される。

そうなると、仕事を休まなければならなくなり、異形化した事が職場に広がることがある。

それが原因で職場の人間関係が一変し、退職を余儀なくされたり、精神的に追い詰められ、また異形化と、負のスパイラルに陥ることがよくある。

現代の異形たちが抱える問題点だ。

ちょうど煙草を吸い終えた時、公園前にパトカーが到着した。

助手席のドアが開き、車内から小柄な女性が、ポニーテールを揺らしながら飛び出した。

「やっぱり!また天谷さんですか!」

少し不満気ながらも、大きな声で俺の名前を呼んだ、この警官は、名前を日野梓という。

俺は彼女に対し、露骨にイヤな顔をする。

顔も体も小さな彼女だが、気が強い、というか、正義感が強く、思った事はズバッと言う、そんなイメージがある。

異形事件の担当にでもなったのか。

日野とは、一年ほど前から現場で会うようになった。

「やっぱり、またあんたか…」

「何ですか、その反応!」

「いや、日野と同じ反応だろ」

「天谷さん、どうも」

「あ、原さん、お疲れ様です」

運転席から降りてきたこの男は、原孝志。

日野梓の相棒兼師匠的存在(俺は勝手にそう思ってる)で、日野と現場で会う時は、原さんにも会う場合がほとんどだ。

角張った輪郭だが、優しい顔つきをしており、初対面でも親しみやすく感じるタイプだ。身長は一七七センチある俺よりも高く、一八〇センチ前後に見える。ややがっしりめの体格をしており、警官の制服も相まって、遠目から見ると威圧感を放っているように感じる。実際は、常に笑顔で、一緒にいると心が落ち着く、関わりやすい人だ。

「今回の異形さんも、家に帰ってもらったんですか?」

「はい。いつもすみません」

「いえいえ、異形化したとはいえ人は人ですから、こちらとしても、むやみに捕まえたりしたくありません。こちらとしても助かりますよ」

「で!も!無茶はしないで下さいね!天谷さん」

日野が口を挟む。

「はいはい、見ての通り無傷だから」

日野は俺の体をジロジロと見回す。

日野には何度か、俺と異形が戦闘しているところを見られた事がある。

最初に見られたのは、初めて日野と現場で会った日だ。

その日も「ゴリラタイプ」の異形で、なかなか痺れる戦いだった。俺の腹を狙った一撃をスレスレで躱しつつ、異形化を解いた。まさに紙一重ってヤツだ。

その一戦を見られたせいかは分からないが、日野はやけに俺の身を案じてくる。これがまさにありがた迷惑というやつで、ちょっとした怪我でも病院に連れて行かれそうになったり、見た目の酷い傷を負った時には、その場で泣き出しそうになった事もある。

まぁ、嫌な奴じゃないし、むしろ良い奴なんだけど、毎度毎度騒がれるようでは、流石に俺もやりづらいところがある。

実際、たまに大怪我をする時もあるが、肉弾戦で異形に触れる今のスタイルが、一番手っ取り早いし、楽に異形化を解除する事が出来る。

異形の動きを止めて無効化させるような道具があればいいんだが、と思う。

いや、あるにはあるのだが、民間人が個人で手に入れるのは、容易ではなく、信用の問題もあるが、少なくとも俺の財布からは出せない額が必要になるだろう。

「怪我がないなら良いですけど、何かあってからじゃ遅いですからね!たまには私たちを頼ってくださいよ」

日野が腰に手を当てて、ぷんぷん、といった感じで俺に言葉をかける。まるで漫画か何かのキャラクターみたいな奴だ。正義感の強さといい、この子供じみた動き方といい、いつも一緒に行動している原さんは、大変だなぁと思う。

「あぁ、出来るだけ頼るよう、努力するから。それじゃあ、また」

俺は原さんと日野に一礼し、別れを告げた。

帰宅後、俺は存在の忘れていた炒飯を冷えたまま平らげ、食器も洗わず、床に寝転がる。

「やっぱり、気温が上がってくると、激しい運動は体に応えるな…」

そう呟いた俺は、襲いくる睡魔に抗う事もせず、そのまま眠りについた。

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