第36話
それは、ただの想像上の存在。
空想を描いた物語の中でのみしか現れない、幻想だった。
なのに
「──ファー、フ?」
私は息をのむ。
唾液がうまく喉を通らなかった。
私はずっと、こんな化け物を有していたのだと考えると、震えが止まらなかった。
「ふははははは! 我こそ、真の竜なりて!!」
大きく、力強い声が城の中を駆け巡る。
硬い鱗、鋭い牙、長い尾に加え、大きな翼。
竜だ。本当に竜がいるのだ。
こんなのが目の前にいるという事実を、かき消して欲しいと皆が願っているだろう。
「……そん、な。まさか……ほんとに……」
驚きのあまり、聖女も言葉を失っていた。
「さあクロエよ。貴様が望むように、我も殺戮を開始しようぞ」
大きな首がこちらを向く。
心の中で味方だった少女の声では無い。もはやそれは恐怖の対象になった。
私は思わず、崩れ落ちてしまう。
「どうした? ああ、我のこの姿に驚いてしまったのか。貴様に見せるのは初めてだからなあ。カレオスよ、クロエを頼む」
「仰せの通りに」
背後から横から白髪の男が、私の肩を優しく掴む。
「……っ! 触らないでっ!」
私はカレオスの手を弾いた。
嫌悪感と恐怖が、私の脳を駆け巡る。
それと共に、苦しい後悔もやってきた。
「酷いですね、夫人。僕らはあなたの味方だ。冷たく突き放すのはやめて頂きたい」
「味方? ふざけないで! 私は、私は……!」
言葉が詰まった。
私は、私は──。
「──何が、したいんだろう」
人を殺して、殺して、殺した。
陛下も、ルークの仲間達も、全員。
呪いを解くのは仕方なかったとしても、もっと他に方法はあったはず。
解いたあとでさえも、私は殺すのをやめなかった。
何がしたくて、ずっと人の命を奪っていたのだろう。
「……あ……あ……」
深く、深く醜い後悔がやってくる。
精神を痛めつけ、私を攻撃した。
姉の声も、ルークの声も、メイド達の声も、もう何も聞こえない。
耳鳴りしか、私には聞こえない。
「う、うわあああああ!!」
騎士は、剣を手放し一目散に逃げる。
戦うわけでもなく、自分の命を優先したのだ。
「ほう? 貴様が一匹目か」
そして大きな竜は、逃げた男を大きな指でつまみ、顔の前まで持ち上げた。
体をばたばたと揺らし、泣き喚いている一人の騎士。
「やめ、やめろぉ! やめてくれえ!」
「いただきまあす」
彼の言葉は虚しく、竜の胃へと消えていった。
人間を一口で喰らえば、次は誰だと言わんばかりに目を泳がせた。
「……っ! 怯むな! 私達は、この竜を倒せる! なぜなら、神に見守られているからです!!」
聖女はそう鼓舞した。
恐怖に立ち向かう姿を見て、私も動かなければと感じる。感じるのだが、怖い。
「神よ。我が御心を、我らの祈りを、穢れから守りたまえ! 【
その魔法は、神の力によって騎士達の士気を上げ、身体能力も向上させた。
神聖力の使い手である聖女の魔法は、一般の魔法よりも効果が強かった。
「ねえマグナス、この前から何がなんだか分かんないんだけどー!」
「……俺も分からん。だが、俺らはあのドラゴンを殺さなければならなくなるだろうな」
「無理だよー! だって師匠もドラゴン側だし、多分クロエ様もでしょ? 私達に勝ち目ないじゃんか!」
そうしているうちに、竜は動き出す。
翼を上下に動かし、浮き出した。
「我は貴様らなんぞ興味がなくてなあ。我が望むのは、混沌だ」
竜は勢いよく飛び出し、城の天井を破った。
私達に注がれる皮肉なほど綺麗な太陽の光は、だんだんと赤黒い雲によって覆われていった。
私の瞳は、世界の終わりが近づいているのだと言いたいらしい。
「っ、いけません! 皆よ、あの邪竜を追うのです!」
聖女は焦りながらも、今しなくてはならない事を的確に指示した。
「ネフィア、マグナスさん。あなた達も一緒に来てくれませんか?」
「ええ、勿論です。聖女様」
「無理無理無理! あんなドラゴン倒せないよ! 絶対無理!!」
「……いけると言っています」
「それは良かった。では皆さん、行きましょう!」
そうして退陣していく聖女陣営。
あと残ったのは、死体と私とルーク、あとカレオスだ。
静けさが訪れたこの城内で、私は落ち着くことも出来ないままその場でただうずくまっていた。
「……ルーク、ごめんなさい。私、こんなつもりじゃなくて……」
涙を流しながら、謝罪をする私。
ルークを王にするだなんて馬鹿げた考えを持ったり、もっと強くなるために罪のない人々を殺したりした私は、もうどん底にいるのだとはっきり分かった。
どうしてそんなことをしようだなんて思ったのか、分からない。けれどきっと、自分の力を過信したからだと思う。周りを見ず、ファーフの事だけを信じ、彼女の言葉のみを聞き入れてきたから。
「……クロエ。とりあえず、こいつを殺せばいいんだな?」
うずくまる私の前を、甲冑を着た男が通った。
剣を拾い、白髪の魔法使いと戦う気を示したのだ。
「ルーク、だめ、だめです。そんなの……!」
「はぁぁぁっ!」
ルークはカレオスに斬り掛かる。
魔法使いと剣士が戦っても、勝つのは魔法使いだ。そうに決まっているのに。
「ふふっ。夫婦揃って、仲間想いなのですね」
カレオスは一切動じる事無く、ルークの動きを止めた。
手を後ろに組み、余裕の表情を見せつける。
「師匠……いえ、ファフニール様の邪魔をしないという約束をするなら、おふたりとも見逃してあげます。このまま帰って、幸せに暮らしたいでしょう?」
カレオスはそう私達に提案した。
街が破壊され瓦礫が崩れ落ちる轟音や、人々の悲鳴は、耳をすまさなくとも聞こえてきた。
「……クロエ。俺はお前にどんな事をされても、どんなに嫌われても、俺はお前を愛し続ける。約束だ」
嫌な予感がした。
震えが止まらない。
この先の言葉を言わないで欲しかった。
「だからクロエ、許してくれ」
そう言ってルークは力ずくでカレオスの魔法を打ち破り、彼の首元を狙って剣を大きく振った。
「はあ、可哀想に」
「ごふっ……!」
ルークの胸元に貫かれていたのは、先刻戦った時に使用された月光の槍だった。
口から血を吐き、力を失い倒れたルーク。
私は急いで彼の元へと駆け寄る。
「ああ、だめ、ほんとに、なんで……」
「……すまない」
私は彼の顔を覗き込んだ。
雫を彼の顔に落としながら、ぐしゃぐしゃになりながら、私は彼の黒い髪を撫でた。
「ルーク、置いていかないでください。私、あなたの事を愛してるんです……!」
言いたいことがありすぎて、上手く伝えられない。
そんな事を汲み取ってか、彼は最後の力をふりしぼり、私に口づけをした。
私はそれに必死にしがみついた。離したくなかった。だけど現実は無情にも、彼はそれを最後に脱力した。
「……ルー、ク?」
私はその現実を受け止めきれず、名前を呼んでみる。呼べば返事をしてくれると信じて、何度も、難度も名前を呼んだ。
「ルーク、ルーク、ルーク、ルーク!!!!」
期待しているような現実はやって来なかった。
ただ遺されたのは、深い愛と絶望のみだった。
「……もういいですか? 僕はだいぶ待ったのですけれど」
私は彼に問いかける。
「……教えてください。どうしてファーフは、急にあんなことをしだしたのですか?」
私は絶望に浸りながら、真実を求めた。
カレオスは答える。
「僕達は、夫人が生まれる前からこのような計画を立てていました。師匠の願望である人類の破滅、そして一からの再生に向け、僕達は日々タイミングを伺っていたのです」
続けてこうも言った。
「レイナの血を受け継ぐあなたは、丁度師匠の器にピッタリだったのですよ。いやはや、流石としか言えませんね」
私は上手く扱われ、この時が来るまでの潜伏先だったというだけらしい。
もう何も考えたくない。涙も枯れきった。
疲れた。
「それに、まさかこんなにも大勢の魂を集めてくれるなんて思ってもいませんでしたよ。ありがとうございます、本当に」
私がしてきたことは、まるで死神のような所業だった。無差別に魂を集め、魔力として喰らう。
こんなはずじゃなかったのに。
押し寄せる後悔に、私は耐え切れる気がしない。
「さあ、夫人……いえ、もう夫人ではありませんね。改めて、女王陛下。参りましょう」
カレオスはこれでもかと私の地雷を踏み抜いていく。
もういい。どうにでもなれ。
私はカレオスに差し出された手を取り、破滅の瞬間を見届けるため共に歩んだ。
ただただ死を考えながら、私はヒールを鳴らしていた。
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