第10話【亡者】
時間を戻したい。
もしも事故物件だと知っていたら、こんなところに入居などしなかった。
あるいは昨日の時点で二度と部屋に戻らない選択を取っていれば、危険を回避できた。
いや、そもそも両親の反対を押し切って一人暮らしなど始めなければこうはならなかった。
そう、両親は応援などしてくれていない。
自分一人の力で生きていけることを証明したいという、私の無謀な見栄でしかないのだ。
これは、傲慢さゆえに親友に嘘をついた罰なのかもしれない。
…そうだ、美希。
彼女は無事なのだろうか。
きっと隣に倒れているはず。
彼女こそこんな理不尽な目にあってはいけない。
常に私のことを気にかけ、どんなワガママに対しても嫌な反応ひとつせず助けてくれた。
さっきだって一人で逃げることもできたはずなのに、私をかばったばかりに巻き込まれてしまった。
美希だけは、どうか…
力を振り絞って伸ばした手が、たまたま美希の手と重なった。
まだ温もりはあるものの、動く気配がない。
そんな私の動きに気付いた男が下卑た笑いを溢す。
「大人しくしてれば二人とも気持ち良くしてやるよ」
ああ、私達の人生はこんな男によって終わらされるのか。
こんな男に…
男…
男…
何故かふと、美希の言葉を思い出す。
確か美希はあの時こう言ってた。
“髪の長い女だった”
次の瞬間。
パリンッ!とキッチンの方から皿の割れる音が響いた。
「あ!?」
私の下着を掴んでいた男の手が驚きで止まる。
「ちっ、まだ他にもいたのか。おいお前、そこを動くなよ!」
声が私の方を向いていない。
その言葉は私に対してではなく、キッチンの方角に向けられていた。
美希は隣にいる。
じゃあこの男は一体誰に話しかけているというのか。
男が慌ただしく立ち上がり、ドタドタと威圧的な足音を鳴らしながらキッチンへと向かう。
「…?」
しばしの沈黙に耳を傾けていると、男が突然けたたましい唸り声を上げたではないか。
「うっ、うわぁああ!」
窓から吹きすさぶ風がひときわ強くなり、ひゅうひゅうと女の金切り声のような恐ろしい悲鳴が室内に反響する。
キッチンからはドスンと尻もちをついたような大きな振動が、床越しに伝わってきた。
「なんで…お、お前……死んだんじゃ…!」
男の声が恐怖の色で染まっている。
体を引きずっているのだろうか。
ずず、ずずず、と布切れを擦る音が奥へ奥へと移動していった。
…私は間違っていた。
昨日からこの部屋で起きていた異様な出来事は全て、私を狙う男によってもたらされたものだと思い込んでいたが、そうではない。
ここには“彼女”も最初から居たのだ。
彼女もまた、この男を狙ってずっと息を潜めていた。
「…ひっ!」
慌てる男が、壊れんばかりの勢いで玄関のドアノブをガチャガチャと激しく動かしているようだったが、扉は一向に開く気配は無い。
「く、来るなぁあ!!」
ドッドッドッ!と怯えた足音が地響きを生みながら私の隣を走り抜け、窓の外に飛び出す。
男が逃げる。
しかし、嵐のごとき暴雨と雷鳴が彼を包み込んだその刹那、耳を塞ぎたくなるような断末魔が世界に響き渡った。
「ああぁあぁあぁあ!!」
男の悲痛な声が墜ちていく。
下へ
下へ
下へ
どこまでも
そして…
ゴッ!
未だかつて聴いたことのないほど鈍い破裂音が、遥か下のアスファルトからこの6階まで届いた。
私は生涯、その音を忘れることができないだろう。
そしてその直後、誰かの悲鳴が階下から沸き起こり、連鎖する。
盲目の私と違って、無惨な男の姿を見てしまった哀れな住人達の悲鳴。
「…うっ」
不意に、隣から小さなうめき声が。
それと同時に、重なっていた手がピクリと反応し、私の指先を弱々しく握るのを感じた。
「…美希?」
そうだ、いつまでも倒れている場合ではない。
一刻も早く救急車を呼ばないと。
ぐったりと鉛のように重い体を無理矢理起こし、電話をかけながら横たわる美希の体を支える。
怪我をしているわけでもないのに、どうやら私もこれ以上は動けそうにない。
とにかく今は救急車が来るまでの間、このままじっとしていよう。
ざあざあと降り注ぐ雨が、全てを洗い流してくれることを祈りつつ。
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