第9話【傲慢】


美希が着替える間に、私も出発の支度をするためリビングへ向かった。

テレビやエアコンを止めると、あれほど音に溢れていた室内が嘘のように静まり返る。

雨音だけが相変わらず響く中で、私は淡々と出発の準備を進める。

着替え、タオル…いや、財布とスマホだけでいい。

割れたお皿も、片付けはまた後にしよう。

あんなに怯えた美希の声を聴いたのは初めてだ。

とにかく今は、すぐにでもこの部屋から脱出することだけを考えるべきだろう。

私はテーブルの上のスマホを取り、あらかじめ財布を入れていたショルダーバッグに押し込む。

あとは美希が着替えるのを待つだけ。


その時だった。

ふと背後からカタ…カタ…と微かに物音が聴こえてきたではないか。

窓の方からだ。

ぐっと息を飲み込み、恐る恐る振り向きながら音に意識を集中させる。


………カチャリ


それはまるで錠を開け閉めした時のようなほんの微かな金属音。


…カタ…カタ…


今度は、窓がゆっくりスライドする時の音。

途端に、外から聴こえる雨音が大きくなった気がした。

それだけでなく、一陣の隙間風がスッと部屋の中を吹き抜け、私の髪の毛を揺らすのを確かに感じた。

間違いない。

窓が開いたのだ。


「……美希?」


…ペタ…ペタ…


水気を帯び、重く湿った足音が窓の外から室内に入り込んでくる。


「……美希」


それが美希のものでないのは明らかだった。

なのにその場から動くことができず、私はただただ美希の名を呼んでいた。

もしかしたらこれは私の気のせいなのかもしれない。

そうであってほしいと願う愚かな心が脳に蓋をして、思考を放棄させる。

実際は足がすくんで動けないだけにも関わらず、だ。


…ペタ…ペタ…


立ち尽くす私に、みるみる足音が近付く。

それはもうすぐそばまで来ていた。


「早苗!!」


美希の絶叫と共に、グイッと腕が後ろに引っ張られる。


「うっ…」


その直後、小さなうめき声を上げて、美希が私に寄りかかってきた。

ずしりとした体重を全身で受け止め、慌てて手を回して支えると、手のひらにベタッとした生温い液体が纏わりついた。

私の腕をずるずるとすり抜け、力無く崩れ落ちる美希。

彼女を支えそこなったまま硬直した左手が、微かに血の匂いを漂わせていた。


「…え」


放心して立ち尽くす私を、急に強い衝撃が襲う。

押し倒されるような形で床に背中を強く打ちつけ、キーンと耳鳴りが頭に鳴り響く。

だがその痛みを感じる暇も無い内に、誰かが私の上に覆いかぶさって口元を塞いできたではないか。

僅かにはみ出た鼻で必死に息を吸い込むと、何日も体を洗っていないような汗や皮脂を彷彿とさせる刺激臭が鼻の奥に充満し、思わずえずきそうになった。


「騒いだら殺す」


ボソボソとした低い男性の声が、私の耳を犯す。

耳鳴りのせいでその声は遠く、水中で聞いているみたいにぼんやりしているものの、この匂いと声を私は知っている。

昨日、引っ越しの挨拶の時に感じたそれと全く同じ。

隣の部屋の住人だ。

その男が私の部屋に押し入り、美希と私を襲った事実をようやく認識できた。


「動くなよ」


私の喉元に冷たい何かが当たる。

鋭利で硬い、金属性の何かが。

恐ろしさのあまり声が出ず、指先すらも動かせない。

まるで自分の体が人形にでもなった感覚。

男の荒い鼻息を顔に受けながらも、私はどこまでも受動的だった。


「…良い子だ。前の女と全然違う」


ベタついた男の舌が、悪意を持って私の首筋を這いずり回る。

未だかつて感じたことのないような身の毛もよだつ不快感。

まるで焼きごてを押し付けられたみたいに、男の触れた部分がヒリヒリと強い痛みを放っている気がした。

一方で心は凍りつき、こんな目にあっているというのに頭の中は嫌に冷静だった。


…前の女。

この部屋に以前住んでいた住人のこと?

そうか。彼女もきっと同じ目にあって殺されたか、心を病んで自殺したんだ。

何が幽霊だ。

そそがれた視線の正体も、部屋に忍び込んでベッドの下にいたのも、全部この男だった。

どうやって窓から入ったのかは知らないが、昨日私を襲うのに失敗してまたやってきたに違いない。

やはり私は間違ってなかった。

だが、そんな真相を今さら知ったところでどうにもならない。


私が一体何をした。

こんなの嫌だ。私の人生じゃない。


しかし哀しいかな、どれほど心が拒絶しようとも時は無情に進んでいく。

男によって全身をまさぐられ、強引に上着を脱がされる。

“その時“は着実に近づいていった。

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