第8話【確信】


ざあざあと大粒の雫がマンションの屋根や壁、窓を容赦なく叩き続ける。


天気予報は見事に的中した。

バケツをひっくり返したような大雨、というと少し大袈裟な気もするが、まさにそんな感じのどしゃ降り。

無論、本当に水いっぱいのバケツをひっくり返したところで窓も扉も閉め切ったこの部屋の中には一滴の水すら染み込む余地はないのだが、それでも強風と相まって巻き起こる激しい雨音はマンション全体をぶるぶると揺さぶっているような錯覚さえ抱かせる。

そんな恐ろしげな自然の怒鳴り声を掻き消すため、テレビの音量は普段のそれよりも随分と大きくなっていた。


バラエティー番組の中でお笑い芸人がなにやら大袈裟なリアクションを取っているようだが、音声だけでは何が起こっているのかさっぱり分からない。

テレビ番組というのは視聴者が画面を見る前提で作られているのだから、ラジオと違って耳だけでは楽しめなくて当然なのだろう。

それでもずっと仏頂面でいるわけにもいかず、ガヤの下品な拍手や笑い声に合わせて隣で時折ケラケラ笑う美希と一緒に、私もとりあえず口角を上げる。

退屈だが、寂しくはない時間。

今はそれだけで充分だ。


やがてその番組が終わったのか、笑い声に代わってシックなジャズ風の音楽が流れ出す。

これは毎晩21時に始まるニュース番組のオープニングテーマ。

番組名は確か…ニュースナイン。


『こんばんは。ニュースナインの時間です』


当たり。

男女のキャスターの丁寧な挨拶を聞き流しながら、もうそんな時間かと驚く。

キリもいいところだし、寝るための準備を始める頃合いだろう。


「そろそろお風呂にしよっか」


「あー、そうだね。もう9時だしね」


「着替えとか持ってきてる?」


「うん、一通り詰め込んできたから大丈夫。私シャワーだけでいいから、先にササッと浴びてくるよ」


ニュース番組の穏やかなナレーションを、がさごそとバッグを漁る雑音が遮る。

しばらくすると足音が遠ざかったため、何かあったらすぐに言ってねと声をかけた。

オッケー!と軽い返事の後、パタンと浴室の扉が閉まる。

私はテレビの音量を少しだけ下げ、スマホをテーブルの上に置いて食後のお皿を片付けることにした。

フォークをよけつつ2枚の平皿を重ねて持ち上げると、ほんのりパスタソースの残り香が鼻腔を抜ける。

料理にあまり自信はない方だが、お皿に重量感は無いので残さずたいらげてくれたようだ。


一歩踏み出すごとにカチャカチャ鳴る食器を落とさぬよう慎重に台所へと運んでいると、サーッと奥の方からシャワーが水音を奏で始めた。

最初は静かだった音色が美希の体に触れるや、ばしゃばしゃと弾けて派手な音に変わるのが分かった。

こちらも食器を流し台に置いて蛇口をひねると、同じような水音が交わって二重奏が始まった。

いや、三重奏か。

ばしゃばしゃ、じゃばじゃば、ざあざあ。美希が体を洗う音と、私が食器を洗う音、それに窓を打ちつける雨音。

耳を澄ませるとそこにニュースキャスターの声、さらには美希の鼻歌がミックスされる。

何とも形容しがたい不協和音にふふっと笑みをこぼしながら、私は黙々と皿を洗う。

そんな中


『………ぅ…』


不意に、そのどれでもない音が一瞬よぎった気がした。

お皿を持つ手が止まり、意識は耳に集中する。

聴き逃してしまいそうなほど小さな音だったが、それは繰り返し鼓膜をくすぐってきた。


『……を……@な…#%』


この音…。

これはスマホの入力音声。

途切れ途切れで意味不明な文字列だが、まるでリビングの方から私を呼んでいるようで気味が悪い。


『……ゃ……§…ひ≠………』


文字を打ち込んでもいないのにひとりでに音声を発するなど、故障でもしたのだろうか。

それにしても、さっきからノイズに混じって聴こえるスマホの声がいつもの様相と明らかに違う。


『…ぃ………ぁ…ぎ………』


あの独特で機械的な発声でなく、なんというかこう、どこか生々しい。

まるで誰かが電話口で直接囁いているような…


「キャー!!」


突然、美希の絶叫が空気を切り裂いた。

ビクッと体が跳ねる。

驚きのあまり落とした皿が、流し台の上でガシャンと割れる音がした。

だがそれ以上に浴室から漏れ出るバタバタと暴れるような激しい騒音が心をざわつかせる。


「美希!?」


駆けつけた私が浴室の扉を開けると、再び悲鳴が上がる。


「きゃっ!」


「美希、大丈夫!?」


「…あ、早苗…」


私の姿を認識して、声のトーンがやや下がる。

それでもその声色は凍えるような震えを帯び、ただごとではない様子を感じさせた。

それに、聞こえてくる声は本来彼女の口があるはずの位置よりもかなり低いところから発せられていた。

恐らくその場にしゃがみこんでいるに違いない。

流れっぱなしのシャワーから跳ねる水滴を足下に受けながら、私も膝を曲げる。


「どうしたの?」


「…誰かが立ってた。そこに…」


「…え?」


きっとどこかを指差しているのだろう。

私には見えないが、その指先が震えながらすぐ近くを示しているであろう事実は容易に想像できた。

いずれにせよ、私達2人しか居ないこの密閉された一室に3人目がいるなどということはあってはならない。

もしも何かがいるとするなら、それは…


「…髪の長い女だった」


幽霊。

美希の言葉で、確信する。

やはりこの部屋は、名ばかりの事故物件ではなく、本当に亡者が住み着いているのだ。

途端にぶるりとした悪寒が体中を駆け巡り、全身の毛が逆立つような恐怖心に駆られた。


いきなり、ぎゅっと腕を掴まれる感触。

反射的に振り解きかけたが、これは美希の手だとすぐに気付いた。


「やっぱりあたしの家に行こう。ここはヤバい…」


普段の彼女からは決して出ないであろう、か細い声に私は頷く。


「すぐに準備するね」


断る理由など無かった。

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