第7話【親友】
「お待たせ〜。ごめんね、遅くなっちゃって」
「こっちこそごめんね、急に呼び出したりなんかして」
聴き慣れた友人の声に、ずっと張っていた肩の力がようやく抜ける。
結局夜が明けるのを待って、私は美希に電話をかけてしまった。
電話越しに、申し訳なさと情けなさで歯切れの悪い私に対して、彼女は溜め息を吐くことも声のトーンを落とすこともせずに快く了承してくれた。
ありがたい限りである。
ただ、「ちょっと寝てから行くね」と夜勤明け特有の気だるそうな返事を聞いてから、まさか到着が8時間後になるとは思わなかった。
昼が過ぎ、夜を目前にして、もしかしたら来ないんじゃないかという不安が数え切れないくらい頭の中を行き来して、何度催促の電話をかけようと思ったことか。
それでも彼女はちゃんと約束を果たしてくれた。
その事実と、孤独を脱した安堵に泣きそうになりながら私美希を招き入れた。
ピタリ。
玄関に入った美希から音が消える。
いつもならすぐに靴を脱いで上がりこむのに、今日は何故か立ち止まっていた。
「…美希?」
「今朝電話で言ってた事故物件って話、ほんと?」
「…うん。私の前に住んでた女の人が飛び降り自殺したんだって」
「ふーん…」
美希はそれ以上何も言わず、代わりに靴を脱いだ足の柔らかい音がペタペタと部屋の中へ入っていった。
きっと周囲の様子を窺っているのだろう。
急に止まったり、進んだりと、どこか迷いを感じさせるその不安定な足音に、私の動きまでぎこちなくなる。
「…それで、どうするの?」
「え?」
急に美希から脈絡の無い言葉をかけられ、私は立ち止まる。
「このままここに住むの?」
「…ううん。さすがに事故物件は怖いから他のところを探そうかなって」
「だよね。いくら安くても気持ち悪いよね」
「ごめんね、せっかく引っ越し手伝ってもらったのに…」
「気にしなくていいよ、早苗は何も悪くないんだし」
「………」
そうは言っても、この部屋を選んだのは私自身だ。
不動産会社に騙されるような形になってしまったとはいえ、こちらももっと慎重になるべきだったという後悔が喉を詰まらせる。
「テレビつけていい?雰囲気が暗いと本当に幽霊出てきそうだしさ」
「いいよ」
重苦しい空気を払拭する、美希の明るい声。
今日ほど彼女の存在を強く頼もしく感じたことはない。
『今夜から明日朝にかけて大雨となるでしょう』
テレビをつけるなり、まるで狙いすましたかのようなタイミングで女性アナウンサーが天気予報を読み上げる。
「げっ、大雨だって!早苗知ってた?」
大げさな美希の反応に、自然と笑みがこぼれた。
普段なら煩わしく思うであろう些細な会話ですら、今は嬉しかった。
「なんで笑ってんのよ?…あ、もしかしてこのまま大雨で帰れなくなればいいのにとか思ってる?」
「そんなこと…」
ちょっとだけ思った。
また独りになりたくない。なるべく一緒にいて欲しい。
それが今の正直な気持ちだ。
心を読まれたみたいでぎょっとしたが、そんなに表情に出てたのだろうか。
なるべく感情を顔に出さないようにしているつもりだが、私自身が声のトーンでしか相手の感情を読み取れないのもあってか、表情に対する意識が甘いのかもしれない。
緩んだ頬の筋肉を、キュッと引き締める。
「まあどうせ今夜はここに泊まるつもりだったけどさ」
「そうなの!?」
だが、そんな思ってもみなかった美希の言葉に、せっかく下げた口角が再び上がってしまう。
「あー、また笑ってる。そんなに嬉しい?」
「うん。さっきだって美希が来るまでずっと怖かったんだもん」
「ほんとはウチに泊めてあげたかったんだけど、部屋が散らかってるからさ。ごめんね」
「ううん、ありがとう。凄く嬉しい」
「お酒も買ってきたから、今夜は飲もうよ」
ドサッと、床が音を立てる。
中身の詰まったバッグが無雑作に置かれたような鈍い音だった。
今まで気がつかなかったが、きっと泊まるための荷物を色々と準備してきてくれたのだろう。
こんなに嬉しいサプライズはない。
幽霊すらも追い返しそうな陽気さを持つ彼女となら、たとえ嵐だって乗り切れる。
不安はいつの間にか消え、むしろ楽しみにさえ感じていた。
「あ、降ってきたよ、雨」
美希の声に混じり、窓の外からはポタポタと小さな雨音が鳴り始めた。
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