第3話【入居】
「おー、荷物も全部片付けたんだね」
リビングに反響する美希の声を聞き流しつつ、私はザラザラとした壁の表面を手でなぞってキッチンへと向かった。
この部屋には荷物の運び出しなどを含めてまだ3回しか来ていないため、間取りや家具の正確な配置を覚えるのも一苦労だ。
恐らく一ヶ月もすれば特に支障なく暮らせるだろうが、まだまだ道のりは遠い。
私は手探りで冷蔵庫からペットボトルの紅茶を、棚から袋詰めのクッキーを取り出し、リビングに持っていく。
あまりゴミを出したくないためペットボトル飲料は滅多に買わないのだが、最近は引っ越しに追われて自分でお茶を作る余裕がなかった。
感覚を頼りにそれらをテーブルの上に置くと、美希が感心したように声を上げた。
「凄いね、どこに何があるか分かるんだ」
「まだ全部じゃないけどね、だいたい実家にいた時と同じ並べ方してるから」
「お父さんやお母さんは心配してないの?」
「応援してくれてるよ。心配はしてると思うけど、私も自分なりに自立をしてみたいから。…飲み物はペットボトルのままでいい?」
「全然大丈夫。クッキー開けるね」
ガサゴソと袋を破く音。
私はその間にテーブル上に置いてあるリモコンに触れ、暖房のスイッチを押す。
ピッと音が鳴り、エアコンが唸りを上げた。
これで温風が出るはずだが、私には設定温度までは確認できないため、美希にリモコンを見てもらう。
「これって何℃になってるかな?」
「ん?28℃」
「このままで大丈夫?」
「うん、どうせもうちょっとしたら帰るから。リモコンから音声とか出ればいいのにね」
「最近はそういうのもあるみたいなんだけど、このエアコンはもともと設置されてたものだからさ…」
「1LDKで、家電とか一通り揃ってて家賃3万円でしょ?びっくりするくらい安いよね」
「本当、運が良かったと思う。不動産屋さん4ヶ所くらい回ったけど、他は全部断られたし」
「マジ?障害者だから?」
「うん…」
全盲の人間を住まわせて、万が一火事を起こされたり、階段から転落したりなどの事故が起きれば面倒なのだと、3軒目に問い合わせた不動産屋曰く。
こんな体だ。
絶対にそんなことは起こりません!とは言い難く、仮に大口を叩いたところで取り合ってはくれないだろう。
そういった目に見えぬ障害は社会の至るところで足下から不意に現れ、悪意すら無く私を躓かせてくる。
「ひどいねー」
「…そうだね」
か細い私の返事を、もしゃもしゃとクッキーを咀嚼する音と、紅茶を飲み込む音が掻き消す。
本当、ひどい話だ。
私は笑うことができず、俯いて口元を隠す。
すると不意に布生地が擦れる音がした。
「ちょっとトイレ借りるね」
美希が立ち上がり、リビングを出たようだった。
ガチャリと扉が閉まるのを確認して、私は肺に溜まっていた空気を吐き出した。
その時。
突然嫌な耳鳴りが頭に響く。
あらゆる音が遠く感じ、キーーンという不快な高音が世界を支配するこの現象は、特に視界の無い私にとっては不愉快極まりない。
何が引き金になったかは知らないが、早く引いてくれるのをただただ祈るばかりだ。
しばらくして、トイレの方から水の流れる音が聴こえてくると同時に耳鳴りが止んだ。
あれほどしつこく鼓膜に纏わりついていたのが嘘のように、今では美希が手を洗う音だけが漂っている。
早めに収まってよかった。
扉を開けて戻ってきた彼女を私は安堵の表情で迎え入れる。
しかし対する彼女の声色は先程までと違い、何故かこわばっていた。
「…早苗。さっきトイレの前に立ってた?」
「え?ずっとここに座ってたけど」
「本当に?」
「うん。どうかしたの?」
「…ううん、何でもない」
美希はそれだけ言って再び座ることはせず、そのまま帰ることにしたようだった。
「じゃあ私、そろそろ行くね」
「そうなの?」
「うん、今日夜勤だしさ。早めに帰ってちょっと寝る」
「忙しいのに今日はありがとう」
「別にいいって。もし何かあればまたいつでも連絡してよ」
玄関に向かった美希の後を、壁伝いに追う。
私が着く頃にちょうど靴を履き終えたようで、靴底と石床が擦れる音がした。
「じゃあ頑張ってね、一人暮らし」
「うん、頑張る」
美希がチェーンを外して扉を開けると、びゅうびゅうと一瞬だけ強い風が室内に押し入り、閉じ込められていた空気を洗い流す。
コツ、コツ、コツ…。
彼女の足音が遠ざかるのを確認して、私は再び扉を閉めた。
バタン、と風圧に押されてやや大きな音が鳴る。
何はともあれ、これでようやく一人暮らしの始まりだ。
扉に鍵をかけた私は軽い足取りでリビングへと戻ると、まずはリモコンを手に取ってエアコンの電源を切った。
やや肌寒い気温ではあるが、我慢できないほどではない。
光熱費の節約も一人暮らしの課題である。
リモコンをテーブルに置き、今度はそのまま放置されたクッキーの袋とペットボトルを台所まで運ぶ。
袋を台の上に置き、重さから察するにまだ半分くらいは入っているであろう紅茶は傾けて流しに捨てた。
ドボドボという水の流れに伴って、右手が軽くなっていく。
私は音が止むのを確認してボトルからラベルを剥ぎ取ると、それぞれを分別してゴミ箱に放り込んだ。
すぐに片付けずにその場に残すと記憶した家具などの配置のイメージが狂うため、こうした几帳面な生き方が自然と身に付いていた。
パタン!
と、いきなり何かが足元で音を立てた。
ビクッと硬直した私は、恐る恐る身を屈めてその場所を手で探る。
すると指先にカサッとした感触があった。
クッキーの袋である。
ちゃんと安定した場所に置いたはずなのに落ちるなんて変だなと思いつつ私はそれを拾い上げる。
やはりまだ頭の中でイメージする室内の様相が実際のそれと一致していないのだろうか。
まあ、まだ3日目だ。
これから何度もこういうことを経験しながら慣れていくしかない。
私は冷蔵庫の中にクッキーをしまうと、溜め息と共に扉を閉じた。
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