第4話【異変】


すっかり夜も更けた頃、私は再び冷蔵庫を開いた。

中から取り出したるは、開封済みのクッキーと晩酌用に買っておいた缶チューハイ。

冷えきった缶の表面がお風呂上がりで火照った私の掌を拒絶してくるが、離すものかと指に力を込める。


キンキンに冷えたお酒。

冷たくほろ苦い液体が口いっぱいに広がる瞬間が待ちきれず、口内では早くも唾液が滲んでいた。

しかしゴクリと喉を鳴らしながらリビングへと向かった私は、それらをテーブルへ置く際にある異変に気付いた。


「…あれ?」


リモコンが無い。

どんな小さなものも、使ったら必ず元の場所に戻すようにしている。

ましてやリモコンはつい数時間前に触れたばかり。

無くなるはずなんてないのに。

私はその場で四つん這いになり、フローリングマットの上を丁寧に撫でる。

だが湿った掌で感じるのはゴワゴワとした布生地の感触ばかり。

テーブルの下や棚の隙間、思いつく限りの場所をどれほど探っても一向に出てくる気配はなかった。


最悪だ。

夜の冷気が徐々に部屋の温度を下げる中でこの厳しい仕打ち。

真冬でないだけマシとはいえ、何日も暖房無しで過ごすのは堪え難い。

こんなことになるくらいならいっそつけっぱなしにしておけば良かったとは今更。

ハァ…と溜め息が漏れる。

申し訳ないが、また近い内に美希を呼んで探してもらうしかあるまい。

とりあえず、今は飲もう。

私は気持ちを切り替え、缶のプルタブに指をかけた。


プシュッと炭酸ガスを祝砲の如く響かせ、早速グビグビ喉を鳴らしながらチューハイを流し込んだ。

桃の良い香りが鼻を抜け、甘ったるい人工甘味料とアルコールの苦みが舌に染み渡る。

優雅な晩酌がやけ酒のようなシチュエーションに変わってしまったことは否めないが、味覚は正直だ。

美味しさに変わりはない。

ホッと甘い息を吐き出した私は、缶を置いてスマホを手に取った。


『23時32分』


画面を開くと同時に、機械的な女性の声が早口で再生される。

最近のスマホは表示された文字を逐一読み上げてくれる機能があり、そのおかげで目が見えなくとも他の人と同じように使うことができるのだ。

この音声、慣れていない人にとっては早すぎて全く聴き取れないらしいが、読み上げが遅いと操作に時間がかかるため私は最速で設定していた。


『デバイスのロックを解除しました ホーム画面 2月14日 水曜日』


どの位置に何のアプリがあるかなど既に熟知している私は、見えなくとも迷わず指を動かす。


『LINE トーク 美希』


ごめん、明日来れる?

と美希にメッセージを打とうとして、ふと指が止まった。

確か今日は夜勤だと言っていた。

夜勤明けにリモコンを探してもらうためだけに呼び出されるなど、はたして彼女はどう思うだろう。

せっかく一人暮らしを始めたというのに、こんなことすら自分で解決できないで何になるというのか。


溜め息が、また一つ。


『ご ごめ ごめを削除しました』


自問自答が何度も指を迷わせ、メッセージの入力と削除を繰り返させる。

いつまで経っても煮えきらない文字の羅列を一々スマホが発声する様は滑稽ですらあった。

どうしたものか…と悩んだ挙げ句、私はひとまずスマホを置いて酒をあおった。


その時である。

どこからともなく一陣の冷たい風がツツツ…と私の首筋をなぞった。

虫に這われているかのようなおぞましい感触に、思わず身震いが起こる。

エアコンもついていない閉ざされた部屋の中、風が発生する道理などあろうものか。

私はとっさに振り向く。

この方向は、確かベランダだ。

酒缶をテーブルに置き、立ち上がって窓の前に向き合う。

恐る恐る手を伸ばすと、指先に何かが纏わりついた。


「〜っ!」


悲鳴が喉から出かかって、慌てて飲み込む。

不意の出来事に驚きはしたものの、この感触はふわりと浮き上がった遮光カーテンに他ならないとすぐに気付いたからだ。

どうやら窓に隙間が開いていたらしく、時折弱々しい風がカーテンを靡かせていた。

ただの自然現象だったことに安堵しつつ、私は窓の縁を掴み、ぐいっと右にスライドさせる。

窓ガラスによって切断された風がひゅうひゅうと不気味な断末魔を上げたのを最後、やがて静寂が訪れた。


しかし風が止んだ後も、肩に入った力は抜けない。


どうして?いつから?

記憶を隅々まで辿り今日1日の行動を思い返してみたものの、窓を開けた覚えなどこれっぽっちもなかった。

そもそもである。

たとえ覚えていないとしても、どのテレビ局も一様に寒波がどうの、積雪がどうのと騒ぎ立てているこの肌寒い時期にわざわざ冷気を招き入れるような馬鹿な真似をするはずがないのだ。


ぶるりと体が震える。

背筋を伝う寒気に耐えかねた私は、ベッドに座って羽毛布団をぐるりと全身に巻きつけた。

足の指をぎゅっと閉じ、肩を小刻みに揺らす。

室内には私の動きに合わせてギシギシと軋むベッドの小さな悲鳴だけが嫌に響いていた。


美希がいたずらで開けたのだろうか?

…いや、そんな素振りはなかったし、第一彼女はそういうことをするような人間ではない。

では私が留守の間に両親か大家さんが上がり込んだのだろうか?

…連絡も無しに?

いずれにせよ、揺るぎない事実が一つ。


“誰かがこの部屋に入った“


今の今まで確認できなかったことが余計に不安を煽り、恐怖が胸の中でぶくぶくと膨れ上がっていく。

あの窓は本当に、私がお風呂に入る前から開いていたのだろうか。

もしも入浴中に何者かが侵入してきたのだとしたら…


不安というものは一度でも根付いてしまうと際限なく広がっていき、やがてそれ以外のことを考えられなくなる。

もはや私には、今も誰かが部屋の片隅でそっと息を潜めてこちらを見ているような気がしてならなかった。


そんな焦りからだろう。

途端に先程まで脳内に記憶していたはずの家具の配置がぼやけて、自分がどこを向いているのかさえ曖昧になる。

頭が真っ白になるとはこういうことか。

視覚に頼ることができない私にとって、それは自分の周囲から世界が消滅したに等しい絶望だった。


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