第2話【挨拶】
国道から小道へと入ったのだろう。
やがて車はぐねぐねと右へ左へ小回りをするようになった。
お世辞にも丁寧とはいえない運転に辟易しつつ、私は溜め息を飲み込んでシートの両側をぎゅっと掴む。
そうして体を固定しないと窓に頭を打ちそうな程にスピードが出ていた。
もう少し速度を落とせばいいのに、という言葉が喉から出かかって、うっすら開いた唇を閉じる。
善意で引っ越しを手伝ってくれているのだ。
感謝こそすれ、不満を抱くなど何様のつもりだろうか。
幸いにも、そんな私の理不尽な棘が口を突いて出るよりも先に目的地であるマンションに到着した。
ピー、ピーという音を放ちながら車はノロノロと後ろ向きに進んだ後、待ち構えていた縁石によってぐいっと押し止められる。
エンジンが切られたことにより、ちょうどサビの直前で音楽が鳴り止んだ。
「じゃあちょっと待っててね」
と美希が車の外へと出る間に私もシートベルトを外し、よれていたスカートの皺を手で伸ばした。
美希が助手席のドアを開けると同時に肌寒い風が石鹸の香りを押し退け、車内を急速に冷やしてきた。
忘れていた寒さに出鼻を挫かれていると、私の手に美希の掌が重なる。
温かい。
私は差し出された手に体重を預けながら車から降りた。
「ありがとう美希。杖とタオルは…」
「もう取ったよ。使う?」
「大丈夫。でも杖は私が持つね」
四つ折り式の白杖は、目の見えない私が歩く際に欠かせないものだ。
そのまま美希の腕を掴み、ゆっくりと歩幅を合わせる。
白杖は邪魔にならぬよう垂直に立てて、足先数センチの距離だけトントンと叩きながら慎重に進む。
「ここ段差あるよ」
今まで何度も手助けをお願いしてきた彼女の先導は手慣れたもので、こちらが躓かないように逐一声をかけてくれた。
「エレベーター入るよ。何階だっけ?」
「6階の一番奥。606号室」
私達を乗せてエレベーターは上昇を始める。
途中で違う階に止まることもなく、すぐに美希に手をクイッと引かれた。
あとは通路を真っ直ぐ進めば、突き当りにあるのが私の部屋だ。
「着いたよ。606号室だよね?」
「うん、ありがとう。でも先にお隣さんに挨拶済ませてもいい?」
「ああ、そうだった。これ渡すんだよね」
恐らく手に持っている箱のことを言っているのだろう。
箱の中身は何てことのない、ただのタオル。
ここへ来る前にイオンモールのギフトコーナーで購入したものだ。
理由は定かではないが、転居時に渡す粗品はタオルが一般的らしい。
美希が呼び鈴を押してくれたようで、ピンポーンと軽快なベルが鳴る。
「お隣さん、どんな人だろうね」
好奇心からか、ほんのり美希の声が弾んでいる。
しかし10秒、20秒経っても扉の向こうから反応が無い。
「…留守なのかな」
静けさに堪えかねた私がそう口にした直後、錠がガチャリと動く気配がした。
ジャラジャラとチェーンが擦れる粗い音と共に開かれる扉。
「…はい?」
と男性の声。
寝起きのようにじっとり重たく、暗い印象を受けた。
おまけに部屋の中から滲み出る汗や皮脂の不衛生な匂いが鼻の奥を刺激してきて、思わず顔が歪みそうになる。
男は明らかに怪訝な様子で、とても友好的な雰囲気とは言い難いが、挨拶に来た以上こちらは明るく振る舞わなければなるまい。
私は息を止めて口角を強引に上げる。
「今日から606号室に引っ越してきた和泉 早苗と言います。目が不自由なので、もしかしたらご迷惑をおかけするかもしれませんが、よろしくお願いします」
「はぁ…」
無愛想な返事。
きっと私が仲良くなれるタイプの人間ではないだろうと直感で分かった。
「これ、どうぞ」
美希のぶっきらぼうな声。
彼女も私と同じ気持ちなのだろう。
粗品を男に手渡したのか、グイッと私の手を強く引いた。
「それじゃあ失礼しますね」
言うなり足早に歩き、私の部屋の方へと向かう。
急な動きに足がもつれそうになり、不自然な靴音が通路に響いた。
お隣さんには悪い印象を抱かせたかもしれないが、彼女のそういう態度を隠さないところに救われることも少なくない。
「鍵はどこ?」
美希から急かされ、私はハンドバッグから鍵を取り出して彼女に委ねる。
扉を開けた美希は早く早くと私の背中に手を添えて玄関へ押し込んだ。
そこまで急がなくてもいいのに、と苦笑い。
だが即座に扉の鍵を閉め、チェーンまでかける念の入れようには流石に違和感を覚えた。
「どうしたの、そんなに慌てて」
「…あの男の人、私達が部屋に入るまでずっとドアの隙間から見てた」
「挨拶したから見送ってくれたんじゃないかな」
「いや、そんなんじゃないよ。目つきだってなんか気持ち悪かったし」
「考え過ぎだよ」
「早苗は見えないからそんなこと言えるんだって。人は見た目で大体分かるんだから」
「………」
私が脱いだ靴を揃えるのを待たずして、そそくさと横切る美希のそんな言葉を聞いて、確かに私には人を見る目がないのかもしれないなと感じた。
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