第1話【盲者】


一切の隙間なく閉ざされた車内に、2月の肌寒い外気が入り込む余地などない。

代わりに充満しているのは、どこかで聴いたことのあるような流行りの音楽と、初夏を思わせるほどに蒸し暑い温風、それに濃厚な石鹸の香り。

自然界の全てを拒絶するかの如く作り出されたこの空間は、独立した一つの異世界に思えた。


送風口から放たれる不自然に温められた風が、あたかも狙い澄ましたかのように私の鼻の頭をくすぐり、息が詰まりそうになる。

機械によって人工的に作り出された風は、もったりと重苦しく、少し埃っぽい。

平静を装いながら風の来る方向にそろりと右手を伸ばすと、指先がコツンと小さな音を立てた。

指で慎重に形をなぞり、行き着いた硬いプラスチックの先端を摘んで動かすと、それに合わせて風向きが変わる。

すると先程まで私の鼻息と交わっていた熱気は、今度は冷えた耳たぶをやんわり包み込んだ。

耳に息を吹きかけられているような不快感は拭いきれないものの、鼻を詰まらせるよりはずっといい。


ホッと一息ついて弾力のあるシートに体重を預ければ、今度は道路の起伏と車輪のせめぎ合いが私の背中にぐいぐい八つ当たりをしてくるではないか。

その振動はひりついた緊張感をもたらす一方で、まるで揺り籠のように穏やかな眠気を誘うのだから不思議なものだ。


「…もう荷物は全部運んだんだっけ?」


不意に音楽に混じって右側から聴こえてきた声にハッとして、私はそちらに顔をもたげた。


運転手の美希は高校の時の同級生で、社会人になった今でも交流が続いている唯一の友人だ。

声色は女優の長澤まさみに似ていて、いつもジャスミン石鹸のような良い香りを纏っている。

初めて会った時、素敵な香りだねという私の何気ない一言に、CHANELの香水なんだ、と何故か照れくさそうに答えてくれたのを今でも鮮明に覚えている。

彼女と一緒に歩いていると男性から声をかけられることも少なくないため、きっと顔もとびきり綺麗なのだろう。

もっとも、僅かな光でさえ感じる術の無い私には、今までもこれからも彼女の顔を見ることは叶わない。


「うん。あとはお隣さんにご挨拶を済ませれば引っ越し作業は全部終わり」


「じゃあ今日からついに一人暮らしデビューだね。…でもさ、今どきマンションに引っ越したくらいで挨拶なんて気にしなくていいんじゃない?」


「うん、でも一応ね。もしかしたら迷惑かけるかもしれないし…」


「律儀だねぇ」


律儀…


そう、律儀。


私のような人間が世間でどう思われているか、流石に24年も生きてきて自分なりに理解しているつもりだ。

スーパーでペットボトルの紅茶一本を買うのにも、店員の付き添い無しではままならない不便な身体。

私を助けろ、と図々しく振る舞うことで生きやすくなるのなら、喜び勇んでそうするだろう。

そんな身の程をわきまえない時期が私にもあった。

幸か不幸か、私がどんな態度を取ろうと、差し伸べられる手は無くならない。

それでいて、世界の中心は私ではなかった。


いつしか救いの手が、確かな憎悪を秘めて私を支えるようになっていた。

肩の強張りや、握り締められた手指が「こんな奴消えてしまえばいいのに」と恐ろしげな声を発してくるのだ。

人々の手の温もりが火傷しそうなほど熱く感じるようになって、ようやく気付いた。

つまるところ私には最初から、いつもありがとうございます、皆様のおかげでやっていけますと、いわゆる律儀さや謙虚さと呼ばれる防具で身を固めることでしかこの世界で生き残る方法がなかったのだと。

その防具はずしりと重苦しく、一歩足を踏み出すたびに息切れしそうなくらい窮屈なものだけど、あちこちで矢が飛び交う戦場を裸では進めない。


「ここ左に曲がるんだっけ?」


道に迷ったのか、何の気なしにそう言い放った美希はすぐに「あ、ごめん」と声を萎ませる。


「私こそ視えなくてごめんね」


こうして私は、美希から放たれた矢を、今日も笑顔で弾く。

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