プロローグ② モヤモヤのトレモロ

───ここは、限りない闇。 出口の隙間を目張りし、イヤホンをさして音楽を聴くことによって、この俗世、いや濁世じょくせから俺という存在を隔絶出来る。 そんな神聖なる闇。


あー。 なんという安らぎだろう。 そっか、これまでの悲劇は、この瞬間の……引き立て役だったんだ───改めて分かった。 やはり此処こそが、我がオアシスであり、此処こそが我が居場所─────



「……」


「……て」


「おに……て……」


「お兄ちゃん起きて……」


「お兄ちゃん起きて!」


──「ハッ……!?」


ボヤけた視界には、白いケミカルな光に包まれた短髪の少女が紺色のユニフォームを着ている……。

頭のてっぺんに見える玉ねぎサイズのお団子の先、そして……この柔軟剤のいい匂いは……。


妹の咲だ。


「お兄ちゃん何寝ぼけてんの?」


「ああ……おはよう。 今何時?」


どうやら、俺は2階の自室にある押し入れの中で寝ていたらしい。

ちなみに妹は、俺の一つ年下でサッカー部に全力を注ぐスポーツ少女だ。


妹の部活が終わるのが大体、六時頃で家に着くのが大体六時半頃、それからは家に荷物置いて、ご飯の時間までランニングや庭での自主練、トレーニングを頑張っている。


だから今咲がここに居るということは、つまり……


妹の咲は何やら不思議そうな表情を浮かべ、押し入れの中で寝転ぶ俺を見下ろしている。


「えと、7時半。 もうすぐご飯だよ」


「そうか」


どうやら俺は三時間ほど寝ていたらしい。

いつの間に寝たんだ俺……。

寝る前、何か考えていたとは思うが、何も覚えていない。 ま、別にいいか。そんな大事な事でもなさそうだし。


「それよりお兄ちゃん、なんで押し入れの引き戸にテープなんか貼ってたの? 開けずらかったし剥がすの大変だったんだよ。 何より跡取れないし。 ママに見つかったら怒られるよ」


「あ……そういえば」


現実逃避したいがあまり、つい目張りしたテープの存在を今思い出した。

咄嗟に咲が剥がしたテープの跡を見ると、荒々しく剥がされた痕が残っている。


テープの残りカスに触れてみると、指に嫌な粘着が移った。


確かにこれは、怒られるな。

両親が怒ると大抵面倒な事になる。

この前、部屋でコーラ零した時は三時間説教をくらい、更には雑巾がけを床が光るまでやらされた。

別に、三時間も説教することは無いだろ、床光るまで拭かせることも……

なんて、心の中で悪態ついてたのを昨日のことの様に覚えてる。


今日は、独りで浸っていたいだけにバレるのだけは阻止したい。


「ご飯食べたら、タオルで拭いときます……だからママには言わないで……」


そう弱気な声でお願いすると、咲は、腰に手をやり「その前に宿題手伝ってよ。 バラさないし、拭くの手伝うから」と言った。


俺は分かったと言うと、咲と共に階段を下り、リビングへと向かった。


リビングのドアを開けると三びきの猫に迎えられ、撫でていると母がダイニングテーブルに焼き鯖、味噌汁、漬物、サラダ、ご飯を並べていた。


それを見る妹が舌鼓したつづみを打っている。

家では頻繁に見るメニューだが、お腹が減ってることもあり俺も思わず唾を飲んだ。


父が風呂から上がった所で食事が始まる。


世間話や、学校での出来事でささやかな盛り上がりを見せる家族の輪。


俺は学校での出来事(総合の授業を除く)を簡潔に話し終えると、滋味深じみぶかい一汁三菜を嗜みながら、テレビで流れるドラマを見つめていた。


『臆病な僕は大切な二十代を、つまらないモノにしました』


『やはり挑戦は、止められてやめるべきで無ければ、恥を恐れてしないものでもありません』


『失敗を学び、成長するためにする、一種の修行のようなものでした』


あいより出でて、藍より青し』か。


周囲の目を恐れ、付和雷同ふわらいどうを続けた結果、何も得られず『つまらない二十代を過ごしてしまった』と、後悔にれる三十代の男と、何も恐れず周囲に逆らいながら前へ突き進んで行く十代の弟子が、紆余曲折を重ね成長していく。

メッセージ性の強いヒューマンドラマだ。


心揺さぶられるドラマとして呼び声が高いだけあって、セリフに強い力がある。


『挑戦を否定する奴なんて、全員ただのバカだ。 自分の杞憂に呑まれてるバカか、他人ひとの足を引っ張りたいだけのバカ。 だから無視すればいいんだ。 そんなヤツらの尻馬に乗っても後悔を生むだけだ』


『恥なんて、かいても消せるモノの代表じゃないか』


これまで、恥や周囲の目を恐れて素の自分を出せずにいたからこそ、刺さるものがあった。


まさに、いつも通りの美味い飯を、日々のルーティンとして何気なく食べてる俺からすれば、すれ違いざまに刃物を突き立てられたかのような感覚だ。


つい影響を受け高まり始める鼓動が、ぽっと出の勇気と躊躇いをごちゃ混ぜにしていく。


『ホントだよな。 恥や周囲の目を恐れてなんになる。 明日、いや今からでも何か挑戦出来ることを探して……でも、何しよう。 そうだ! エロゲーを買おう! 今までどんな目で見られるかなんて考えては恥を恐れて、手を出せなかったけど、よく考えてみれば、そんなの周囲がどうこう言えることじゃない……よし!』


『でも……エロゲー買うのって、やり過ぎじゃないか? 俺まだ高校生、で成人してないし……。 周囲がどうこうじゃなく……。 倫理的に……』


『もっとよく考えて、自分が出来る挑戦を探していこう……』


結局、俺の心はモヤモヤを残すだけだったが。


箸を持つ手を速めて、夜ご飯を平らげると手を合わせて、2階に向かった。


ドラマは続いていたが、俺は視線を落として歩き続けた。


──あ、雑巾濡らさないと。


再び1階に戻り、トイレをするフリと手を洗うフリをして雑巾を濡らした。


モヤモヤとした気持ちの悪い心を誤魔化すように、力強くテープの痕を拭いていると、咲がやって来た。


「勉強。 教えて」


掃除を中断し、妹の方へ振り向くと、どこか心配そうな表情を浮かべる咲が腰に手をやっていた。


腰を掴む手が少し強ばっているように見える。


「……分かった」


咲の様子に何の検討もつかない俺は、思わずその仕草の意味を尋ねようとしたが、何となく気まずくなって、喉の奥の何かを押し殺すように、別の言葉で応えた。


視界の照準を勉強机にズラす俺。 咲は「宿題と教科書持ってくる」と一言、俺の部屋を後にした。


咲は、サッカー部の事で頭がいっぱいらしく、授業の内容は殆ど頭に入っていないとの事でよく、俺に宿題の手伝いを頼んで来る。

おかげで、妹とはよく話が出来ているのだが。


なんだろうこのちょっとした緊張感は。


慣れない感じが少し落ち着かない。


すると、教科書と宿題、シャーペンと消しゴムをバランス悪そうに乗せた折り畳み式の椅子を運ぶ咲が、部屋に入って来た。


俺は、自分の机上を軽く払ってホコリを床に落とすと、椅子を引いて、もう一つの椅子が滑り込めるスペースを作る。


「ありがと」


「おう」


咲が机上に教科書と宿題のプリントを広げた所で、厳かな教師が担当する授業のような事務的な勉強会が始まった。


───


「ここは、昨日やった公式をこういう風に応用するんだが……」


「うん。 出来た」


───


「よし。 じゃあその調子で、次の問題も解いてみようか」


「出来た」


───


「よし。 あとは、自力で出来るな。 俺は引き続きテープの痕を拭くことにするよ」


───


───


───


「ちょっと待って」


俺が席を立ち、雑巾のある押し入れに向かおうとしたところで妹に引き止められた。


「どうした? まだ分からないところあった──」


「お兄ちゃん、今日何かあった? いつもより静かだし、ちょっと変だよ」


「い、いや……特には」


少し心配そうに沈んだ妹の声色に、妙な気恥さを覚えた。妹に心配されることに慣れていないいうのもあるが────これは、俺自身のプライドか、兄としての威厳を保つためのプライドか。

どちらにせよとっくに、無くしたものだと思っていたが、どうやら喉の奥に引っかかっていたようだ。

咄嗟にいた慣れない嘘に後ろめたさを感じ、視線が、床の隅へと逃げていく。


「うそ」


妹は、それを見逃さなかった。というより、確信しているようだった。俺に何かがあったことを。


実際、そんな大したことでは無いのだが……言いずらいな。

4時限目の授業で、先生を嫌いになっただなんて───隣の席の女の子に分りやすく嫌われて傷ついたなんて──たまたまやってたドラマに心打たれるも結局、でも、だってでウジウジしてモヤモヤが残っただけだったなんて──今まで周囲を気にしすぎるあたり何も上手くいかなくて、そんな自分が嫌になってるのにも関わらず、何も変えられなくて辛いだなんて。


俯いたまま無言になっていると、妹は突飛な事を言い始めた。


「じゃあ私の、話しにくいこと。 話していこっかな」


「えっ……」


いつもなら、俺の嘘に気付いても『言いたくなったら、いつでも言って』と言い残し、それ以上踏み込んで来ない。


「いや……」


こんな形で、心配してくれたのは初めてで、思わず当惑する。


とはいえ、やはり話しにくい事を話すのには抵抗があるのだろう。


「話す気になった? 」


と、確認してくる咲。


ここで、行くべきなんだろう。

けれど、口が強ばり、喉の奥から言うべき言葉が出てこない。


「あ、それは」


「じゃあ黙って聞く!」


「おっ、おう!」


歯切れが悪い俺の言葉は、ヤケになった様子の妹に遮られた。

俺は思わず、気圧されてしまう。


本当に……言いずらそうな表情だな、無理するな……って言いたいけど、変なとこで強情な妹だ。

俺が言わなきゃ無理をしてでも言ってしまうだろう。 ここは遮ってでも打ち明けるべき……なのだが口が固まって声が出ない。


「私……」


スっと強めに息を吸うと、躊躇いを断ち切ったのか妹は続ける。


「サッカーで、練習だと強いけど、本番に弱くていつもあと一歩のとこで試合負けてるって言ってたじゃん」


「あ……ああ」

二年前の夏かな、咲がそんな事を言ったのは。


ついでに試合に出る直前はいつも、『緊張で胃がヤバい』 『本番に強くなりたいな』なんて言っていたのをよく覚えている。


一度も勝つところを見た事がないのもまた、鮮烈なほどに。


まぁ、一年長く生きておきながら、上手く言葉を返せない自分に打ちひしがれてばかりだったからな。


でも、言い難いことって───


咲は更に目を逸らし、瞬きの回数を増やしていく。 肩の力も入っている。


「それ、嘘なんだよね。 本当は練習も弱い」


続けて、これママには秘密ね。 と、釘を刺す用に呟く咲。


その咲が言いづらい事というのは、かなり前から薄々勘ずいていたことだったということもあり、それほど大きな衝撃を受けなかった。


ただ、俺は心臓を撃たれたようなショックを受けた。 結局、言いづらい事を恥ずかしがりながら打ち明ける妹を、どうすることもなく眺めていただけという自分の不甲斐なさに打ちひしがれたのだ。 どうして俺は、こんなにも臆病で、要らないプライドばかり高いんだろう……。 と。


「はあ─────」


そう、ため息混じりの声を漏らすと、咲はにこやかにはにかんだ。肩の力が抜けるのが目に見えて分かった。


「やっと言えた。

嘘つくの苦手だったばっかりに、ずっとモヤモヤしてたんだよね。


『早く本当のこと言わないと。 でも今更言い難い!!!』って。

でも今のお兄ちゃんを見てると、今言うべきだなって思って。


肩の荷が降りたよ。 いやー、見栄は張るもんじゃないね。 特によく話す人には。


まあ、上手くなってたら言わずに済んだ、とは思いつつも、ありがとね、お兄ちゃん」


「お、おう」


俺は、あまりにも突飛な妹の言動に間抜けな返事をしてしまう。


何より、妹が発する言葉の節々に、これまで歩んてきたであろう俺の知らない日々のイメージが鮮烈に脳裏を過ったから。

ふと、俺が燻って動けないでいる間に、妹はどんどん前に進んで、悩んでは葛藤、挫折を繰り返していく中で、新しい自分を見つけて来たんだな。


なんてことを思い、より自分という存在が矮小に感じた。同時に、兄というポジションを弟にすり替えて欲しいとさえ思った。


そんな俺の心境を知らない妹は「はい、次はお兄ちゃん」と、怪談話でもする学生のようなノリで促して来る。


「そ、そうだな」と呟く俺。


妹は今、一つのハードルを乗り越えて、俺を暗闇から引っ張りだそうとしてくれてるんだ。


ここは、俺の悩みを打ち明けなければ。


咲はクリクリとした、星を閉じ込めたような目でこちらを見据えてくる。


これは、裏切れない。


「……あ、えとな」


「うん」


「あ……とな?」


あれ……。 あと少しのとこでつっかえて言葉が出てこない。

どうして……。 妹の気遣いと較べたら小さなことだろ。


そうか、俺の中ではかなり大きいんだな。


いや、だとしても! 今ここで言わないと兄、いや一人の人間として情けなくなるぞ!

いや、もう既に情けなくはあるけど!!!


妹が、柄にもなくこんなにも気遣ってくれたのに……!


ちきしょ……なぜ出てこない。 あと一歩なのに。


すると、妹は痺れを切らした様子で「じゃあ、もう一つ言い難いこと、言ってこかな」と、吐き捨てるように言う。


「わっ分かった言うから!」


咄嗟に口をついて出た。


そして、咄嗟に大きな声を出したからか、もう後には引けないと思ったからか、両方だろう。

それからは憑き物でも取れたように喉に引っかかる言葉が次々と口から零れ出てきた。


───話した。 親には話さなかった今日学校で、あったことを。


行動出来ない自分が嫌いだということを。

周囲の目が気になって素の自分を出せずにいるということを。


それで、いっそ不登校になるか! と思いつつあることも含めて。


この際もういっかと、嫌なこと全部言ったが、悪くない気分だった。もしかしたら、先程の咲も……。そう思ったら、打ち明けた後の咲を少しは理解出来た気がする。


「お兄ちゃん……」


しょんぼりとした様子の妹。


「分かる……分かるけど、だいぶ勿体ない事してる」


妹の口から出た言葉は実感どころか、分かりきっている事だった。

でも、出来ずにいるという現状に、矛盾を感じているのもまた事実。


俺は、濁った喉から一言、重たい言葉を外に出した。


「─────だよな」

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