リストカット
@setsuna118287
リストカット
空気がからりと心地よく、空がどれほど晴れ渡っていようと、その日射しに背を向けて歩く彼女の表情はどんより暗い。
毎朝、通学路で列を成す学生の群れから彼女を見つけ出すのは、星空の中から月を見つけるほどに容易いことだ。
長い髪。
俯きがちな姿勢。
小さい歩幅。
何より歩く速度が遅い。
かろうじて亀よりは早いだろうか、という程度である。
そんな彼女の横を何人もの学生が通り抜けるが、その存在を気にかける者など誰一人としていなかった。
ただ吹き抜ける秋の風が、長い髪を靡かせるのみである。
誰もが賑やかに鞄を振り、スカートを揺らしながら駆ける世界で、彼女もまた、誰に目をやることもしなかった。
もしかしたら幽霊なのだろうかと、初めて見かけた時はそんな考えがよぎったものだ。
あるいはあたしが見てなかったら、本当にそうなっていたかも。
俯いて歩いているせいだろう。
彼女は自分が今まさに渡ろうとしている信号機の色など見えていない様子だった。
迫り来る大型トラックよりも速く、あたしがとっさに駆け寄って腕を掴むと、彼女はようやくハッと顔を上げた。
長いまつげにずっと押し潰されていた大きな瞳が驚いたようにこちらを向いたその一瞬を今でも忘れない。
それが彼女、髙梨 優との出会いだ。
通っている教室こそ違っていたものの、同じ高校1年生のあたし達が仲良くなるのはごく自然な流れだった。
…なんて、嘘。
あたしがその後、彼女を見かけるたびに不自然なまでに馴れ馴れしく話しかけることをしなければ、きっとそうはならなかっただろう。
もしかしたら今も仲良くなってると思い込んでいるのはあたしだけで、彼女からすれば図々しく迷惑な存在に苦笑いを浮かべているだけなのかもしれない。
仮にもし「あたしのこと苦手?」と彼女に問い詰めたところで、そんなことないよと微笑むだろう。
つまるところ、あたしに彼女の本心を知るすべなどなかった。
でもいつかはその見えない本心を見せてもらえる日がくると信じてる。
だからあたしは今日も通学路で彼女を見付けると、出会った時と同じように後ろから手を握るのだ。
「おはよう、優」
「…おはよう」
夜のすきま風のようにか細い声が、優の口から漏れる。
本当は高くて綺麗な声だというのに、低音だけで演奏するピアノのような不自然さが耳に残る。
それでもあたしにとっては特等席から聴くことを許された、極上の演奏に等しい。
「また、増えたね」
「…え?」
優が何のことかと首を傾げたため、あたしは彼女の手を引き寄せながら言う。
「腕の傷」
優の細い右腕には、小さな傷跡がたくさんある。
まるで五線譜のように、何本も何本もまっすぐ並んだ白く変色した傷跡。
いわゆるリストカットである。
全部でいくつあるのかちゃんと数えたことはないし、いつから付いてるのか尋ねたこともない。
それでも増えてると分かるのは、新しい傷だけはほんのり赤いからだ。
「…まぁね」
あたしから指摘されて、優はばつが悪そうに腕を引っ込めた。
別に責めているわけではないのに。
「痛くないの?」
「…痛いよ、もちろん。痛覚はみんな平等に持ち合わせているもの」
「じゃあなんで切ったりするの?」
優は視線を前に戻して、再び亀の歩みを始めた。
それに合わせてあたしの歩幅も小さくなる。
目的地の学校はもう目と鼻の先だというのに、まだまだ時間がかかりそうだ。
優は歩きながら、新しくできた傷をまるで赤子に触れるようにそっとなぞる。
「こういうのは人によって違うと思うけど、私の場合は………そうね、かさぶたを剥ぐ感じに近いのかな」
「そんな簡単なもんなの?」
「心の痛みってなんかこう…もやもやはっきりしないけど、胸の奥が苦しいでしょ?かさぶたの下がむずむず痛痒いみたいに。…分かる?」
「多分」
「その疼いてるようなもどかしい気持ちをスパッ、てね…。そうやって痛みを実感できたら、ああ…やっぱりわたし、痛かったんだって思う」
「へぇ…」
「…それか無意識の内に、心の痛みを手首というキャンバス上に表現しようとしてるのかも」
「さすが美術部。発想が神」
「どんな悲痛な絵を描くより、これ見た方がつらい気持ち伝わるでしょ?」
「うん」
「でも見せびらかしたりはしないの。だって馬鹿みたいじゃない」
「分かってるんだ?」
「半端な同情とか、軽蔑されるのは嫌。でも、誰かには見てほしいのかもね…」
「ふーん…」
はたしてその"誰か"の中に、あたしは入っているのだろうかと、視線を落として足下の落ち葉に問う。
一歩足を踏み出すたびに、積み重なった紅葉がパリッと乾いた音を発して割れた。
昨日まではこんなになかったのに。
校庭沿いに植えられた紅葉の木が、どうやら人知れず夜の内に敷き詰めたらしい。
いかんせん、スナック菓子を貪り食うような下品な音は耳に障るが、まるで学校まで続くレッドカーペットを歩いているようで気分がいい。
今のあたしは女優なのだ。
でも空の上で皆を平等に照らす太陽が、もしもスポットライトになったならば、きっと照らし出すのはあたしではなく優だろう。
サラサラで艶やかな髪、真珠のように白い肌。
さすがにハリウッド女優までとは言わないけれど、優は綺麗だ。
少なくとも、あたしなんかよりずっと。
見蕩れるあたしの視線に、ふと、優の憂いげな瞳が重なる。
その透き通るような瞳を見て、ああ…やっぱり彼女は綺麗だなと確信した。
優が薄紅色の唇を開く。
「…逆に聞くけど、あなたは嫌な目にあった時、どうやってそれを外に吐き出してるの?」
「んー?あたしは嫌いな奴ぶっ殺す想像する」
「…シンプルね」
「ほんとに殺せたらさぞかしスッキリするだろうに、法律が邪魔」
「無かったらきっと今頃、あなたも誰かに殺されてる」
「かもね。…でも最近思うんだ。世の中には殺したい奴らが多すぎて、自分ひとりでは無理だって。だったら自分が死んでバイバイした方が、殺す人数的には一人で済んで効率いいよねって」
校門を前にして、あたしは持っていた鞄を右手に移し、左手を優の前に出す。
「見て見て」
「え?」
「昨日、切ってみた」
あたしの左手首にある真新しい切り傷を一瞥するなり、優の瞼が一瞬ピクリと震え、足が止まった。
しかしすぐに「…そう」と小さな溜息と共に、前を向いて校門を抜けた。
あたしは後を追う。
紅葉のレッドカーペットが途切れたため、耳障りな音はもうしない。
「反応薄いなー。頑張ったのに」
「頑張ってやることじゃないよ」
「それもそうだね」
「…どうしてこんなことしたの?」
そんな優の言葉に、思わず口角が上がる。
なんだかあたしに興味を持ってくれたみたいで、嬉しい。
あたしはそれとなく優から顔を背けた。
校庭で咲く色とりどりの花は綺麗だが、それを見たいわけではない。
頬にできているであろう醜い笑窪を悟られたくないだけだ。
「きみの気持ちが知りたくってね」
上擦りそうになる声をできるだけ抑える。
ただのかまってちゃんだと思われたくないから。
「そう…。何か分かった?」
「さっぱり」
「でしょうね」
「でも痛いってのはよく分かった」
うっすら赤いその傷は、いまだツンと尖った刺激を帯びている。
意識すればするほどに痛みが増すような気がして、あたしは腕を後ろに隠した。
優の数多の傷に比べれば、たかが一本。
この程度で痛がるのは彼女の手前、何だか恥ずかしい気がしたのだ。
「きみの方こそ、あたしの気持ちは分かったかい?」
「…どんな気持ちよ?」
「親友に傷が増えた時の気持ち」
「………私に親友なんていないよ」
「うっわ、そんなこと言っちゃう?ひどいなー」
…ごめん、と優が俯く。
謝らなくていいのに。
親友でないのなら、その方があたしにとってはむしろ幸せだ。
すぐに茶化して、あたしの方こそ申し訳なく思う。
でも今はそうすることでしか、君のそばにいられる方法を知らない。
「…それにしてもさ、血が流れるの見ながらもったいないなーって思った。どうせなら献血でもすればよかったかも。腕に針刺すし、血を抜くし。似てない?しかも人助けになるよ」
「…ほんとだね、気が付かなかった。しないけど。人間、嫌いだし」
「それもそうだね」
「人類なんてみんな滅びればいいのに」
「まったくだ」
始業まであと5分。
走らなければ間に合わないかもしれないなと思いつつ、あたしは優の手を握って足並みを合わせる。
汗ばんだあたしの手がほどけないように、ほんの少しだけ、優の手に力がこもった気がした。
今のあたしには、こんな他愛のない会話や、優の手から感じられる温もりが、泣きたくなるくらいに嬉しい。
お互いの腕の傷が、まるでペアルックのようで誇らしい。
口にはできないそんな想いがいじらしくて、情けなくて、優の手を強く握り返す。
これは美しい友情でも愛情でもない。
あたしの醜い、片想いだ。
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