第2部 第32話 合流
「構え、打て!!」
突然外から聞こえた破裂音に、マリーとクラウスは一瞬気を取られた。初めて聞く音に、マリーの体は反射的に止まると、短刀は喉元に一筋の赤い線をつけただけで止まった。
「い、たぁい!!」
自分で仕向けたこととはいえ、マリーはその痛みに耐えられず、思わず大声をあげた。するとその隙を見逃さなかった侍女のイレーネは、即座にマリーから短刀を奪い取り、床に投げて、小部屋の奥へと蹴飛ばした。床の上を滑った短刀は、雑多に積まれた家具の隙間に入り込んで、姿を消した。
「イレーネ」
マリーは小さく抗議し、立ち上がろうとしたが、イレーネに衣服の裾を強く引っ張られ、尻餅をついた。そしてそのまま背中から羽交い絞めにされてしまい、マリーは一切身動きが取れなくなった。クラウスも、イレーネの動きに合わせて、短刀からマリーを遠ざけるように、二人の前に立ちはだかる。
「マリー様、だめ、だめです」
何度も首を振っているようで、イレーネの髪がマリーの袖に何度もこすりつけられる。
「貴族は、誇り高き者です。しかし、命は尊いのです。決して、どんな者であっても、命は、ご自身で絶っては、いけません」
先ほどの勇ましい行動とは打って変わって、イレーネは幼い少女のようにしゃっくりをあげながら、マリーの行動を諫める。マリーに短刀を渡したのはイレーネ本人だが、それはあくまで戦時におけるしきたりに則った行動であり、本人は納得してなどいなかった。
貴族の子女が体も心も傷つけられる事態に陥るならば、いっそのこと。しかし、教会の教えにおいて、自害は禁忌であり、死後も救いの手が現れない。
いや、イレーネの抗議は、そんな説教臭いものではなく、マリーを愛した者としての純粋な想いだった。ただマリーを失いたくなかった。そして自身を傷つけようとする、マリーの衝動を許せなかったのだろう。
「わかったわ。もうしないから、安心して」
侍女の愛情がマリーの心に触れて、少なくとも我を失うほどの怒りは鎮まったようだ。母親が子供の痛みを取るように、マリーが泣きじゃくるイレーネの額に優しく口づける。
クラウスはただ二人を見守るしかできなかったが、二度目の破裂音でようやく正気を取り戻し、兜を外して小窓から外の様子を見た。
「あれは発砲音?なぜ、騎士の戦いに銃が」
クラウスが困惑の表情を浮かべ、小さくつぶやく。彼が連れた騎士たちは、最初の音を聞いてすぐに階段を下りて行ったようで、気が付けば小部屋には三人だけになっていた。落ち着いたマリーは改めてこの状況を見て、クラウスがなぜこの塔にやってきたのか、自分を探していたのか不思議に思った。
すると騎士が急いで階段を上ってくるようで、けたたましく金属音が塔中に鳴り響き、再びマリーとイレーネに緊張が走る。
「お前、やっぱりここか!戦場を離れる総長があるか!今すぐ持ち場に戻れ」
やってきた騎士は三男のテオだった。マリーは一瞬「助かった」と肩の力が抜いたが、何かがおかしいことに気付く。テオが、敵側のクラウスを怒鳴りつけている、まるで自分の味方と接するように。
「テオ殿、ツァイムには火縄銃の蓄えがないと言っていなかったか?今しがた聞こえた発砲音はなんだ?」
「フィアーツェンだ。わざわざ北から追ってきやがった。こっちはわきまえて、わざわざ昔ながらのカタパルトを持ち出してきたっていうのにな。忌々しい!」
テオの言葉に、マリーの胸が高鳴る。
「兄上!フィアーツェンが、リヒャルトが応援に来たのですか?!」
マリーは立ち上がり、テオを詰めた。目の端で、青ざめた顔のクラウスの姿を捉えるが、今はそんなのどうでも良い。フィアーツェンの応援軍が来たことに、リヒャルトが生きている可能性に、胸がいっぱいになっていた。
「ああ?応援?ああ、ツァイムにな。合同軍には辛い局面だ」
気が急いているせいか、テオの発言がおかしい。しきりなしに目が動いて落ち着きもなく、マリーの顔を真正面から見ようとしない。
変わらず外では騎士たちの怒号や騒音は止まず、戦争が続いているのに、この小さな塔の部屋は奇妙な混乱に満ちていた。
「テオ様、貴方様は合同軍に内通していたのですね!」
唯一、正気ともいえるイレーネがテオの裏切りを指摘すると、当の本人はフンと鼻を鳴らし、冷たい視線を送った。
「だからどうした。それでも貴様が仕える姫の兄であり、カレンベルグ家の子息だぞ」
鎧を着て、いつもより一層強くなったテオの威圧にイレーネは口をつぐみ、目を伏せた。マリーはイレーネの肩を抱きしめて、兄に抗議するように睨みつける。
「裏切りは重罪です。兄上、罪人となる前にカレンベルグ家へお戻りください。私たちは何も見聞きしておりません。そして、この、アインホルン家の者を捕らえてください」
テオが返答する前に、話に割って入ったのは「アインホルン家の者」だった。
「マリー様、私は、貴方を私の妻としてお迎えしたく参りました。どうか、そのように呼ぶのはおやめください」
それを聞いて、テオは思わず天井を向いた。
マリーは呆気に取られたが、再び怒りが、今度は沸騰するような怒りが腹の底から湧いてきた。しかしその怒りをどのようにして相手に伝えれば良いのか言語化に苦しみ、口元だけがわなわな震えている。
マリーの表情を見ても、その感情までは読み切れないのだろう。クラウスは再び跪き、マリーの手を取ろうと片手を差し出す。
先ほど鎮めたばかりの混乱が、また小部屋を満たし始めている。そのとき、外から救いの声が聞こえた。
「フィアーツェンは勅令の誤解を解き、皇帝直下軍と和解を成しました」
「リヒャルト!!」
マリーは怒りを忘れ、テオを押しのけて小窓へ駆け寄った。しかし、どの角度から見ようとも、小窓からはリヒャルトの姿を見ることはできない。声は続く。
「帝国都市から参られた合同軍よ、剣を捨てなさい。貴殿が挙兵する理由はもうここ、ツァイムにはないのだ。平和に解決しよう」
「なんだと?!戦の理由はある!」
恋敵の声だとわかって闘志が湧いたのか、挙兵の本来の目的を思い出したのか、クラウスは憤然と立ち上がり、マリーに目もくれずに小部屋から出て声の元へと向かった。
そしてマリーは何の疑いもなく、その後ろ姿を追った。イレーネが慌てて衣服をつかもうとしたが、夫の元へと向かう妻の軽やかな足取りを妨げることはできなかった。
小部屋に残ったテオは深い溜息をつくと、呆然としたまま座り込んでいるイレーネに手を差し伸べ「先ほどはすまなかった」と声をかけた。イレーネが意を汲み、手を取って立ち上がると、すっと手を放し、一歩引きさがって深々と頭を下げた。
「追いかけよう」
テオの言葉にイレーネが頷くと、二人は暴走する主君たちを追いかけた。
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