第2部 第29話 テオ=フォン=カレンベルグ
「ああ、マリーならフィアーツェンに嫁ぐことが決まったよ」
ツァイムの黒い森で、カレンベルグ家三男のテオの話にクラウスは打ちのめされた。
昨日から七日間の日程で始まった合同演習には、六つの領邦から八つの騎士団が集まって参加しており、クラウスは様々な織旗と真新しい板金鎧に身を包む若騎士たちが並ぶ光景を惚れ惚れと見ていた。それなのに。
途端、クラウスは何かに足を取られる。どうやらウサギの巣穴に足を取られてしまったようで、急ぎ足を引き抜き、巣穴の中を確かめるが、特に問題はないようだ。
「鈍くさいな、大丈夫か」
同じ小隊に組まれたテオが、呆れた表情でクラウスを見る。この日はツァイム城を取り囲む黒い森の地形を活かした演習で、隊列からはぐれた場合を想定して小隊ごとに行動していた。敵役に遭遇すれば戦闘を開始するが、最終目標は本隊への帰還だ。
「しかし、昔と違って泥臭い演習が増えてきたな。これも、例の戦のせいか」
テオは腰に下げた水筒をつかんで飲んだ。本演習は比較的軽装の鎖帷子を着ているが、それでも足場の悪い森の中を歩くと体に重くのしかかり、体力を容赦なく奪っていく。
「例の戦」というのは、皇帝の現細君であるモーディッシュ公国(を含む一帯)を舞台に、西のナー王国と繰り広げた六年にも渡る戦争で、相手側が火縄銃を携えた砲兵を含む組織的な「軍隊」で臨んだ「新しい戦」を指していた。そこに騎士同士による伝統的な戦闘はなく、火縄銃を構えた砲兵が前衛として進撃し、砲撃に耐えた相手兵を騎馬兵や歩兵が追うという戦術であった。
伝統的な騎士団にも長距離攻撃を得意とする弓兵はいるが、攻城戦に有利に働く兵種であり、板金鎧を打ち砕き、隙間から入り込めば中の人間も負傷させる砲兵と比べると劣る。
皇帝は新しい戦で隣国との戦力差を見せつけられ、これまでの猛攻は止まった。婚姻で狙った領土拡大も、条約の紙一枚で放棄せざるを得ないほどに、敗北を認めたのだ。
戦を終えて帰郷した皇帝直下軍は、すぐさま各領家にこの事態を共有し、軍事強化、戦術の見直しを言い渡した。そしてツァイムのカレンベルグ家が「それなら」と、合同軍事演習を申し出たのである。
「情けないね。聞けば、百年も前にこの国で火縄銃が改良されていたのにな。下らない誇りを大事にしたばかりに、やすやすと敵国に技術を奪われてしまったわけだ」
テオが荒い息と共に、疲労と演習への苛立ちを愚痴に乗せて吐き出すが、クラウスは答えられなかった。周りの若騎士たちも返答に窮しているらしく、困ったように顔を見合わせている。火縄銃を肯定すれば、騎士を否定し、自らを否定することになるからだ。叙任までに懸けた日々を、努力を、強い意志を。
「兄さんは指揮官に向かないね。こんな森の奥で、仲間の心をへし折ってくる」
従騎士で、テオの付き人となったカレンベルグ家の四男、ベンヤミンが肩で息をしながら、兄を制した。
「別に、騎士を否定するわけじゃない。ただ手に取るものを変えれば良いだけだ」
ベンヤミンの言葉に、困った顔をして、テオは断りを入れると、すかさずベンヤミンが返した。
「騎士の闘いは生身の人間同士がぶつかってこそだよ。銃を取ればもうそれは違う何かだ」
「そうか」
テオは口をつぐんだ。
クラウスは戦から遠い平和な領邦にいる彼が、なぜ怒りを抱いているのか不思議でならなかった。クラウスがテオの胸中を知ったのは、演習六日目の夜、野営訓練で焚火を囲んだときだった。
「俺を、皇帝直下軍に入れてくれないか」
テオの申し出に、クラウスは目を丸くした。確かに、騎士は仕える主人を己の意思で変更できるが、領家の人間であれば本家が指揮する騎士団で功績を上げるのが筋である。
「お前さんも次男だからわかるだろう。この封建社会に、次男以下の未来はないと」
その言葉にクラウスはハッとした。この男も、恋をしているのだろうか。
ベンヤミンは終始荷物持ちで疲れたのか、早々と天幕に引っ込み、大きないびきをかいている。主人が実兄でなければ叱咤される態度だが、おかげで秘密の話がいびきに紛れた。
「領家は基本世襲だ。嫡子となる長子が健やかな限り、どんなに下の者が優秀だろうと御鉢は回ってこない。幸い、うちは体が頑丈なのか、兄弟誰一人欠けることなく育ち、叙任式を迎えたが、デカい領邦を継ぐには今度は人が余ってしまった」
テオは溜息をつく。
「残酷な話だよ。親は嫡子を絶やさないために子を産むが、一人育てば、他の育った奴らは必要ないんだ」
「虐げられているのですか」
クラウスは不意に尋ねた。テオは困ったように、口元を歪める。
「いいや、うちの親は優しい。愛情に溢れている。そして頭が切れる。万が一騎士団を離れたときのために四兄弟にはそれぞれ、市井の職を与えられている」
テオが話すには、長兄カールに領地管理権を渡す一方で、次男アイテルにはツァイム市庁舎の所有権とギルド管理権を、三男テオにはツァイムの港管理権を、四男ベンヤミンにはゆくゆくツァイムにまつわる何かしらの権利を手にするという。
「恵まれていますね」
「そうだな」
クラウスは、テオが心底羨ましかった。騎士でなくなっても、ツァイムという地で私財が枯渇する心配もせずに伸び伸びと生活ができる。おそらくテオの怒りは、兄弟の仲を割くような、妬ましい暗感情を抱かせる世襲制度に対して向けられているのだ。家族を愛するあまりの、優しい怒りだった。
アインホルン家は、皇帝に従い、支え、共に繁栄していく一家のため、カレンベルグ家のように自由な采配を取ることはない。クラウスがせめて手に入れられるとしたら、帝国議会の議長の座だろうか。
「なぜ皇帝直下軍を望まれるのでしょうか」
戦争を繰り返し、兵も蔵も疲弊している軍になぜ。クラウスには不思議でならなかった。
真っすぐにクラウスが目を向けると、テオは、逡巡してから素直な気持ちを吐露した。
「子供じみた考えかもしれないが、俺は騎士そのものに憧れていた。祖国を想い、忠義のために剣を取る騎士の姿だ。だが、永久平和令で私闘が禁止され、いよいよ火縄銃が戦場に持ち出されて、騎士の時代が過ぎ去ろうとしている。実戦に立たないまま、騎士の心を感じないまま、弟の言う『別の何か』に変わってしまうのは避けたい」
「だから常に臨戦態勢にある皇帝直下軍に入りたいと」
「そうだ」
クラウスはさすがに口をつぐんだ。ナー王国から戻ってきた負傷兵の姿は、クラウスの脳裏に恐怖として焼きついていた。そのときに気付いたのだ。もはや、戦場に騎士の誇りなど必要なくなってしまったと。そんなものは幻だったのかもしれないと。
「それで?入れてくれるのか?」
テオの声掛けに、クラウスの意識は呼び戻された。
「私の一存では決められません。帰還次第、父上に伝えましょう」
「すまない、恩に着る」
テオが深々と頭を下げた。するとクラウスはなんだか胸の内を伝えたくなったのだ。
「私も、」
「ん?」
「私も世襲制度について思うことがあります。今のままでは、愛する人を受け入れられない」
テオが何か言いかけた途端、何かが天幕の影から飛び出してきて、二人は反射的に立ち上がり、即座に腰の短剣を抜いて、構えた。しかし、焚火に浮かび上がる煤だらけの女性の顔を見るとクラウスは言葉を失った。
「こんばんは、クラウス様、テオお兄様」
飛びこんできたのはマリーだった。愛しい女性の姿に、クラウスはただちに抱きしめたい気持ちに駆られたが、なんとか踏みとどまった。彼女にはもう婚約者がいるのだ。
「マリー様、突然の訪問に驚きましたが、お話できて光栄です。転ばれたのでしょうか、おけがはありませんか。先ほどテオ殿から伺いました。ご結婚をされるようですね。おめでとうございます」
クラウスは精一杯礼儀正しく振舞った。現状に窮している醜い男の姿をせめて礼節で隠したかったのだ。しかしマリーの思いがけない一言に、クラウスは面を食らう。
「クラウス様、どうかお願いです。私をここから連れ出していただけませんか」
「なぜ、私に?」
「貴方をお慕いしております」
クラウスの鼓動が激しく響くので、マリーにも聞こえるのではないかと心配した。彼女の目から溢れそうな涙をこの手で受け止めたい。そうだ、騎士の誇りも財もいらない。ただこの腕で彼女を抱きしめ、榛色の愛らしい瞳を見つめればいいだけじゃないか。
天幕の中から小さなくしゃみが聞こえた。
途端、クラウスは正気を取り戻し、改めてマリーに向き合った。
「ありがとうございます。マリー様のお気持ちが何よりも嬉しいです。しかし、私はあなたと結婚できません」
この情けない返答しかできない自分に、クラウスは腹が立った。この拒絶で彼女はどれほど泣くだろうか。テオに連れて行かれるマリーの後ろ姿を見て、クラウスは激しい後悔の念に襲われた。しかし一方で、マリーの愛を受け取るために剣を取るべきだと確信した。
婦人から受ける博愛は騎士としての誇りであり、心の、剣の糧となるのだ。そうだ、貴族には政の婚儀しかないのだから、真実の愛を得るには略奪しかないのだ。そのためにも戦場で騎士として大成しなければいけない。
テオが戻ってくると、クラウスは意気揚々と「私も皇帝直下軍で功績を上げるよ。マリーのためにも」と伝えた。テオは眉間に皺を寄せたが「いいんじゃないか」と応えた。
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