第2部 第28話 クラウス=フォン=アインホルン

 クラウス=フォン=アインホルンは一途な男だった。


 ツァイム大聖堂にて行われた叙任式で、壇上から、すっかり成長して女性へと変わっていたマリーを見つけて、雷に打たれたように恋に落ちた。二人は一度幼い頃に、狩猟の館で会したことがあったが、クラウスのペイジ修行が始まってからは接遇する機会がなかった。しかしマリーの栗毛色の髪に、榛色の優しげな瞳はクラウスの記憶に鮮明に残っていた。どこか不安げな、でも時折夢見心地な視線を投げかける、小さなお姫様だった。


 クラウスは不器用な男であった。


 アインホルン家本家には四つ年上の長兄ヴィクトールとクラウスしかいないので、幼い頃から剣術に盤上の遊戯と、戦いにまつわる遊びに夢中で、女性や恋愛について一切触れてこなかった。だから、マリーへの純情に目覚めてからも、どのようにすれば良いのかわからず、とんと困り果てていたのだ。


 そこである日、クラウスは意を決して、兄に相談してみることにした。


「兄上、一人の女性を好いてしまったのですが、私はこれからどうすれば良いのでしょう」


 夕餉後、ヴィクトールは蝋燭の灯りを頼りに、念入りに剣の手入れをしていたところ、弟から突拍子もない相談を受けたため、手元が狂い、指先を切りそうになった。


「まことか、クラウス」


 ヴィクトールはそう言うのがやっとだった。


「はい、兄上。マリア・アマーリエ=フォン=カレンベルグという、美しい女性でして、」


「わかった、女性の名はよい」


 生真面目な弟の言葉を遮り、ヴィクトールは剣を置いた。さて、どうしようか。


 実直で誠実な性格はアインホルン家の血筋のようで、兄は真摯に弟の悩みを受け止めたが、いかんせんヴィクトール自身も独身であり、浮いた話も婚約の提案もなかった。


「兄上、」


「しばし考えさせてくれ」


 そもそも貴族の男子、女子に恋愛感情は不要である。婦人がある程度の年齢に達せば、領主である父の執政に良い影響を与える嫁ぎ先をあてがわれるのと同じように、男子も親同士の交渉の末、結婚相手がいつの間にか決まっているので、自由意思など皆無だ。


 またヴィクトールが厄介に感じたのは、クラウスの恋相手だ。皇帝に忠誠を誓う父が、皇帝との遺恨があるカレンベルグ家の娘と縁談を組むような間違いは犯さないだろう。かといって、クラウスの初恋をここで切り捨てることも兄としてできない。


 ヴィクトールは文字通り、頭を抱えた。弟が期待の眼差しを向けて、回答を待っている。


「ついてきなさい」


 兄は地下の武器倉庫を後にして、クラウスを自らの寝室へと案内した。そしてベッドの下から一冊の書物を出して、弟に渡したのだ。


「お前の望む回答があるかはわからない。しかし騎士の愛についてはここに書かれている」


「兄上、ありがとうございます」


「もう寝なさい」


 クラウスはいそいそと自室に戻ると、その書物の表紙を見た。『編・騎士道物語』と書かれた書物は、近年、活版印刷術によって大陸中に広まった娯楽小説であり、勤勉な兄がこの書物を所持していることにクラウスは密かに驚いていた。


 期待と不安を胸に抱きながら、クラウスはベッドの横の小机にランプを置き、借りた本を読み始めた。


 『編・騎士道物語』は騎士が活躍する物語を複数編んだもので、おおよそは勇敢な騎士が化け物や敵国騎士に立ち向かう英雄譚だが、内いくつかは「騎士が主人の妻である婦人と主従関係を越えて織りなす恋愛」を描いた宮廷物語だった。これは大陸西の吟遊詩人が歌ったものが帝国内に流入し、貴族の、とりわけ婦人たちの間で流行していた恋愛物語だ。


 宮廷物語では、騎士が必ず夫のある婦人に誘惑される場面が描かれている。対応は騎士によって異なり、誇り高く礼儀正しいサー・ガウェインは拒んだし、若いトリスタンは媚薬の力に負けて欲に陥落してしまった。もちろん、これらはすべて作り物であり、現実でそのような不義を働くのは背教にあたるが、密かに願望を抱く人々にカタルシスを提供している。ヴィクトールは、クラウスが失恋するにあたって「結ばれなくてもこんな恋愛の仕方もある、夢見るのは自由だ」と説くつもりだったのだろう。しかし、恋というものを知ったばかりのクラウスにはその匙加減がわからず、ただ困惑した。


「女性は、かくも恐ろしいものなのか」


 あの美しく、儚げな少女でさえも、このような邪な情が湧くのかと考えると、クラウスは眠れなくなってしまった。目を瞑ると、栗毛色の髪が蛇のようにクラウスの喉元に喰らいつこうとする画が浮かび、純情な青年は一晩中うなされた。


 翌朝、目の下に黒いクマをつくって、遠くをぼんやり眺めるクラウスを兄はたしなめた。


「今は恋愛にうつつを抜かしている場合ではない。陛下が戴冠できずにもう十五年も過ぎてしまっているのだ。もうさすがに持ち越しはできないぞ」


 前皇帝の逝去に伴って、ハインリヒ帝国の君主にルートヴィッヒ五世は即位したものの、教会からの戴冠を終えていないので正式にはまだ「皇帝」ではない。


「モーディッシュ公国か」


 皇帝位に就くには、皇帝に正統な権威を授けている教会本部のある教皇領まで遠征するのが伝統であるが、教皇領に行くには、数年前まで戦をしていた隣国を越えなければいけない。盟約上、戦は和解をしているが、実際問題、越境が難しくなっている。


「また父上の悩みが増えるな」


「そうですね、最近皺がまた増えた」


 先日の叙任式で久しぶりに相対した父の顔をまじまじと見たが、記憶よりも皺があちこちに増えており、年を重ねていたのが物悲しかった。代々皇帝を守る槍として、皇帝直下軍を指揮するアインホルン家だが、クラウスの父が当主となってからは、皇帝の波瀾万丈な人生に付き合わされ、出兵を繰り返しており、幼い頃からほとんど顔を付き合わせたことがない。もちろん兄のヴィクトールも騎士となってから出兵に付き合うこともあったが、次期当主として帝国都市の執政にも関わり、忙しそうにしている。


「お前たち、ちょうどよかった。来なさい」


 不意に父に声をかけられ、兄弟は両肩を上げた。振り返ると不思議そうな視線を投げ、父は「なにかあったのか」と尋ねるあたり、会話は耳に入っていなかったようだ。


 兄弟が駆け足で父上に近寄ると「緊急ではないが」と前置きして、話し始めた。


「紅玉の月に、ツァイムでの合同演習が決まった。ヴィクトール、叙任してから五年以内の若騎士を連れて行ってくれ」


 ヴィクトールが背筋を伸ばし、足を勢いよく閉じる。


「はっ、承知しました。城内の警備と騎士団はどのように割り振りましょう」


「ああ、こっちで大司令官たちに警備を依頼しておく。さすがに陛下も今は戴冠に意識が向いていて新たに戦を起こそうなんて考えていないはずだ、おそらくな」


 兄弟は自ずと目を合わせた。皇帝に信用がないのは今に始まったことではない。


「総長殿、教皇領より枢機卿が到着しました」


「わかった、すぐ行こう」


 ヴィクトールが同行をし、二人は広間へと向かった。クラウスは頭を下げ、二人の後ろ姿を眩しそうに見送りながら、マリーに求婚するにあたって、解決しなければいけない重大な問題を思い出した。


 皇帝直下軍に属して皇帝に仕える形で騎士となったが、クラウスは次男坊であり、どんなに位を上げても軍事司令官止まりなのは見えていた。アインホルン家の嫡子が騎士団の総長を代々継いでおり、長兄のヴィクトールがアインホルン家の財産と共にその名誉を継承する権利を有している。クラウスが手にできる財は、騎士の爵位に伴った領地以外に、戦での功績くらいだ。しかし戦場での覇権は、今や臨時で雇われる傭兵たちに奪われてしまっている。未来に不安しかない次男のクラウスは困り果てていた。


「まずは私自身をどうにかしなければ」


 イゾルデといい、城の后といい、宮廷物語の婦人たちは相手の財に惹かれたのだろうか。それとも騎士の勇敢さに惚れたのだろうか。小さな疑問と期待を胸にしながらも、マリーを想い「楽しみだ」と小さく呟いた。

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