第2部 第27話 マリアの後継者
「開戦の理由がなくなりましたね。さあ、お引き取り願いましょう」
ヨシュカの言葉に皇帝直下軍は野営を解き、城からは引き上げた。しかし城下町を取り囲む軍を引き上げようとしたときに、一部の兵から不満の声が上がった。
「尻込みしたのか!兵を挙げて皇帝軍に歯向かったのだから、攻め込めばいいじゃないか」
そうだそうだと相槌を打つと、家屋に隠れていた城下町の民が騒動を聞きつけて掃除具や料理包丁を持ってきては、中央市場を我が物顔で陣取っている兵の前に立ちはだかった。
「やれるもんだったらやってみな」
出鼻をくじかれて苛立つ兵に対して、故郷を守ろうと立ち上がった市民たち。泥戦は目に見えているが、一触即発の雰囲気を変えられずに、皇帝直下軍の総長がまごついていると、ホルガーが大きな酒樽を担いで現れた。
「はっはっは、どいつもこいつも血が騒いでいるようだな。そうだな、まぁ良い機会だ。飲み比べをしようじゃないか」
ドンッと置かれた酒樽に、リヒャルトも、敵兵も、呆気にとられた。
「そんなに戦いたいのなら、別の方法にすればいいじゃないか。どうせ、このまま帰っても皇帝に怒られるだけだろう。せめて勝敗を決しようじゃないか」
「まさか、貴様、領地を賭けるというのか」
アインホルン家当主の言葉に、ホルガーは満足そうに笑った。
「いいじゃないか。酒くらいは飲めるだろう。ここに、前ツァイム選帝侯より承った大杯がある。これにフィアーツェン自慢の麦芽酒を入れて、交互に飲み合い、どれだけ飲めるか比べようじゃないか。最後まで残ったほうが勝ちだ。勝てば城も、町もくれてやろう」
リヒャルトは愕然とした。己の肉体を呈して戦うならまだしも、酒で、領邦の運命を決めるというのだろうか。
「では私が挑もう」
それまで鳴りを潜めていたアインホルン家の長男が、前に進み出た。その雄姿に、皇帝直下軍側が喚声を上げる。
「いいぞ、こちらはもちろん、私が相手だ」
城主自らの応戦に、市民が負けじと大きな歓声を上げて、城主を鼓舞する。
いつの間に準備していたのだろうか、侍女頭のヨゼフィーネの指揮で大量の酒樽が中央市場に運ばれると、市民は一目散に自宅に戻ってはグラスとつまみとなる食品を持ち寄った。近隣の居酒屋から木製ジョッキが運ばれ、敵兵たちに手際よく配られる。
ホルガーとアインホルン家長男の間に、大きな酒樽を机代わりに立てると、中央に件の大杯が置かれ、ヨゼフィーネがなみなみと麦芽酒をつぐ。もはや敵軍も味方軍も、騎士も兵も市民も関係なく、二人の周りには自然と人だかりができた。
「まず私が」
敵の長男が一気に大杯を乾かし、先制する。大杯の一杯は酒瓶一本分に相当するので、常人であれば当然一、二杯で倒れる。しかし酒には自信があるらしく、大杯を置くと、しっかりとした目つきでホルガーを睨みつけた。
「なら、次は私だ」
長男の半分の時間で飲み干すホルガーに、観客の開いた口が塞がらない。
「もう降参か?」
「まだまだ」
兵たちは邪魔苦しい鎧を無作法にそこらへんに脱ぎ捨て、麦芽酒に舌鼓を打ち、誰もが口元に白い泡髭をつけている。先ほどまで睨み合い、殺気をほとばしらせていた面々に笑顔が宿り、互いに肩なんて組んでいる。
リヒャルトも兜を脱ぎ、夢を見ているかのように、その魔訶不思議な光景を眺めていた。
するとヨシュカがリヒャルトの鎧を拳で叩き、顎で合図する。その先には軍事司令官がリヒャルトの愛馬を連れてきていた。
「兵と騎士を各集落から集めました。こちらの防衛もあるので二百名ほどですが、精鋭です。そしてこれも用意しました。使い方は貴方次第です。さ、急ぎツァイムへ」
早口で説明すると、最後に「ご無事で」と告げ、軍事司令官は何事もなかったかのように侍女からグラスを受け取り、円陣の中へと入っていった。ヨシュカは「急ぎましょう」とリヒャルトを急かし、自身も馬に跨った。
「なぜあなたが」
そう言った瞬間、リヒャルトはヨシュカの横顔に既視感を覚えた。施療院の奥の小屋に隠れた、転生した少年の横顔が重なったのだ。
もう一度「なぜあなたが」と小さくつぶやくと、ヨシュカは微笑みながらこう返した。
「その節は、不躾な態度を取ってしまい大変失礼致しました。しかしゆっくりしている暇はありません。まずは馬を走らせましょう。話はその後です」
ヨシュカを乗せた馬が颯爽と前を駆けていき、リヒャルトは慌てて追いかけた。背後ではいつの間にか楽隊が祭りのような音楽を奏でており、「まだまだあ」と長男が雄たけびを上げていた。
*
ツァイムに向かう道中、ヨシュカは改めて自身が転生者だとリヒャルトに明かした。
「農村の三男坊でしたが、生まれつき足が悪く、農作業に出られなかったので、カレンベルグ家の別荘で小姓として働いていました」
前世はリヒャルトと同じ東の国の教師で、定年まで働いた後、妻と西欧諸国を周ろうと話していた矢先、倒れてしまったのだという。
「奉公先では『よく気が利く』と言われました。まぁそうですよね、時代や国が違えど一度は人の生活を一通り送ってきたのです。ただ、前世で何もできない私を見かねて、丁寧に家事を教えてくれたのは妻だったのでね。何かにつけて妻の声が蘇って、元の世界に無性に帰りたくなるときもありました」
焚き火の炎に浮かぶヨシュカの顔は微笑んでいた。愛しい妻を思い出したのだろうか。
体力のある軍馬とはいえ、一団を連れてとなるとツァイムまで中三日はかかる。また、夜間の移動は盗賊に狙われやすいので、夜は野営を余儀なくさせられた。そのしばしの時間を利用して、ヨシュカは昔話を続けた。
「前世で生きた時間が長いと、記憶の量も多く、まるで昨日のように鮮明だ。徐々に思い出していったとはいえ、混乱しましたよ。それに未熟な子供の感情は、年老いた頭と相性が良くなかったようです。幼い感情が更なる混乱を呼び、無駄に知識をつけた頭と喧嘩し、すっかり偏屈な子供になってしまいました」
そして夏の騒動が起きたという。
「悪いことをしてしまいました。マリア・アマーリエ様の歌声を聞いて、初めての事態に動揺して、癇癪を起こしてしまったんです。ああ、あの時のことを思い出すのが恐ろしい。少年とはいえ、年上の男に迫られて怖かったでしょうに。申し訳ない」
このヨシュカはマリーとも関係があった。点と点が次々とつながれていく中、必死にリヒャルトは話に耳を傾けた。
「審問後、施療院で保護されているときに、マリアという転生者の手記を読みました。彼女はマクシムと男性名を名乗り、ツァイム前大司教を勤めていたようです」
リヒャルトは息を飲んだ。帝国の中でも力を持つツァイムの大司教が女性で転生者だなんて、とんでもない事実であり、よく隠し通せたものだと驚いた。そして、ふとウルリッヒ叔父上の顔が浮かんだ。彼がこの事実を知らないわけがない、むしろ共犯者として秘匿に関与しているはずだ。父も同じだろう。
「自暴自棄になって生きる意味を見失った中、ほんの暇潰しに読んだ彼女の手記で、ようやく私は目が覚めました。そこには彼女の半生が、転生者としての苦悩、自分がなぜ存在するのか、何かこの世界でできることはないか模索する様子など書かれていたのです」
そこまで話してヨシュカは「寝ましょう」と天幕の中に入っていった。リヒャルトは毛布にくるまり、その手記に何が書かれているのか気になって、想像を巡らした。ヨシュカは読んで何を感じたのか。それを読んだら、リヒャルトは、マリーは何を思うのだろうか。
戦が終わったら。
そこからリヒャルトは考えるのをやめ、同じように天幕に入って眼を閉じた。
翌日も日中はツァイムに向けて馬を走らせ、夜はヨシュカの話を聞いた。彼は、マリアのようにこの世界での自分の役目を探すために、彼女と同じ聖職者の道を選んだようだ。「元々、妻以外の女性に興味が湧かなかったですし」と笑いながら、ヨシュカは話した。
ヨシュカはフィアーツェン専属の司祭となるべく、ツァイム領主の推薦で司教座教会付属神学校へと進学した。そして隣のルクセン領で実践を積み、ようやく二年前に司教として独り立ちして、ルクセン大教区の一部であるフィアーツェンをひとりで回るようになったのだという。
「なぜフィアーツェンを選んだのですか?マリアを追うならツァイムの方が良いのでは」
ヨシュカは頷いた。
「ルクセン領のほうが、後々都合がよかったのです。それに北の各集落を回っていると人々から助けを求められて、私の心が慰められていくのを感じたのは確かです」
冷静に自身の心の暗渠を捉え、素直に認めるヨシュカを見て、リヒャルトも自分の胸の内を明かしたいと思うようになっていた。
「僕は前世で、父の期待に応えられなかった。いや、裏切った。だから騎士となり父上を支え、いずれは領邦を父のように統治するのが今世の運命だと思っています」
「とても良いことだと思いますよ」
ヨシュカは受け止めてくれたが、不意にリヒャルトは恥ずかしくなり、話題を変えた。
「貴方は見つけたのですか。自分の役目を」
ヨシュカは応えた。
「マリアの後継者です。貴方の父君も、ツァイム領主もそれを望んでいます。学者だったときの専門分野は時代、地域共にこの近辺でしたし、幸い、まだ研究内容も記憶に残っています。この知識がいつしか役に立つときがくるかもしれません。何かあったときのために、マリアにならって少しずつ手記として書き留めてはいます」
やはりホルガーは、マリアの秘密に関わっていた。自分のことも父に打ち明けるべきだろうかとリヒャルトは一瞬考えたが、「秘密は性に合わない」とこぼした父にこれ以上の負荷を与えるのは申し訳ないと考えを改めた。
「マリアは何か成し遂げたのでしょうか」
「帝国の制度を変えて、大きな変革を成し遂げました。しかしまだ真に願ったことを叶えられていません」
「真に願ったこととは」
この質問に、ヨシュカは答えなかった。
「君はもう転生者じゃありません。前世を乗り越え、この世界の一部になろうとしている。だから君に話すわけにはいきません。私は第三の立場に立ち、人の進化と歩みを見届けようと思います。貴方たちからすれば、とてもおこがましく見えるかもしれませんけどね」
自分はもう転生者じゃない。そうヨシュカに言われて、リヒャルトはなんとなく理解できた。では、マリーはどちらだろうか。
リヒャルトはすっかり冷めてしまったスープを飲み干し、明日には着くだろうツァイムの町を考えることにした。ホルガーは、妻と父の親友の救出をリヒャルトに託してくれたのだ。この期待には必ず応えなければいけない。しかし、リヒャルトは荷台で待機しているものの使いどころをまだ決めあぐねていた。
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