第2部 第26話 ヨシュカ=ランゲ
開戦までに時間がない。とはいえ、時間がどれくらいないのかもわからず、リヒャルトはただ焦燥感に駆られていた。
父はあれから何度か密偵とやりとりを交わしたり、軍事司令官を通して軍全体への指令を出したりと忙しいが、リヒャルトとは言葉を交わしていない。改めてリヒャルトは、領主である父の後ろ盾がなければ一人も動かすことができない自分を、小さな存在だと実感した。開戦の知らせを受けて、城内にいる者は準備に奔走しているにもかかわらず、リヒャルトだけ手持ち無沙汰だ。ひとりの新米騎士となったリヒャルトは「本物」の戦を前にしてうろたえていた。すると、ふと心配そうに見つめる榛色の二つの瞳が思い浮かんだ。
「マリーは、マリーはどこだ?」
精神的な支えとしていた父から離れたリヒャルトの目は、自然とマリーという新妻に向いた。領主の息子としてではなくリヒャルトという個人が、どうしたら小さな女性を守れるのか必死に頭を巡らせ、結果、彼女を侍女と一緒に故郷へと戻そうと提案した。
まだ日も昇らない夜のような早朝、濃霧に紛れ消えて行く妻の姿を見送った後、リヒャルトは主のいない執務室で戦場の配列図を眺めていた。領主の子息として、軍事司令官と肩を並べる場所に位置付けられているものの、お飾りであるのは自明のことだった。不相応な位置にある自分の名前を睨んでいると、突然、見張りの塔の鐘が城内に鳴り響いた。
「南の方角より進軍あり!南の方角より進軍あり!旗はアインホルン」
「皇帝の腰巾着か」
リヒャルトは走って見張り塔へ上り、遠くに見える旗に目を凝らした。山間から漏れる太陽のやわい光を頼りに皇帝直下軍の姿を探すと、どうやら城の周りで野営を組んでいるようだ。見たところ兵糧を積んだ荷台はなく、長居するつもりはないらしい。
「鎧兜用意!これより臨戦態勢に入る!」
軍事司令官の掛け声に騎士たちが城内を慌ただしく駆け巡る。リヒャルトも塔の階段を駆け下りて、専属の従騎士の手を借りながら、板金鎧を着こんだ。
大広間には既に人々でごった返しており、リヒャルトが軍事司令官に並ぶと、前に銀の鎧を着た騎士たちが整列した。ここまでは訓練と同じだが、開戦を前にした騎士たちの荒い息遣いと気迫がリヒャルトを圧倒させる。
「アインホルン家が率いる皇帝直下軍が既に城と町の周りを取り囲んでいる。もはや戦いは避けられない。ここで敗れたら、我らの愛する家族までも犠牲となる。心して戦え」
軍事司令官が飛ばす檄に、騎士たちは背筋を伸ばす。先ほどまでの獣のような荒い気配はいくらか浄化され、騎士としての誇りを取り戻したようだ。
本来ならば、この後に騎士団総長であり城主でもあるホルガーが声をかけ、臨戦態勢に入るのが習わしだ。しかし肝心なときにホルガーは不在だった。リヒャルトは集合前に寝室、執務室と駆け回ったが、その姿は城内になかった。
まさか逃げるなんてことはないだろう。しかし、あまりにも間が悪い。
老齢の軍事司令官がちらりとリヒャルトを見る。その視線の移動に合わせて、騎士たちが鎧を鳴らしながら、体の向きを変えた。城主の代理は、その息子が果たすからだ。
大広間が痛いほどの静寂に包まれる。リヒャルトは大勢の視線に包まれるのは慣れているが、今日の視線は体に突き刺さるように尖っていて居心地が悪い。
リヒャルトは口上に備えて深呼吸したが、はたと気付き、息を吐いた。彼らが求めているのは、総長不在の言い訳ではない。
再び大きく深呼吸をしてから、リヒャルトは騎士たちに向かって大声を発した。
「我らが剣と共に掲げるのは正義である」
前列の騎士が小さく頷く。
「博愛と、誠実な己への忠誠、そして騎士としての誇りを胸に抱き、剣を取れ」
リヒャルトの檄に呼応するように、騎士たちが自然と「おお」と声を上げる。
「侵略者どもから我らの平穏を護れ。いざ、己の命をもって責務を果たせ。フィアーツェンのために、剣を取れ!共に戦おう!」
あの日、叙任式のときに頭上から降り注いだような、地面が割れんばかりの歓声が城中に響いた。城中の騎士が、次期城主の覚醒を待っていたかのように、拳を突き上げ、腹の底から声を上げていた。
「後列より城門へ進め。今城に歩兵はいない、前線は槍隊が守れ。後に騎馬兵が続け」
軍事司令官の指揮に従って、フィアーツェンの騎士たちが整列を崩して動き始めた。リヒャルトは興奮のあまりに、頭がぼやけ、息を荒げながら、その光景を見つめていた。
「リヒャルト様、よくぞやってくれました」
軍事司令官が肩に手を乗せて、リヒャルトを褒めた。この男も幼い頃からリヒャルトを我が息子のように見守ってきたのだ。そしてうるんだ目元を隠すように、兜をかぶり、急いで自身の馬の元へと向かった。
騎士たちが城門を潜り抜け、城の前で陣営を組んでいく。敵は先程の歓声で勘づいたのか、既に戦いの陣形をなしていた。
実際の指揮は軍事司令官が行うが、城主が不在の今、リヒャルトが総長としてフィアーツェン騎士団の頂点に立たなければいけない。口上のときよりも激しく、リヒャルトの鼓動が波を打つ。緊張のためか、兜のせいか、視界が狭く感じられて、息苦しい。
陣営が整うと、敵軍の総長であるアインホルン家当主が口上を始めた。
「我々は皇帝直下軍である。フィアーツェン領邦が教会と共謀し、皇帝が有する善良な民を不当に扱っていると聞いた。それが真のことであれば反逆に値する。すぐにザロモン家が有する領地を皇帝へ返還するよう命ずる。拒めば、このアインホルン家が率いる皇帝直下軍が城と町を攻め入る」
リヒャルトは我に返り、視界が開けた。
「皇帝が有する民?不当に扱っている?」
少なくともリヒャルトの知る施療院の人々は、幸せそうな表情を浮かべていた。故郷で不当に扱われ、皇帝が起こした戦争に巻き込まれた人々がようやく手に入れた小さな幸せだったはずだ。こじつけの口実とはいえ、この進軍はあまりに正義に欠けている。
「我はリヒャルト=フォン=ザロモン、当代城主ホルガー=フォン=ザロモンの嫡子であり、本戦の、」
「あい、待たれよ!」
リヒャルトの返しを割って入った者がいた。
「私が、城主のホルガー=フォン=ザロモンだ。遅れてすまなかったな。少し行き違いがあるようでな、この方を連れてきた」
敵陣営の横から突如馬に乗って現れたホルガーは自陣営の前へと移動し、連れの男に前に出るよう手で促した。その男は聖職者のようで、白い衣装を纏い、銀髪を後ろでひとつに束ねている。
「はい、はい。ここより南にあるルクセン領司祭のヨシュカ=ランゲと申します。本日、戦の仲介人として参りました。どうやらこの度、皇帝側に誤解が生じていたようで、手間をかけさせて申し訳ありませんが、双方、問題の施療院にお越しいただけないでしょうか。そして、皇帝直下軍にディーター=ミュラーという者はいませんか。ルーク=メラ―、クルト=ヴォーゲル、おお、ではこれへ」
戸惑いながらも皇帝直下軍から三人の男が挙手して前へと出た。続いて、アインホルン家当主と同家長兄が兜を外し、不可解な表情を浮かべて馬を降りてきた。
「ああ、施療院は教会区の一部で戦いはご法度ですから、武器を置いていってください。施療院までは馬車を用意しております。残りの方は野営で戻っていてくだされ。貴方たちも城内に戻っていてください」
呆気にとられる騎士たちの間を、仲介人はするすると抜け、相手総長たちを連れて馬車で施療院に向かった。事情を知っているホルガーは城に残り、代わりにリヒャルトと軍事司令官が愛馬で、馬車を追いかけた。
わけがわからないまま施療院に着くと、門扉の前で待っていた女性が馬車に向かって走り出した。途端、馬車に乗っていたひとりの歩兵が声をあげた。
「カリン!」
「あなた!」
男は馬車から飛び降りて、カリンと呼ばれる女性の前で倒れるように跪き、そして二人は抱き合うように泣いた。その様子を見た他の兵も馬車から乗り出して、門の前にいる人々の顔を順に見ては、やがて目当ての人を見つけると喚声を上げて、駆け寄った。
「どういうことだ?」
呆然とその光景を見ている皇帝直下軍総長に、仲介人のヨシュカは静かにこう言った。
「皇帝の戦に巻き込まれて、引き裂かれた家族の対面ですよ」
話を聞くと、仲介人が名前を挙げた三人は、元々は国境沿いの領邦出身で、皇帝直下軍と隣国の戦に巻き込まれて家族を引き裂かれた者だった。男たちは無理やり徴兵された市民で、戦が終わっても破壊された故郷にとどまることができず、そのまま皇帝直下軍に入り、帝国都市へと移った。一方生き残った家族は、大陸を行き交うフィアーツェンの行商に拾われ、この施療院にたどり着いたのだという。
「施療院には他にも戦で両親を亡くした孤児や、度重なる重税に押しつぶされて貧困に陥った家族もいますよ。お会いになりますか?」
アインホルン家の者はさすがに言葉を詰まらせた。施療院の人々から注がれる暗い視線から逃れようと、二人はうつむく。
「貴方がたが言うには、フィアーツェン領邦が教会と共謀し、皇帝が有する善良な民を不当に扱っているという話でしたね。しかし実際に民を不当に扱っているのはどちらのほうだと思いますか。たかだが、一家族の繁栄のためだけに余計な戦を繰り返し、民を犠牲にしているのは皇帝です。その戦で傷を負った者を匿い、癒す施療院を、このフィアーツェンをなぜ襲うのでしょうか。民を二重にも、三重にも傷つけたいのでしょうか。皇帝の有する民なのだから、好き勝手にしても良いとお思いで?それこそ甚だ遺憾でしょう」
アインホルン家当主は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。当主自身もこの矛盾に気付いてはいたのだろう。ヨシュカは続けた。
「この中には、勅令にあるツァイムの自警団から追われた者もいますが、その理由は同じです。ここで心と体を癒しています。戦や暴力から遠く離れたこの地で」
ヨシュカの話に、リヒャルトは圧倒された。幼い頃から出入りしていた施療院だったが、改めて、施療院を建て、多くの人々を受け入れてきた父ホルガーを誇らしく思った。
皇帝直下軍の二人はすっかり青ざめている。その様子を満足そうに見て、ヨシュカは微笑み、こう言った。
「開戦の理由がなくなりましたね。さあ、お引き取り願いましょう」
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