第2部 第25話 フィアーツェンの息子
「まさかもう終わりですか。騎士でしょう? もう少し張り合いを出してくださいよ」
リヒャルトは、地面に倒れている騎士の喉元に剣をつきつけ、見下ろしながら嘲笑した。男は肩で息をしながら、兜の隙間からリヒャルトを睨みつけている。
十七歳になったリヒャルトは、騎士叙任を前に最終試験に臨んでいた。領民も騎士に叙任できるフィアーツェンでは、最終試験はお祭りのように盛り上がり、城下町の中央広場に会場が設けられ、公衆の面前で行われるのが慣例だ。もちろん領主であるホルガーも主賓として招かれ、試合を観覧する。最終試験の内容は各領地によって異なるが、フィアーツェンでは一対一の実戦形式がとられた。もちろん相手は、修行時代に仕えた主君である。
実戦形式の試合では、地上戦を想定して剣もしくは拳で相手が降参するまで戦う。とはいえ、試験を兼ねた試合で本物の剣を取り入れてしまっては血生臭い事件が起こりかねない。そのため、板金鎧対策に生まれた細長い剣(刃が研がれていないもの)が試合に用いられる。これなら、相手を倒すために素早い動きが求められ、従騎士の、鎧の隙を突き通す剣の正確さも判断できる。
リヒャルトは三年間、この舞台であいつらを力でねじ伏せることを神に誓い、不当な扱いにも耐え、必死に鍛錬を重ねてきた。そのおかげか、リヒャルトは拳を交えることなく、剣技だけで相手を打ち負かした。おかげであいつらが、いかに口先のみで相手を威嚇し虚勢を張っていたかが、周囲に晒されてしまった。リヒャルトの勝利に同輩の従騎士が湧く。
ようやく、ようやく。
リヒャルトが剣を腰にしまい、一息ついてから観覧席を見やると、ホルガーが立ち上がって、惜しみない拍手を送っていた。観客席からも歓声が上がり、「フィアーツェンの一人息子」の雄姿を喜んでいるようだ。
リヒャルトはかつての主君に、紳士的に手を差し伸べながら、こう言った。
「いつでも内乱を起こして構いませんよ。そのたびに叩きのめします。今日のようにね」
リヒャルトの差し出した手は案の定、振り払われた。悪態をつきながら会場を去る姿は、どこまでも小物で、群衆に紛れてしまい、もう見えなくなっていた。
フィアーツェンの息子は気を取り直して、観客に向かって手を振り、深くお辞儀をした。そしてホルガーに向かって跪き、忠誠を誓うように頭を垂れると、頭上から降り注ぐ歓声は一層大きくなった。
顔を上げると、珍しく青空が広がっていて、リヒャルトはまるで暗い迷宮から這い出たばかりのように、太陽の光が眩しく感じられた。しかし、その光の中にふとマリーの気配を感じると、太陽はリヒャルトを温かく包み込み、立ち上がる勇気を与えてくれた。
一時期はマリーを遠ざけていたリヒャルトだったが、婚約式をもってマリーとの結婚を前向きに受け入れた、つもりだった。しかし、侍女と二人でフィアーツェンに来たときに、早速マリーに夫婦面をされて、リヒャルトはつい苛ついてしまい、心の余裕がなかったことに気付かされた。そしてせっかく設けた聖堂での二人きりの話し合いでも、リヒャルトは子供じみた態度を取り、マリーに背を向けた。リヒャルトは前世から抱えてきた夢の半ばにあり、愛する父との絆を深めているところに、妻といえどもみだりに踏み込んでほしくなかったのだ。
そんなリヒャルトを、マリーは尊重し、歩み寄ってくれたのは意外だった。進んで聖堂内を掃除し始めた彼女に、リヒャルトは母シーラの姿を見る。寝物語のシーラは領民に煙たがられながらも、根気強く対話を重ねて自身の愛情を伝えて、領民の心を溶かした。取った行動は違えど、二人は真剣に人と向き合い、素直な想いを伝えてくれたのだ。
一方リヒャルトは、これまで領民から無償の愛を注がれながらも、心から有難いと感じたことはなかったことに気付いた。先輩騎士からの執拗な嫌がらせもすべて受け流し、相手にしなかった。つまりリヒャルトは、人と向き合うことを放棄して、父の期待に応えることだけを一心に励んできたのだ。しかし、果たしてこの愛のない態度が、本当に父の望む息子の姿なのだろうか。
リヒャルトはこのとき初めて自らを反省し、少女から成長したマリーに脱帽した。そして彼女に真摯に向き合うために、リヒャルトはなじみのないツァイムの大聖堂ではなく、彼の聖堂で妻となるマリーに誓いを立てたのだ。
すべてを成し遂げたら胸の内を話そうと。そして共に、北の大地で生きて行こうと。
リヒャルトとマリーが結婚してから約一年が経った頃、ホルガーと領邦内を周っていると、東側の集落で、大陸各地に放っていた密偵の一人が急報を知らせた。
「帝国都市に戦の動きがあります」
ホルガーはすぐさま首長の邸宅に入り、執務室の用意を言いつけた。首長が使用人たちを捌けさせ、急ぎ準備している中でもホルガーは構わず長椅子に座り、密偵の話に耳を傾ける。どうやら帝国都市に各領地から志願兵が集まり、日夜練兵に励んでいるという。その数は、三千を優に超えるようだ。
「しかし隣国との争いは聞いていないぞ」
「相手はここフィアーツェンです」
その言葉に、誰もが耳を疑った。密偵はぎゅっと口を縛り、ホルガーの言葉を待つ。
「どういうことだ」
「まだ詳しいことはわかりません。しかし目指すは北と、兵士たちが息巻いています」
ホルガーはにわかに信じられないように、顎鬚をさすった。しかし悠長に領邦を周っている場合ではないことは確かであった。すぐさま立ち上がり「ご苦労だった、引き続き頼む」と胸元から出した賃金を密偵に渡し、肩から覆うようにして抱きしめた。そして飲み物を持ってきた首長とすれ違いざまに執務室を出て、城下町へと戻ってきた。
本来なら半日かかる道程を、一刻半で戻ってきたので、馬たちは肩で息をして苦しそうだ。マリーが心配そうに見つめてくるが、リヒャルトにも構う余裕がない。ホルガーの怒号ですぐさま城中の騎士たちが集結し、開戦について聞かされた。
「戦の理由はまだわかっていない。だが相手は、一国を相手にしてきた皇帝直下軍だ。これからいつ何時攻めてきても対処できるように準備にかかれ」
数十年前のヴィンミュレの反乱以降、久しぶりの戦にフィアーツェンの騎士たちはどよめいた。若騎士は戦の経験がないため、不安な表情を浮かべている。しかし日々の訓練のおかげか、軍事司令官の指揮により、騎士たちは各自持ち場へと消えて行った。
そこに新たな密偵が知らせを伝えに来た。自治領を守るためには帝国の情報、とりわけ戦好きな皇帝の動向については常に掌握する必要があり、各領主は商人に複数の密偵を紛れ込ませ、国内外の様子を探っているのだ。
「戦が始まります」
「それはもう知っている。今ちょうど騎士たちにも伝えたばかりだ」
「では施療院はまだ無事ですね」
密偵の一息に、ホルガーは動きを止めた。
「なぜ施療院が関係している」
空気が一瞬にして冷える。密偵はすぐさま姿勢を正し、再び頭を垂れて報告した。
「本日発令された皇帝の勅令によると、数年前に検邪聖省より発せられた心得違いに則り、善良な市民を『前世を語る者』としてツァイムで捕らえ、背教者と見做し、フィアーツェン領内施療院に収容しているとの情報あり。皇帝曰く、これは帝国の大切な民の平穏を揺るがす、教会の越権行為であり、教会の恐ろしい企てを了承し、加担した両領主も同様に『誠に遺憾』であるそうです」
ホルガーは呆気にとられ、執務室の椅子にドカッと座り込むと「馬鹿な」とつぶやいた。
「皇帝は勅令で戦を示唆していません。しかし戦のために兵が動いている事実に違いはありません。この二つを結びつけるのは妥当かと思われます」
ホルガーは密偵の言葉に黙ってしまった。一方、リヒャルトはかつて施療院で見た少年と、ゲルダの噂話を思い出した。あの少年を見たのは確か自警団の話を聞く前だったから、皇帝の言う「ツァイムで捕えた者」ではないだろう。しかし噂話は勅令と一致する。では、あの小屋の少年以外にも施療院には多くの転生者がいるのだろうか。
ふとリヒャルトが密偵を見ると、一点を見つめたまま動かない主君に対して、跪いたまま様子を伺っているのが見えた。慌てて、リヒャルトが見様見真似で代わりに密偵に報酬を渡し「他には?」と聞くと、密偵は小さく頷いて続けた。
「皇帝軍は長年睨み合っている南部の国とそろそろ決着をつけたいらしく、金策に急いているようです。ここからは勝手な憶測ですが、教会が利益追求に走っているので、各領地で教会が隠し持っている財を戦で取り上げ、集結させたいのではないでしょうか」
リヒャルトは「なるほど」と同意したが、正直、領邦の管理で手一杯で、隣国との関係性まで理解に及んでおらず、自分の無知に歯がゆさを覚えた。
「もうよい、わかった。すまなかったな」
ようやくホルガーが口を挟んだが、密偵に報酬を渡そうとするところを見ると、意識は別に向いていたようだ。密偵は誠実に、丁重に断り、部屋を後にした。
見送った後も、リヒャルトは初めての戦を前にどう振る舞えば良いのかわからず、思慮にふけるホルガーの物珍しい姿をただ見つめることしかできずにいた。
勅令が事実なのか、ただの勘違いなのかさえわからない。おそらく真実を知る父はこの調子で、口を閉ざしている。既に戦の準備を始める騎士たちのためにも、自分が動かなければいけない。
リヒャルトは勝負に出た。
「父上、施療院にいる前世を知る者を解放し、皇帝軍に差し出しましょう。奥の小屋に住まう少年です。我が領邦と領民を犠牲にしてまで、背教者を匿う必要があるのでしょうか」
ホルガーは息子の言葉に驚きを隠せなかったが、取り繕うこともなかった。
「お前、見たのか?そうか、隠し事なんてやはり俺の性に合わないな」
それだけ言うと、リヒャルトの申し出に答えることなく、また視線を遠くに向けた。呑気な態度に、リヒャルトは業を煮やした。
「父上、街が戦場になるのです。相手は好戦的な皇帝軍だからこそ、早めに動くべきでは」
「まぁ、落ち着きなさい。今は各集落へと走っている司令官たちの戻りを待とう。もちろん兵糧の準備を始めながら」
リヒャルトは、父の悠長な返事に腹が立った。生まれて初めての開戦宣言で興奮状態にある自分とは反対に、思慮に耽る父の姿は現実を受け入れていないように見えたからだ。
「相手には傭兵がいます。敗戦地には容赦のない奴らだ。そんな奴らにフィアーツェンの地を踏ませたくありません!」
いつになく声を荒げる息子をたしなめるように、もう一度低い声でホルガーは言った。
「落ち着きなさい。手は打つ」
「その手とはなんですか。教えてください」
「むむ、」
なぜ息子相手にこう口ごもるのだろうか。
騎士になりたてで実戦経験がないからとはいえ、実の息子であり次期当主でもある。そんなにも信用がならないのかと肩を落とし、いや、怒りに火をつけ、リヒャルトは「もういいです」と執務室の扉を乱暴に開けた。
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