第2部 第24話 リヒャルト=フォン=ザロモン
従騎士は「盾持ち」とも呼ばれるように、修業期間中はひとりの騎士に仕えて、平時も戦時も、主君の身の回りの世話をしなければいけない。平時においては給仕、鎧兜や武器の修理・手入れ、戦となれば装具を運搬して、主君の着替えを手伝う。戦場では馬を引き、歩兵として戦に参加しながら、必要に応じて主君の武器を交換・補充も行う。
一方で騎士と同じように「七つの勇敢」と呼ばれる訓練に参加して、自身の鍛錬にも励まなければいけない。この訓練には乗馬、水泳、弓射、登降、競技、格闘と撃剣、礼節と社交の七項目が含まれ、騎士に戦士としての身体能力や、貴族としての自覚と優雅な教養、そして戦闘時の闘争心と平常時の平等精神といった、騎士たる者の心身の基本を身につけさせる大切な訓練だ。
繰り返すが、「騎士」は男爵や子爵と同じ、貴族階級のひとつであり、平民でもペイジ時代から修行を積めば手に入れられる階級だ。もちろん、騎士の中でも五段階の級があり、騎士、司令官、大司令官、軍事司令官、総長の順に位が上がっていく。フィアーツェンでいえば、領主であるホルガーが総長にあたる。
訓練とは別に、教会は騎士が従うべき行動規範を設けた。かつての騎士は戦の末に敗戦地である街での破壊、略奪、暴力といった狼藉を働いていた。目に余るような蛮行を繰り返す騎士に、教会は「騎士道」を説き、その精神を健やかに育てようとしたのだ。
騎士道では「騎士たるもの、博愛心、忠誠心、品格、正義によって満たされた者であり、世に秩序を戻すために選ばれた者である」とし、「神の御加護の下、子供、婦人、病や怪我を患った者、老人といった弱き者に手を差し伸べ、護るべし」と説いた。
しかし、どんなに素晴らしい導きを説いても、思惑通りにいかないのが常である。
「おいおい、フィアーツェンの一人息子だろ?もう少し張り合いを出せよ」
暦上は春とはいえ北の大地に緑が宿るのはまだ先だ。白い吐息を吐きながらその男は、馬の世話をしていたリヒャルトに難癖をつけ、頭から冷や水をかぶせた。周りでは取り巻きが不敵に笑い、リヒャルトの同輩は関わらないようにと、顔をそむけている。
フィアーツェンで従騎士となったリヒャルトだったが、主君と仰ぐべき騎士を尊敬できずにいた。領主の子息という看板を下ろし、訓練に励んでいたつもりだったが、周りの目は厳しく、後輩をしつける側は冷酷だった。
何も言わずに、ただ静かに睨みつけるリヒャルトに「つまらない奴だな」と吐き捨て、男たちは城へと戻っていった。ただ悔しさに、リヒャルトは奥歯を強く噛み締める。怒りで全身が火照り、寒さは感じられない。
床にまかれた水を利用して、馬房の床を刷毛で磨き、しなってしまった干し草を取り替える。ようやく仕事を終えて寒気を感じた頃には、同輩はすでに引き上げており、ヨゼフィーネが毛布を持って出入口で待ち構えていた。
「リヒャルト様、」
「いいんだ。あいつらには興味ない」
ヨゼフィーネから毛布を奪い取り、冷たくなった体を頭から覆う。温かい暗闇に包まれて、深い息を吐くことができたリヒャルトは小さな声で「ありがとう」と伝えた。
「大人の世界」には階級による上下関係が存在するが、騎士の修行時代においてはどの階級の出であろうと公平かつ平等に扱われるため、たとえ領邦の統治者の息子であっても、指導する側の騎士たちには関係ない。
ただ、昔ながらの貴族の家柄出身であれば、リヒャルトに突っかかるようなことは恐れ多くてできないはずだ。ゆくゆくは自分が仕える身分の者だからだ。リヒャルトが言う「あいつら」は、他領地出身の平民から成り上がった者、下級貴族ないし次男坊以下の者なので、保身を考えずに存分に突っかかってきた。
騎士となれば仕える主君(大抵は領主)から給料として身分に見合った領地を与えられるが、新騎士が請け負う小さな領地では税収が少なく、武器や防具、馬の調達やその維持費を賄えない。だからこそ実家の財力に頼れない「あいつら」のような者は、戦があればすぐに主人から離れ、傭兵として戦の場に出向き、手柄を上げ、敗戦側にたかりながら財を築いていく。そこに騎士道に準ずる品位などないが、金は手に入る。腕ひとつで大金を稼ぐことができる分、成り上がりを狙う者にとって騎士は都合が良かったのだ。
そんなあいつらは権威など恐れない。むしろ、領邦を治めるザロモン家でさえ、自分たちの餌食にしようと企んでいるほど野心家だ。あいつらは訓練で相手をするたびに「棒切れのようなお前からなら、簡単に領地を奪えるな」と内乱をちらつかせて煽るのだ。
「くそっ」
濡れて肌にまとわりつく衣服を脱ぎ捨て、リヒャルトは暖炉の火にあたった。赤い炎に照らされて、今日つけたばかりの生傷が、白い体に浮かび上がる。まだヒリヒリと熱を持っていて、冷たい水に反応したのか少し傷が盛り上がっていた。
『即今、当処、自己』
何度も心の中で繰り返してきた禅語を改めて口に出して、リヒャルトは自分を保った。変えられるのは自分だけ。そう考えるからこそ、あいつらに怒りを覚えながらも、いつでも目線を自分自身に向けることができた。
負けるのならば、技を磨いて勝てばいい。煽られるのならば、相手にしなければいい。将来、領主になったときに見返せばいい。
リヒャルトは視線を下ろし、ここ最近胸についた筋肉を手の平で丁寧に確かめた。まだ育っていない青年未満の肉体は、弱弱しく、頼りなく感じられる。
「入るぞ」
執務を終えたホルガーが、無遠慮に寝室へと入ってきた。まだ乾かしきれていない髪を適当な布切れで隠したが、傷が絶えない上半身はまだ裸のままで、リヒャルトは慌てた。
「またやられたらしいな。どこの家の奴だ、無用な暴力は、」
「いいから、放っておいてくれ!」
リヒャルトは大声をあげ、父親を制した。ホルガーの後ろに隠れていたヨゼフィーネは驚いて手にしていた手当の器具を落としてしまい、廊下に金属音を響かせた。
「子供扱いをしないでくれ」
そう抗議した途端に、リヒャルトの脳裏に前世の記憶が浮かんだ。
死ぬ前に挑んだ剣道の大会。少年は、竹刀を道場の床に投げ捨て、叱咤する父を睨みつけながら「あんたの期待に応えられない」と吐き捨てた。同輩よりも技量で劣る自分は、努力しても勝てないと勝手に悟り、諦めてしまったのだ。あのときの、怒りと失望と悲しみが入り交じった父親の顔を思い出したのだ。もうあの顔は見たくない。だから、今、リヒャルトは自分の力で立ち上がりたいのだ。
ホルガーはじっとリヒャルトの目を見てから「すまなかったな」と一言添えて、扉を閉めた。廊下からヨゼフィーネの声が少し聞こえたが、またすぐに静かな城に戻っていった。
啖呵を切ったからには、もう戻れない。
リヒャルトは爪を噛みながら、暖炉の前を行ったり来たりし、前世の記憶と今しがた起こったことを反芻し、ようやく腹を据えた。
今日も明日も結局同じで、あいつらと同じ土俵に立たずに、自分自身を変えていけばいい。気高くあれ。それが領主たるものの姿だ。
*
その夜、リヒャルトは日々の訓練で体も心も疲れ果て、どうにも感情が落ち着かなかった。あいつらに浴びさせられた言葉が渦となって、リヒャルトの頭から心臓まで侵し、激しい感情は四肢の先まで伝わっていて、熱を帯びている。感情の濁流を止める術も思い浮かばず、ただ暗闇の中、明かりもつけずに城内をさまよい、そして外に出た。
雪ですべてが埋もれ、獣たちも息を潜めるフィアーツェンの静かな冬。その耳が痛くなるほど沈黙した空気が、冷たい雪の感触が、ようやくリヒャルトの頭を冷やした頃、目の前に寂れた聖堂が現れた。
土着の神や精霊が宿ると古くから信じられている北の大地に、ひっそりと建てられた聖堂に、リヒャルトは違和感を覚えると同時に強い興味を抱いた。古くなって錆で詰まった扉をなんとかこじ開け、中に入るとそこは別次元の空間のように感じられた。
扉から一直線に伸びる身廊から、両翼のように列席が広がる。目の前の祭壇は崩れ、両脇に描かれたおそらく受胎告知の漆喰画も色褪せ、ひびが入ってしまっている。かつては文様が美しかっただろう床板もすっかり剥げ、土埃に埋もれていた。その夜は珍しく雲が晴れていて、月が覗いていた。だからか、色グラスから細い、青い光が差し込み、祭壇の前に横たわる古い十字架を照らしていた。
目を閉じると、風が吹き、ふっと冷たいものが頬に触れた瞬間、蝋燭の消える匂いが鼻腔を刺激した。
「リヒャルト、どこに行ったのかと思ったら」
突然後ろから声をかけられ、リヒャルトは飛び上がった。振り返ると、ランプに火を灯すホルガーの姿が見えたので、そっと胸を撫でおろす。
「父上、申し訳ありません。眠れず、ここまで来てしまいました」
「散歩にしては、遠くまで来たな」
ヨゼフィーネが持たせたのだろうか、ホルガーは毛皮の外套をリヒャルトにかぶせた。そこでようやくリヒャルトは、自分の肌が氷のように冷たくなっているのに気が付いた。
「ここはな」
ホルガーは、列席のひとつに腰をかけて、ゆっくり話し始めた。
「帝国の傘下に入ったとき、もう四百年以上も前の話だな。ザロモン家が、教会に言われて建てた聖堂だ。今はもう教会の文化が浸透してはいるものの、当時はまだ領民に受け入れられなくてな。結局、こうやって廃れちまったわけだが、取り壊しもできずに、このままでいるんだ」
そして「俺も小さい頃はここに忍び込んでいた」と、茶目っ気たっぷりに片目をつぶった。豪胆なホルガーも子供時代は悩むことがあったのだろうか。
リヒャルトはもう一度祭壇を見上げた。雪か埃か、月光に照らされて煌めいている。
「父上、この聖堂、僕にくれませんか」
従騎士時代を乗り越えるためには、激しい感情と向き合い、付き合っていかなければいけない。リヒャルトが鎮まりたいとき、この神聖な空間は彼の心の拠り所になるだろう。
「ああ、もちろんだ」
ホルガーは少し迷ったようだが、昔のようにクシャクシャとリヒャルトの頭を撫でて、こう付け加えた。
「いずれ俺が持っているものはすべてお前にいく。こいつは早めに渡そう」
リヒャルトは口をつぐんで、何も返せなかった。思い返せば、従騎士としての生活が始まり、初めて父に歯向かってから、面と向かって話すのを自然と避けていた。
何が起こっても、父の気持ちは変わらない。それはわかっていたことなのに。この温かい気持ちを忘れないためにも、この場所は守らなければいけない。
自然と二人は列席から立ち上がり、入口へと向かった。
「修繕するのか」
「うん、大切にしたいから」
ホルガーは何度も頷く。
「そうだな、そうだな」
リヒャルトが扉を閉めようとすると、聖堂の内側から風が吹くのを感じた。顔を上げると、遠くで祭壇に描かれた神の子が微笑んだように見えた。
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