第2部 第18話 ゲルダ=フォン=ヴィート

 侍女頭、ゲルダ=フォン=ヴィートは塔の小部屋で、領主の末娘、マリア・アマーリエが昨日小姓に襲われた件について考えていた。その手には次男、アイテルが狩り中に枝に引っ掛かり破いてしまったという下穿きが握られているが、針が進む様子は伺えない。


 「襲われた」といっても、暴行を受けたわけではない。小姓は何か怒鳴っただけでマリーにつかみかかる前に、アインホルン家の次男、クラウスが間に割って入り事なきを得た。


 領主は、小姓という低身分の者が貴族の息女に無断で話しかけたことは「誠に遺憾」だが、大事に至っていないので、当面の措置として小姓を館の別棟にある土牢に入れた。小姓の解雇は免れないが、何か特別な沙汰があるわけではなく明日には解放されるだろう。


 旅先、しかも接待中に起こった事故は、早期解決が望ましいと頭では理解しているものの、ゲルダの怒りはどうにも収まらなかった。


 マリーの身体に外傷がないのはわかるが、心に負った傷は外からでは確認できない。幼い少女にとって、年上の少年は力でも言葉でも敵うわけがなく、脅威だ。大人の女性でも男に立ちはだかられたら、蛇に睨まれた蛙のように動けなくなる。もし、これを機にマリーが男性不信となり、結婚に影響が出たならば、領主は今回の決断と措置を悔やむだろう。


 ゲルダは溜息をついて、下穿きを机の上に置いて頭を抱えた。優秀な侍女頭は、自身でも感情的になりすぎているのは、わかっていた。しかしそうならざるを得ない過去をゲルダは抱えていたのだ。


 ゲルダは名前に「フォン」と付くことからわかるように、大陸の東、かつての帝国都市に程近い田舎の荘園領主、つまり中流貴族の出である。十六のときに近隣の同じ荘園領主の嫡男に嫁いで翌年女児を身籠った。子は腹の中で順調に育っていたが、歩くのも一苦労になった臨月に、ゲルダが大聖堂で礼拝をしていると突然腹痛に襲われて倒れてしまった。


 寝床で目覚めたときには、腹の中の子供は息絶え、その亡骸は白い布にくるまれてゲルダの隣に寝かされていた。赤子は女児だった。ゲルダは子守歌を歌いながら我が子を抱え、一晩中手放すことはなかったという。


 愛しい我が子の訃報にゲルダは嘆き悲しみ、食事も喉を通らず、泣き暮れた。領主の妻としての仕事も手につかず、寝室から出ようともしない妻に、夫は愛想を尽かすと「婚儀は間違いだった」と教会に申し出て、離縁し、代わりにゲルダの妹と婚姻関係を結んだ。


 ゲルダは夫の仕打ちを恨むことなく、むしろ自分を解放してくれて有難いとさえ感じ、感謝するほどだった。ゲルダの体は堕胎の施術で傷つき、二度と子供を宿すことができなくなっていたからだ。ゲルダ自身も自分が抱えた女児以外は望んでいなかったので、自分の運命を素直に受け入れた。今でも彼女が赤子の髪の毛を首飾りにして肌身離さず持ち歩いていることは、マリーやイルゼも知らない。


 やがてゲルダは、自分の赤子を神様に返したと考えるようになった。そうして自身の心を鎮め、癒したのだ。


 実家には出戻った娘の居場所はなく、ゲルダは家族から離れるためにひとり故郷を出る決意をした。せめてもの選別にと、父から受け取った書簡にはツァイム領主であるカレンベルグ家への推薦状が入っていた。父にとってゲルダは、手元に置いておくには目に余る存在だったが、それでも娘であり、今生の別れともなると親らしい感情が湧いたようだ。一方ゲルダは推薦状をありがたく受け取ったものの、故郷から一歩踏み出してからは一度も父の顔を思い出すことはなかった。


 十九になったゲルダはツァイム城に入り、侍女としてカレンベルグ家への奉公を始めた。ちょうど四男のベンヤミンが生まれたばかりで、ゲルダは一日三人のやんちゃな兄弟を追いかけて、城を文字通り、走り回った。


 やがて娘たちが産まれると、ゲルダの人生は鮮やかに色づく。とりわけマリア・アマーリエの誕生は、自身の子を抱いたときに覚えた温かい情がゲルダの中で蘇り、かつてない人生の喜びを覚えた。ゲルダは自身の運命はこの二人と共にあると考え、我が子に注ぐはずだった愛情を二人に注ぎ、見守ってきた。


 この厄介で、根深い情ゆえに、ゲルダは今回の騒動で怒りを歪ませてしまったのだ。


「やはり手を打たなければ」


 ゲルダは目についたパンや果物、そして「昨夜の晩餐会からくすねた」と門番が自慢そうに語っていた飲みかけの葡萄酒の瓶を無造作に籠に入れて、扉を開けた。


 月が昇り、梟が低く鳴く頃、ゲルダは土牢の見張りに近づいた。タッソと名乗る男は領主の来訪にあわせて、臨時で雇われた近隣の農夫だ。その頑丈な体は、力仕事や衛兵の交代要員に役立っており、今回も小姓の少年を見守る土牢の見張りに抜擢された。


 手土産を抱えてゲルダが牢に下りると、タッソは冷たい地べたに座って、俯いていた。


「今晩は、衛兵の代わりは大変ね。お腹がすいた頃かと思って、差し入れを持ってきたわ」


 うつらうつらとしていた目が瞬き、タッソが急いで立ち上がると、ゴンッと鈍い音が地下に響いた。男は「ううっ」と低い唸り声をあげ、頭をさすりながらお礼を言う。


「あ、ありがとうございます。ミス・ヴィートのお手を煩わせてしまって」


「大丈夫?頭を見せてみて、こぶができていないか見るわ」


 男は戸惑いながらも、素直に大きな体を丸めた。ゲルダが広い肩にそっと手をかけ、撫でるように髪をかきわける。


「大丈夫そうね。よかった」


 ゲルダは相手の目を十分に見つめてから微笑むと、立ち上がって籠から葡萄酒を取り出す。男の鼓動が離れていても聞こえてくる。酒瓶を開けて手渡すと、「こんな上等なものを」と恐縮しながらも、タッソは喉に流し込んで、満足そうに唇を舐めた。


 瓶の中身が半分になると、ゲルダは赤く染まるタッソの顔に、自身の顔を近づけて小声で話しかけた。


「ねぇ、小姓の少年と話をしても良いかしら?少しの間だけでもいいの」


「ええ、それは危険です。少年とはいえど、背はヴィート様ほどありますし」


「お願い」


 ゲルダの甘えるような上目遣いから、タッソは恥ずかしそうに目を逸らす。


「わ、わかりました。俺は扉のところにいますので、終わったら声をかけてください」


 土牢の天井は低い。体の大きなタッソは背を丸めて、籠を手に扉へと向かった。その後ろ姿が通路の奥に隠れるのを見届けてから、ゲルダは牢の前にしゃがみ込み、鉄格子の中を見やった。牢の中は存外に広く、蝋燭の光が届かない奥に少年はいるようだ。


「少年よ、なぜマリー様に話しかけたの?」


 問いかけは、暗闇に吸い込まれていった。


「少年?答えなさい」


 もう一度話しかけると、奥から乾いた笑い声が聞こえてきた。


「声をあげてどうしたんだい」


 少年の無礼な態度に憎たらしさを覚えながらも、ゲルダは声を落ち着かせて尋ねた。


「マリー様とあなたは何を話していたの?」


 暗闇から、少年の腕が音を立てずに出てきて鉄格子を掴む。ゲルダがのけぞると、少年はうすら笑いを浮かべて、顔を出した。


「私はね、一度死んで生き返ったんだよ。神の子のような再生じゃなくて、転生というんだ。同じ姿形の人間に蘇るんじゃなくて、死んで魂が新しく生まれる人間の体に宿るんだ」


 突然饒舌に話し始めた少年は異様だったが、ゲルダは黙って耳を傾けるしかなかった。


「誰でも死ねば、みんな同じ道をたどる。私が他の奴らと違うのは、死ぬ前の記憶を持っている点だ。前世の記憶を持っているんだよ」


 身振り手振りで話す少年を、ゲルダは気味悪そうに見つめた。見た目は従騎士に上がるくらいの年齢なのに、その表情や態度は妙に年老いている。


「私の質問に答えなさい。前世の記憶なんて、それとマリー様はどう関係あるの?」


 ゲルダの腑に落ちない態度に、少年はハッと鼻で笑い、吐き捨てるように言った。


「大ありだよ。お姫様も俺と同じだ。前世を知っている。間違いない」


 一瞬、少年が何を言っているのか、ゲルダは理解できなかった。


「どうしてそう思うの?」


「故郷の歌を歌っていた。ここからずっとずっと東にある島国の童歌だ。それを指摘すると、小さいお嬢さんのほうだけ明らかに動揺していた。あれはクロだ」


 あまりに信じがたい内容だったが、ゲルダはこれ以上少年の話を聞くのはまずいと感じた。聖書には聖人が起こした奇跡が綴られているが、これはまた違った類の神の御業のような気がしたのだ。それだけでなく、神の子だからこそなしえた転生を、ただの人間が再現するなんて教会の教えに反している。ましてやマリーが関係しているなんて。


「一体、何の話だ?」


 離れていたはずのタッソが、ゲルダの後ろで不思議そうな表情を浮かべ、佇んでいた。少年のこの告発は、いち農夫が聞いて良い話ではない。ゲルダは咄嗟に機転を利かせた。


「ああ、タッソ。こちらへ」


 少年に話を邪魔されないように、ゲルダは急ぎタッソを土牢から離し、また扉へ続く通路まで戻してから、そっと身を寄せた。


「あの、今の話、」


「少年はどうやら、自身を神の子だと言っているようよ。神の子はたった一人なのに、大問題でしょう。こんなの教会の耳にはいったら、黙っているはずがないわ」


 耳元で生唾を飲む音が聞こえた。


「明日、正気ではない彼をこのまま解放すれば、この戯言を周りに言いふらすでしょう。 彼の不敬を放置したことが教会に知られたら、私たちも背教者として断罪されるかもしれない。あの『魔女狩り』のように」


 「魔女狩り」の言葉に、タッソの顔色が変わった。ゲルダが睨んだ通り、この言葉は帝国の隠しておきたい黒歴史であり、この片田舎でも禁句だ。


 魔女狩りと言っても、過去に本当に魔女がいたわけではない。もう五十年程前に、天候不順で作物が育たず、飢饉と流行病が重なり、多くの人が亡くなる年が続いた。領主たちが打てる手を打っても、自然現象を相手には結局どうすることもできず、人口減少は加速し一つ、二つと集落がなくなっていったのだ。


 すると市民の間で醸成された不安がはじけ、集落で隠れるように暮らしていた独り身の女性や浮世離れした老人など、弱き者にあれこれ理由をつけては、飢饉や病を起こした魔女に仕立てあげ、名もなき大衆の怒りをぶつけたのだ。魔女たちは裁判にかけられ、数の暴力で処刑されていった。もちろん、それを権威者が黙って見ていたわけではない。教会や領主が急ぎ法を改正し、取締りを強化して、事態はなんとか沈静化した。


 この話はこれで終わりではない。飢饉を乗り越え、人々の暮らしに平穏が戻ってきた頃、魔女狩りに関する記憶が民衆感情によって捏造されてしまったのだ。彼らは、極限の状況下で自分たちが犯した罪や、理不尽な暴力による私刑がどんなに末恐ろしいものだったかをようやく理解した。そして自身を癒すため、また家族の過ちを後世に伝えないようにするため、魔女狩りに関する町の記録を抹消し、暗い真実を長い時間をかけて「忘れた」のだ。


 いつの日か、町で語られる魔女狩りの首謀者は「教会」となっていた。教会が、教えに背く異端者をあぶりだし、魔女に仕立て上げ、民衆に見せしめにするために処刑した、と。今も、人々の間では「教会による魔女狩り」が信じられ、恐れられている。


 一方、為政者である領主、その家族や城で仕える者の間では、同じ過ちを起こさないために「民衆による魔女狩り」を教訓として語り継いでいる。もちろん公式な記録が失われ、当時を知る人々が亡くなった今、どちらの話が真実なのか知る由もない。いずれにせよ、魔女狩りは帝国で生きる者にとっては恥であり、禁忌であることは間違いないのだ。


「でもマリーお嬢様も、前世を知る者だと、それは教会の教えに触れるのでは」


 戸惑うタッソを、ゲルダはいなすように睨みつけて言った。


「仮に、ご息女が前世を知る者であり、それが領主様に知られたとして。その話を直接少年から聞いた私たちが、無事にこの館を出ることができるかしら」


 封建社会において市民の命などないものに等しい。タッソの顔色が青ざめる。


「いいや」


「まずは小姓の少年のことだけを領主様に伝えて、沙汰を取り決めてもらいましょう。彼が他の人に話す前にね」


 タッソの動きは早かった。翌朝には人払いをし、独り土牢に入っていく領主の姿があった。そしてその日のうちに、小姓の措置についての噂が侍女たちの間で広まった。それによると、勇敢でかつ敬虔なタッソのおかげで小姓の少年の異端が判明し、領主は少年に大司教の審問を受けさせるべく、接待が終わり次第ツァイムへと移送するという。


 ゲルダの咄嗟の機転がうまくいき、目論見通り、あの気味悪い少年をマリー様から引き離し、沙汰を受けさせることができ、ゲルダは安堵して、胸を撫でおろした。


 しかし気になる噂が一つあった。騒動が起きてから、小姓の両親が毎朝狩猟の館の表門に新鮮な野菜や果物を届けているらしい。


 翌朝、マリーとクラウスの密会を終えて館に戻ると、門の脇には泥のついた野菜が籠に溢れるように盛り付けられ、置いてあった。


 抱えてみると、幼子ほどある重さにゲルダは思わずよろけた。門番が手を差しだしたが、ゲルダは申し出を断り、重い足取りのまま誰の手も借りずにひとり運んだ。


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