第17話 羽がもがれた蝶
目が覚めるともう朝日が昇っていた。どうやら侍女が着替えさせてくれたようで、マリーは寝間着姿で自分のベッドに横たわっていた。窓から覗く空は青く、春を告げる大きく白黒の翼を広げた渡り鳥が、隊列をなして飛んでいる。こんなにも平和な朝が戦でなくなると思うと、マリーは身震いした。
朝からツァイムの城は騒がしい。昨晩、マリーが伝えたフィアーツェンへの急襲の情報から、防衛戦の準備が始まったのだ。扉の向こうでは城中の人々が駆け回っていて、のんびりと寝ていたマリーが着替えのためだけに侍女を呼びつけるのは、あまりに配慮に欠けると考えた。しかし泥だらけになった衣服をまた着るわけにはいかず、マリーは寝巻きのまま、部屋の中を歩き回る。まだ昨日の疲れが残っていて体が重く感じられるが、心が急いて落ち着かないのだ。
すると扉のほうから油の匂いに紛れて、パンの香ばしい匂いが漂ってきた。叩く音とほぼ同時に扉が開くと、顔を覗かせたのは四番目の兄、ベンヤミンで、手には果物やパン、チーズを乗せた籠を抱えている。
「朝食を持ってきたよ。一緒に食べよう」
突然の誘いに驚いていると、ベンヤミンはさっさと机の上に朝食を広げ、パンを口に頬張った。その光景にマリーの気はつい緩み、腹の虫が鳴ってしまう。昨日の昼から何も口にしていないことをマリーは思い出すと、観念したように椅子に座り、果物を手に取った。
「どうだい。騎士様がわざわざ運んできた贅沢な朝食だ」
兄のおどけた態度に、思わずマリーは口の中の林檎を噴き出してしまった。そして、咄嗟に口を塞ぎ、目を伏せた。今もフィアーツェンは戦に巻き込まれ、リヒャルトが戦っているかもしれない。自分だけが安全な場所で食事をして笑っているなんて、マリーは自己嫌悪に陥った。するとベンヤミンがマリーの手を握り、口を開いた。
「ねぇ、マリー。有事のときにこそ、平時のように振る舞っていいんだ。そうでないと、人の心なんて簡単に潰れてしまうからね」
末妹の心を察した優しい兄の言葉は、マリーの緊張した心に染み渡った。
「ね、だから今は僕とパンを食べよう。『腹が減っては戦ができぬ』だからね」
「まさにね」
声にだすと滑稽さが目立ち、二人は目を合わせ微笑んだ。
それからマリーは母に服を借り、侍女たちと共に城内を奔走した。防衛戦は籠城戦であり、どれだけ城内に備蓄できるかで戦局が変わる。まずはこのツァイムで皇帝軍を退けなければ、フィアーツェンを助けに行くことさえできないのだ。
マリーはフィアーツェンで過ごした一年で、体を動かす大切さを知った。至極当然な話だが、姫のように泣いていても周りが動いてくれる実家とは違い、嫁ぎ先ではマリー自身が動かなければ相手も自分のために動いてくれない。また、人が動かなければ城の一切が機能しなくなるのを、肌身をもって学んでいた。
フィアーツェンの戦局がどうなっているのか、リヒャルトが今も生きているのか、わからないし、考えても答えは出ない。マリーは不安な心に囚われないように、体を動かし続けた。体を動かすと、頭も回るようになる。長期保存の利く常備食を仕込みながら、マリーはようやく昨日のリヒャルトの想いを真に受け取った。「逃げてほしい、生きてほしい」という彼の願いを受け取ったのならば、どんなときでも働いて、食べて、寝て、生き続けなければいけない。夫が生きていようと、生きていまいと。マリーは誰にも見られないように汗に混じって流れる涙を拭った。
その夜、長兄カールはハインリヒ帝国の地図を食台の上に広げた。
「マリーには悪いが、最悪の事態を想定しておこう。フィアーツェンが今日落ちたとして、軍がここまでたどり着くのに、歩兵を連れてだと三日はかかる。物資を補給する時間を加えると四日だ。ならば、最短でも五日後に開戦となるだろう」
いつもは広々としている食堂だが、近々臨戦態勢に入るため、城に住まう者すべてが集められており、人々でひしめいて窮屈に感じられる。どうやら領邦の内地側から騎士が応援に来ているようで、帯刀した男性も多い。
「猶予はあと四日だね。それぞれの進捗状況を確認しておこう。まずは警備から」
次兄アイテルが後を引き継いだ。カールは父や他の騎士たちと、城内見取り図を見つめて防衛陣をどこに張るか、検討している。
周辺の集落から帰ってきたばかりの、三男テオとベンヤミンは軽食をつまんでいた。二人は領主の名で「非常事態令」を発布し、戦に備えるよう、領邦中を周って領民に通達していたのだ。
「戦に備える」とは言っても、領民たちは内乱を起こさせないように武器所持を許されていない。家族や私財、家畜を守るために彼らができることといえば、せいぜい近くの森や別の領地に避難するくらいだ。天災などの災害時には大聖堂も避難所として機能するが、今回は当てにできない。ここ何百年、大きな戦がなかっただけに、彼らの不安と絶望は計り知れない。
「まさか自分が戦に立ち会うなんて思わなかったよ」
ベンヤミンのぼやきに、「戦とは、そんなものだ」とテオは返した。
*
フィアーツェンへの奇襲から四日目の深夜。見張り塔の鐘が慌ただしく城内に響き渡った。
「東に火の手!!東に火の手!!全員備えろ!!」
マリーはベッドから飛び出し、急いで城下町を望むバルコニーに出ると、警報の通り、城下町の東側、新市街の廃墟から火が上がる様子が確認できた。古木の燃える匂いが、風に乗って城まで届いている。
「最短でも明日じゃないのか」
「奇襲が好きな奴らだな」
「準備が整っていない、どれだけ凌げるか」
同じようにバルコニーに出てきた使用人たちが、口々に不安を漏らす。街に非常事態令を出したとき、開戦の理由は伏せられた。しかし、相手が「皇帝直下軍」とわかると、ある程度察しがついたのだろう。街のあちこちで元自警団の連中を相手に小さな騒動が起き、騎士たちはその仲裁に時間を割かれ、戦の準備は後手に回ってしまったのだ。
「騎士たちは戦闘準備にかかれ。落ち着いて、昨日決めた配置につくんだ。男はみんな武装をしろ。侍女たちは必ず二人で行動するように。そして母上とマリーを奥の部屋へ」
カールは自身の読みが外れたことに苛立ちながらも、冷静に状況を読み、急ぎ、城内にいる者に指示を出した。
「とうとう来たか」
父が、夜空に昇る黒煙に目を細めた。そして娘の頭を撫で、いつもよりも穏やかな声色で話しかけた。
「心配するな、すぐに追っ払ってやる」
「ささ、マリー様、お着替えしましょう。急ぎ、水と食べ物もお持ちします。奥へ」
いつの間にか横に立っていたイレーネが、マリーの手を引く。使用人たちはここ数日、いつ攻め込まれてもいいように、仕事着のまま就寝していたようだ。
開戦を前にして興奮しているようで、マリーの鼓動がいつもより早く感じられた。平常を装っても、息が荒れ、喉が乾いていく。
イレーネが寝室に用意していたのは、汚れた小姓の服、男装だった。そして「これを」と小さな布袋も一緒に渡された。
その配慮に、背筋が凍る。戦とは、そういうものなのだ。
帽子の中に長い髪を隠して目深にかぶると、イレーネも同じように着替えた。そして城門へと急ぐ騎士たちの間を縫って、マリーたちは反対側にある見張り塔まで急いだ。そこには外からは見つけにくい使用人の部屋があり、緊急時の避難場所として重宝されていた。
手持ちランプの火を消してから部屋に入ると、マリーは部屋に唯一ある換気用の小窓から外を覗いた。さほど時間が経っていないように思えたが、薄暗がりの夜に城下町の半分を飲み込む炎が見えた。すでに半分以上に炎が及んでいるようだ。
いや、火事ではない。
マリーは薄目になってもう一度炎を見つめ直すと、炎だと思ったものは人が持つ松明の光だった。松明を掲げた皇帝軍が、城下町に押し寄せているのだ。
「もうあんなところまで」
予想以上の兵の数にイレーネは震え上がる。
「あれらは、すべてフィアーツェンから流れてきたのでしょうか」
街の様子に気を取られていると、突然、山の方向から轟音が聞こえた。
「後ろから?」
「背後の城壁が破られたというの?」
小高い丘の上に建てられたツァイム城は城壁と堀で囲まれ、山側には大きな河川が流れている。さらに奥には森が広がっているので城に入る道は、城下町から続く一本の坂道以外ない。そういった地形の利があるツァイム城は、籠城と防衛に適した要塞として名高い。だからこそ、山側からの侵攻はまさに「奇襲」であり、城の者に大きな衝撃を与えた。
マリーたちのいる離れの塔は山側にあるため、皇帝軍が岩を投げ込んで城壁を崩す音と振動で何度も揺れた。城内では騎士たちが右往左往する足音、そして鎧がかち合う金属音がそこら中で響いている。迫りくる音の波に耐えられず、マリーは恐怖で立ち上がったがすぐにイレーネにしがみつかれ「動いてはいけません。信じましょう」と体で制された。
部屋の隅で二人は向かい合って抱き合い、影に溶け込むように身を縮めて隠れていていた。マリーはイレーネの肩越しに、小窓から覗く赤い大聖堂を見つめた。月明かりもない深夜、人々が掲げる松明で街は煌々と輝き、まるで大きな炎に包まれているようだ。
騎士たちの足音に加え、侍女たちの悲鳴や騎士の怒号が聞こえるようになると、恐怖が徐々にマリーの心を蝕み、細い指が震えだす。恐怖に囚われてはいけない、そうマリーは強く、繰り返し念じては拳を握りしめ、奥深くに眠る小さな闘志を燃やした。
「ここだ!!」
古い木製の扉はいとも簡単に蹴破られ、男たちの鋭い目が割れ目から覗く。イレーネの服を強く掴み、マリーは目を固く閉じた。
粗暴な足音がマリーたちの前で止まる。
最期を覚悟したそのとき、頭上から聞こえたのは懐かしいあの声だった。
「やっと見つけましたよ、マリー様」
かつて恋焦がれた黒髪の騎士は、猛禽類のような目でマリーを見つめていた。そして剣を鞘に納め、マリーに手を差し伸べた。
「クラウス=フォン=アインホルン」
名前をつぶやくと、つい口元が緩んだ。
同時にマリーの中で様々な想いが錯綜する。かつての想い人に再会できた喜び。森で見たあの軍旗は見間違いではなかったのだという絶望。細やかに抱いていた希望。クラウスがまさか攻めてくるなんて夢にも思わず、心のどこかで信じていたのだ。しかしそれが今打ち砕かれた。
男を見上げるマリーの口元から、一筋の血が流れた。
まだ、まだ彼の一挙一動に心が舞い上がる女がいる。その手を求める女がいる。目の前の男は、夫の城を落としてきたのだろうか。次は、私から家族を奪おうというのだろうか。なぜ貴方は私に手を差し伸べるの。目を覚ませ。目の前にいる男に騙されるな。何度も目の前に現れては、心をかき乱し、奪っていく。私の腹の中で何かが蠢く。ああ、これは蝶だ。あなたに羽をもがれ、心を喪った蝶だ。
「マリー様?」
この男が憎い。いっそこの手で殺すことができたら。それが叶わないのならば
「もうあなたには奪わせない」
マリーは懐に忍ばせていた短刀を取り出し、自分の喉元に押し当てた。
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