第16話 一角獣の旗

 夜明け前に出発したマリーたちは街を避け、フィアーツェン城を取り囲む黒い森を抜けるように南下した。移動に用意された早馬は緊急時の伝令を送るために使われるもので、女性が乗るものではない。気を抜けば振り落とされるので、普段馬に乗り慣れていないイレーネは必死の形相で馬にしがみついていた。


 一刻ほど走ると小川が見え、馬が自然と足を緩めたのでマリーは後ろを走るイレーネに「休憩を取りましょう」と声を掛けた。


 木の器に小川の澄んだ水を入れ、マリーが口をつけようとしたところ、馬が何かに気付き、水面から頭を上げた。イレーネと目で合図し、急いで太い幹の根本に身を隠すと、遠くから足音、そして蹄の音が聞こえた。衣服が地面の苔についた朝露を吸い込んで冷たい。


「マリー様、あそこです。騎士団ですか?」


 イレーネが目線を送った先、木と木の間から歩兵と騎馬兵が隊列をなして、行軍しているのが見えた。マリーが目を凝らすと、騎士の盾に皇帝の紋章が刻まれているのが見えた。


「皇帝軍、もう攻めてきたというの」


 背中がヒヤリとする。果たして、フィアーツェン城主はこの急襲を予測しているだろうか。リヒャルトは。


「マリー様、あちら」


 イレーネが指した方向に見覚えのある軍旗があった。騎士の槍に見立てた一角獣の家紋。


「アインホルン家?」


 二年前の叙任式で、クラウスが堂々と掲げた旗と同じ旗で、見間違えようがなかった。


「まさか」


 冷静に考えれば、帝国都市の摂政を担うアインホルン家が皇帝軍に加わるのは至極当然のことだ。しかし改めて戦の現実を突きつけられたマリーの視界は歪み、体が勝手に震えだす。徐々に鼓動が激しくなり、気が付けば、マリーの息は短く、早くなっていた。あの隊列にクラウスがいるかもしれない。そんな懸念がマリーの鼓動を早く脈打たせた。


 呼吸を整えるためにマリーが視線を上げると、隊列は通り過ぎて見えなくなっていた。ツァイムの父のもとに書簡が届いていたとしても、援軍は間に合わないだろう。今マリーがツァイムに向かっても同じだ。「ならばいっそ」と、マリーが来た道を戻ろうと立ち上がると、イレーネに後ろから両肩をつかまれた。勢い余って、二人は後ろに倒れ、冷たい苔の上に尻餅をつく。


「マリー様、城に戻ってもじきに戦闘が始まります。足手まといになるだけでしょう。途中で相手軍に見つかってしまえば、戦況が傾きます。今は、一刻も早くツァイムへ。リヒャルト様なら持ち堪えてくれます」


 イレーネは膝をつき、今度はマリーをしっかり抱きしめてこう言った。


「考えずに、今はとにかく走りましょう」


 マリーの背中に置かれた手が震えている。この若い侍女も怖いのだ。


「ごめんなさい、もう大丈夫。行きましょう」


 地面に落ちた木の器を拾い上げ、マリーは馬にまたがり、振り返らずに森を後にした。馬を走らせながら、マリーはあの夜、焚き火の炎に照らされたクラウスの顔を思い出した。


 いつからアインホルン家は挙兵を画策していたのだろうか。


 考えても仕方ないが、マリーは思考を止められず、唇をかみ締めた。



「城門を開けろー!マリア・アマーリエ様のご帰還だ!」


 見張り塔の上から衛兵が門番に指示を出すと、落とし格子を引き上げる鉄鎖の音が暗闇の中響いた。ツァイムの上空には月が上り、城を照らしている。


「マリー、さあ、中に入りなさい。イレーネもよくマリーを守ってくれました」


 マリーたちが城門をくぐると、寝間着に外套を羽織っただけの母が迎えてくれた。イレーネは他の侍女に支えられ、給仕室の奥へと連れてかれる。一日中、休憩もろくに取らずに早馬にしがみついて走ってきたのだから、二人とも倒れ込んでもおかしくないほど体力を消耗していた。


 マリーも乳母と母に支えられながら歩き、サロンの長椅子に体を沈めた。久しぶりの実家の匂いに、マリーはふと息をついた。


「疲れただろう。今日はもう休みなさい。そちらからの書簡は届いているし、出兵の準備も滞りないので安心なさい」


 長兄カールがマリーに毛布をかけたが、マリーはすぐに毛布を剥ぎ、立ち上がった。


「兄上、もう皇帝軍がフィアーツェンに攻め込んでいます。今朝、城に向かって侵攻しているのを、森で見かけました」


 マリーの訴えに、カールの顔色が変わった。


「もう月が上がっていますが、急ぎ兵を出していただけないでしょうか。リヒャルトたちは戦の準備をしていましたが、奇襲に気付いているかわかりません。だから」


「兵は出せん」


 遅れて駆けつけた父が、代わりに答えた。


「なぜ」


「すでに侵攻されているのなら話は変わる。ザロモン家の領地は広大だが、その分、集落同士が遠い。すべての戦力を一箇所に集中できたらフィアーツェンにも分があるが、奇襲ともなれば対応できないだろう。対して、皇帝直下軍は一国とやり合える兵力がある」


「つまり、もう勝敗は決していると」


 カールがマリーの肩に手を置いて、長椅子に座らせた。


「酷な話だが、もって明日までだろう」


「そんな、そしたら」


「それに聞いていないか?フィアーツェンの次は、ここツァイムという話が出ている。だから我々はなおさら今、城を離れるわけにはいかないのだ」


 広大な領地を統べる者だからこそ、下さなければいけない決断がある。「わかってくれ」というように、父の大きな手がマリーの頭を覆う。しかし今のマリーにはその手は重すぎた。どんなに祈っても、マリーの過去は赦されないのだろうか。自分の愚行が、故郷に、自分を受け入れてくれた新たな故郷に災いをもたらしてしまった。


 無意識にマリーは拳を握りしめた。今マリーが欲する手は、ここにない。イルゼもゲルダも遠い地にいて、それは寂しくも悲しくもあったが、今なら喜ばしいと言えるだろう。愛する者が一人でも戦禍から逃れたことに、せめて神様に感謝すべきなのだろうか。


 もう何年も神に祈り続けてきたマリーは、これからどのように神様と向き合えばよいのかわからなくなっていた。


 やがて疲労が限界に達したマリーは長椅子に倒れ込み、遠くで母や兄が侍女たちに指示をだす声が聞こえる中、意識を失った。


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