第15話 人生最良の日

 いつくしみ深き神よ

 わたしたちの祈りに耳を傾けてください

 貴方の前で結ばれる二人が

 互いの愛によって強められますように


 叙任式を経て、真珠の月にリヒャルトとマリーは結ばれた。赤い大聖堂の鐘が、新たな夫婦の誕生を祝う。


 婚約式同様に、青空の下で行われる結婚式は市民も観覧できる。領主の末娘の結婚ともなれば街中から中央広場に集まり、領主家族を祝った。大司教の祝辞を終え、新郎新婦が両親や仲人と共に、大聖堂の入口から中央広場まで垂れ下がる赤と白の天幕の下を練り歩いていく。すると人々は家から穀物を持ち寄り、目の前を通り過ぎる新しい夫婦に投げつけて祝福した。やがて楽隊の演奏が輪舞に変わり、人々は自然と手を取り合って、広場で隙間を見つけては踊り出した。


「人生最良の日だ!!」


 結婚式の後にツァイム城の中庭で開かれた食事会では、ザロモン家当主が何度もグラスを掲げていた。最愛の一人息子の門出が嬉しくて仕方ないようだが、親族への挨拶回りで忙しい主役の二人は乾杯に応じることができない。そこで代わりにカレンベルグ家次男のアイテルが、新郎父の相手を買って出た。おかげで、まだ日が高いところにあるのに机に顔を突っ伏している。そんな次男の気遣いを知らずに、三男は食欲に身を任せ、四男は喜びと寂しさで周りを気にせずにむせび泣いている。そしてそんな三人の様子を長男は満足そうに眺めていた。


「二人の前途を祝して」


 カレンベルグ家の当主ウルリッヒが、グラスを高く掲げる。


「ザロモン家に」


 次期当主のカールが応じると、ホルガーは頬を緩ませながら返した。


「カレンベルグ家に」


 そして男たちは、婚姻で深まった絆を確かめ合うように、フィアーツェン名産の麦芽酒を一気に飲み干した。


 宴は三日三晩続き、しばらくはツァイム、フィアーツェンどちらも慶祝気分に包まれた。しかし、本格的な夏が到来すると、パンの原料である小麦や葡萄の収穫時季となり、領内の農村は繁忙期に入るため、人々は徐々に普段の生活へと戻っていった。


 結婚式を終えたマリーは荷物をまとめ、侍女を一人連れて、フィアーツェンに戻ってきた。付き添いの侍女はイレーネといい、ゲルダが信頼を置く侍女のひとりだという。昔から姉妹の着替えや身の周りの世話をしてくれていたので、マリーも顔と名前は知っていた。


 約半年ぶりに訪れたこの土地で、本格的な移住生活が始まる。嫁いだばかりのマリーには、次期城主の妻としての修行が待っており、ゆっくりしていられない。


 城主の妻たるもの、家事全般において指揮者となり、日々の食卓準備、衣類、美観・衛生などを仕切らなければいけないのだ。家計を握り、日々食材調達、保存食や物資管理の決定権を握るため、責任も重大だ。


「僭越ながら、私が亡き領主夫人に代わり、マリー様に手ほどきいたします」


 長年、城主の妻が不在のザロモン家では、侍女頭のヨゼフィーネが城内の一切を取り仕切っていたため、マリーは彼女から学び、数々の業務を引き継ぐ。


「お手柔らかにお願いします」


 これはマリーの本心だった。手習いと違って家事には教本がなく、基本的には実践を繰り返して体に叩き込むしかない。そのためにもマリーは侍女頭の一挙一動を見逃さず、助言を聞き洩らさず、覚える必要がある。唯一の救いは共に学び、苦労を分かち合えるイレーネの存在だった。慣れない環境下で疲れはてたマリーは連日泥のように眠った。


 叙任して正式に騎士となったリヒャルトも、次期領主となるべく奮闘していた。かつての暴行は叙任を機に解決したようだ。代わりに、領主直々に厳しく鍛えられるようになり、先日はついに「従騎士時代のほうが良かったかも」とマリーに弱音を吐いた。彼もマリーと同じく、ベッドの上で連日泥のように眠った。


 新婚夫婦の休日はもっぱら教会の修繕に充てられた。城で体を休める日もあったが二人にとってこの共同作業が楽しくて仕方がないようだ。男女が各々の世界を築き、別々に行動する時代に二人で相談し、気兼ねなく口喧嘩をしながら、ひとつのものを創り上げていたのだ。その時間は夫婦の絆を深めるかけがえのない時間となっていた。


 ただどれだけ会話を重ねても、マリーはあの日約束したリヒャルトの前世の話をまだ聞けずにいた。それが唯一の不満で、マリーはリヒャルトとの新婚生活を穏やかに過ごしていた。


 しかし、フィアーツェンにようやく春が訪れた頃、平穏な日々は突然終わりを告げた。


 その日マリーは、一ヵ月ぶりに領地巡りから帰ってきた夫と義父を城門で出迎えていた。先に到着し、馬から降りたリヒャルトを見ると、その表情は険しい。


「どうしたの?なにかあったの?」


 心配そうに尋ねると、リヒャルトは急ぎつくり笑いをして、妻をなだめた。


「いや、心配することはないよ、大丈夫だ」


 しかし遅れて城門をくぐった義父の顔は堅く強張り、只事ではない状況にあるようだとマリーは悟った。城主は脇目も振らず、足早に城内に入っていき「執務室に集まれ、今すぐにだ」と留守番の騎士たちに大声で呼びかけた。緊迫した様子に、騎士たちが一斉に飛び上がり、階段を駆け上っていく。リヒャルトは、ヨゼフィーネが運んだ水を喉に流し込むと急いで騎士たちの背中を追いかけた。


 城内の者も慌ただしい騎士たちにつられて、さも忙しそうに手を動かしていたが、執務室の扉が閉まるのを見届けると、肩を寄せ合い、ひそひそと話を始めた。


「何があったのでしょう?」


 イレーネがおずおずと話しかけてきたが、マリーは答えられなかった。城主のホルガーの豪快な笑い声はよく城内に響き渡っているが、今日のような怒号は古参の侍女もあまり聞いたことがないようで、ヨゼフィーネも心配そうに階上を見つめる。その後も、何度か執務室から漏れる騎士の荒れた声に、使用人たちは何度も立ち止まるが、その都度マリーとヨゼフィーネが声を掛けていった。しかし、気が気でないのは彼女たちも同じで、その日は自然と口数が少なくなっていった。


 夕餉の時間となり、マリーが一人先に食事をとっていると、蝋燭が三分の二ほどの長さになったとき、夫と義父が姿を現した。さすがに平服に着替えていたが、まだ重苦しい空気を纏っていて、二人とも終始無言だ。


 マリーはグラスを傾けて親子の表情を横目で確認するが、領邦巡りや緊急会議について聞き出せる雰囲気ではない。リヒャルトは食台に着席したものの、ふてくされたようにパンを小さく小さくちぎっていて、食べる様子はない。反対に城主は肉やパンを口に放り込み、麦芽酒で流し込むと、ガタガタと乱暴に音を立てて一足先に席を外した。


 城主の姿が見えなくなったのを見計らい、マリーは小声でリヒャルトに話しかける。


「ねぇ、どうしたの?」


 リヒャルトはちらりとマリーを見て溜息をついてから、重い口を開いた。


「戦争が起きるかもしれない」


 思いがけない一言に、マリーは耳を疑った。


「な、え、戦?相手は?北海の国々?」


 フィアーツェンが相対する王国は二つ、ひとつは地続きにつながり、もうひとつは北海の向こう側にある。二ヵ国とも同じ教会を信仰し、交易も盛んで友好関係を結んでいるとマリーは聞いていた。


「違うよ。それだったらまだ良かった」


 リヒャルトはまだパンをいじっている。


「皇帝直下軍だ。どうやら教会から離れて、帝国の実権を握ろうとしているらしい」


 マリーの理解が追い付かなかった。確かに、教会が実権を握り、領主に自治権を与える領邦国家制度下では皇帝の影が薄い。しかし皇帝が一国の主であることに違いないのだ。


「近年、教会は利益追求に走っている。各地で教会に独占されている財を取り上げて、皇帝の下に集結させたいんだろう」


 そして投げやりに「また隣国と戦を起こしたいのかもな」と言った。実際、そうかもしれない。現皇帝は即位前から隣国との戦に明け暮れており、戦費の捻出で帝国都市の重税が問題視されている話は、政治話にうといマリーの耳にも届いていた。


「他の領邦とは戦争を始めているの?」


「いや、フィアーツェンが最初らしい」


 その返答を聞いて、マリーは、リヒャルトの「まだ良かった」と話す意味を理解した。


 隣国が相手なら皇帝軍が応戦し、要請があれば近隣領主は援軍に自治領の騎士を出す。しかし皇帝軍が内地と対峙しているなら、他の領主は静観するに違いない。他領地と連携して皇帝軍を迎え撃つこともないだろう。領主にとって大事なのは自治領の未来であり、他の領邦の戦に巻き込まれて兵力を失うわけにはいかない。国境沿いの領邦であれば、内乱を機に他国が攻め込んでくる可能性も無碍にはできないので、一層自治領の防衛に注力するだろう。


「それに」


 マリーは顔を上げた。


「帝国が教会派と皇帝派に二分される?」


 リヒャルトは静かに頷いた。皇帝直下軍の挙兵の名目には、教会からの権力の奪還がある。この内乱が大きくなれば、教会を後ろ盾に抵抗する教会派閥と時流に乗ろうとする皇帝派閥、どちらに身を置くか問われるだろう。


「でもフィアーツェンは教会派として目を付けられているから、今更皇帝派なんて名乗れない。だから戦は避けられないんだ」


 内乱の一番手に選ばれたフィアーツェンは、ただ応戦するしかない。戦は免れないし、他領邦からの援軍も望めない。頼ることができるとしたら、マリーの実家だけだ。


「父上に援軍を頼みましょう。早馬なら、一日で文は届くはず」


「もう送っているよ。ただ返事がくるのはもう少し後だろう」


「そう」


 既に手を打ったなら、もうマリーは祈るしかない。ホルガー城主と旧知の仲で、情に厚い父ならきっと軍を出してくれるだろう。


「でも、なぜ聖堂もないフィアーツェンに白羽の矢が立ったのでしょう。普通は皇帝の本拠地から近い領邦を攻めて、徐々に領地を広げていくのが定石では」


 すると「そこなんだよ」と言いながら、リヒャルトは肉を刃物で突き刺した。


「挙兵はあまりに唐突すぎる。焦っているのか、近隣から徐々に攻めるより『攻め入る理由』を優先して挙兵先を選んだようだ。それでどうやらゲルダさんが聞いたっていう、自警団の被害者を収容している施療院の噂。それがフィアーツェンに攻め入る理由らしい」


 マリーはかつて尋ねた施療院の話が突如話題に浮上して、戸惑いを隠せなかった。


「どういうこと?本当にあったの?」


「父上が何年も前に建設した施療院が街の外れにある。皇帝側の言い分としては『教会が無実な人々を背教者に仕立て、施療院に強制収容している』と言っているんだ」


「それは、事実なの?」


「僕が通っていたときは孤児や身寄りのない人、重病者しかいなくて、いわゆる弱きものを助ける一般的な施療院だったと思うよ」


「ならば、なぜ」


 おそらくリヒャルトもマリーと同じ反応をしたのだろう。夫は頷いて、返す。


「誤解せずに聞いてほしい。どうやらツァイムの自警団が追い出した人々を施療院でかくまっているという話らしい。ただそれは事実ではない。皇帝軍が噂を真に受けただけだよ」


「ここにも自警団が出てくるの」


 マリーはリヒャルトの言葉に愕然とした。頑として話さない義父の気遣いも理解できた。皇帝直下軍が攻め入る理由をつくったのが、元を辿れば自分の過去の愚行にあるからだ。あの夏の日、マリーがあの小性の少年を懐柔できていたら自警団を生み出さなかったのだ。


「皇帝軍の本当の意図なんてわからない。もしかしたら、うちの広大な領地と領民を皇帝統治下に置きたいのかもしれない。戦を続けるには財力と兵力が必要だからね」


 マリーは頭を抱えた。戦という酷い現実と罪悪感が重くのしかかり、食欲も失ってしまった。反対に、リヒャルトはマリーとの会話で冷静になり、腹を据えたらしい。食事を再開し、父同様に麦芽酒を勢いよく飲み干した。


 翌日から、城主とリヒャルトの言い争いが絶えず執務室から聞こえてくるようになった。


 一斉に開戦の話が伝わり、城内は慌ただしい雰囲気に包まれており、騎士は代わる代わる馬で領邦内の集落を巡り、防衛態勢を整えながら、城を守る若手騎士を募る。侍女たちはヨゼフィーネの指示に従い、備蓄用の食料を入手しに市場へと出かけ、非常食の用意に奔走している。マリーは軍旗の手入れや衣類の用意を針子に指示を出すが、いつ攻め込んでくるかわからない恐怖に皆手が震え、遅々として作業が進まない。


 マリーが慌ただしく城内を駆け回っていると、執務室から出てきたリヒャルトと目が合い、腕を引っ張られ、寝室に連れて行かれた。


「痛い、どうしたの」


 腕を離すと、リヒャルトはマリーをきつく抱きしめ、こう言った。


「マリー、明日、馬を飛ばしてツァイムへ走ってくれ。時間がない。もういつ戦が始まるかわからないんだ。援軍を待っているが、どうなるかわからない、だから」


 領主の家族であるマリーが戦時に城を出るのは逃亡するときだけだ。しかし、挙兵の理由をつくったマリーがひとり逃げ出すなんて、許されるわけがない。だからこそ夫の首の後ろに手を回し、こう返した。


「私が援軍を連れてくる、待っていて」


 リヒャルトは何かを言いかけたが口をつぐんだ。そしてふっくらしたマリーの頬を撫でて、今度は包み込むように妻を抱きしめた。


 ヨゼフィーネだけに事情を話すと、翌朝、薄明かりの中、マリーはイレーネと共に城を出発した。城門ではリヒャルトが大きく手を振っていたが、マリーは一度振り返るだけで挨拶を終え、いち早くツァイムに着くために前を向き、馬を急がせた。

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