第14話 聖堂での清き誓い

 マリーとゲルダがフィアーツェンに滞在する期間は、約一ヵ月。初めてこの地を踏んだときは落ち葉だらけだった地面には、すっかり霜が降りている。リヒャルトの顔から腫れが引いたものの、その後も体のどこかしらを痛めていて、歩き方がいつもぎこちない。


 ヨゼフィーネから必死の訴えがあったにもかかわらず、マリーは未だにリヒャルトと話をできずにいた。そもそも結婚前の二人が密会することは許されておらず、食後にマリーが話を切り出そうとすると、そのたびに陽気な城主が麦芽酒を片手に割り込んできた。


 業を煮やしたマリーは、朝食に向かう途中、リヒャルトの腕をつかんで引き寄せた。


「話をしたいの」


 リヒャルトは渋々と「日曜、聖堂で」とだけ答え、馬舎へと逃げるように消えていった。立ち去る後ろ姿を、マリーが責めるように睨んでいると、ゲルダは背後で肩を震わせた。


 日曜日、リヒャルトとの約束の前にマリーの一行は城下町の散策に出かけた。はじめは食材の買い出しに訪れた中央広場の市だが、ツァイムとは違う品揃えにマリーは夢中になり、市場散策はもはや日課になっていた。


 土壌が豊かなツァイムの市場には近隣の荘園から届く新鮮な野菜や果物、肉といった生鮮食品が並ぶ。また、近隣の国々とは陸続きのため、大陸で流行している宝飾品や洋品、布地などが手に入った。


 一方フィアーツェンは、大陸北部の都市や海峡を交易して回る商人同盟の商圏内にある領邦で、生鮮食品の入手もこれらに頼っている。しかし市場で売られている食品は、生鮮よりも長期間の保存に利く加工品が多い。他にも東中央大陸の織物、海峡の魚、熊・黒豹などの毛皮、北海諸国の陶磁器や果実酒など、ツァイムにはない物珍しい品物で溢れていて、マリーは「家族の土産に」と言いながらも、様々な商品に目移りしていた。


「マリー様、今日は無花果の砂糖漬けがあるよ!試してみてごらん」


「ゲルダ様の黒髪にお似合いの琥珀の髪飾りが入りましたよ」


「ヨゼフィーネ様も、これ城主様が気に入るだろうから持って行って!」


 すっかり馴染みの客になってしまったマリーたちは、通りを歩くだけであちこちから声がかかる。いちいち立ち止まっていては日が暮れてしまうので、マリーはこの滞在期間に学んだ処世術を駆使し、笑顔で会釈をして躱わしながら通りを進んだ。


 顔なじみの店が多い中、マリーは軒先にヤドリギを大量にぶら下げている店を見つけた。新たに出稼ぎに来た店のようだが、人が次々とヤドリギの束を買い求めに来店していた。


「ヨゼフィーネ、なぜみんなヤドリギを買っていくの?」


 不思議そうにマリーが尋ねると、ヨゼフィーネは少し罰が悪そうに答えた。


「ヤドリギを逆さにして扉の外に飾るのです。すると悪魔がその家にはやってきません」


「ヤドリギって教会には、」


 ゲルダは自身の発言に違和感を覚え、周囲を見回した。マリーも市場を抜け出してあるものを探す。店先、民家の玄関、工房の扉にもヤドリギが飾られている。しかし、肝心なものが街にはない。ツァイムの中央広場にはあんなにも堂々と建っているのに、なぜ今日まで二人が気付かなったのか、マリーは不思議でならなかった。


「聖堂はどこ?」


 フィアーツェンには聖堂がなかった。帝国の統治下において、街は聖堂を中心に区画整理され、市壁が建設されるのだが、この城下町には建物の跡さえ見当たらない。代わりに古い、樹木への信仰が、人々の生活に根付いているようだ。


 マリーは愕然とした。教会は人々の生活と共にあり、神様への祈りは寝食と同じように欠かせない習慣であった。だからこそ、この街の違和感をすぐに見抜けなかったことに驚き、自身を嫌悪した。


「では、あの噂は?」


 ゲルダはまだ信じられないように、辺りを見回している。ツァイムに流れる噂では、フィアーツェンは教会派である自警団の本拠地であり、施療院には背教者が収容されているという。マリーたちはただ無邪気に市場で散財していたわけでない。街に繰り出して噂の実態を調査していたのだが、これまでの滞在期間中、自警団も施療院も、そして大聖堂さえも見つけられなかったのだ。


 そもそも、今日、リヒャルトと待ち合わせしている場所は聖堂ではなかったのだろうか。二人が困惑したまま立ち尽くしていると、昼刻を告げる城の鐘の音が聞こえてきた。


「お時間です。リヒャルト様のもとへお連れいたします」


 ヨゼフィーネは二人の様子に構うことなく、踵を返し、足早に馬車へと向かった。



 ヨゼフィーネに案内されたのは、マリーが馬車から見つけた古い煉瓦造りの建物だった。建物は古く、近くで見ると壁がところどころ欠け、足元には崩れた瓦礫が転がっている。外に立てかけてあった真新しい木材は消えていた。表面の塗装が剥げ、丁番が錆ついた鉄の扉を、ヨゼフィーネがゲルダと協力して押し開けて中に入る。


 身廊の奥には祭壇らしきものがあり、両翼が左右に伸びていて、建物は聖堂の構造をなしているようだ。天井が一部剥がれ落ちたのか木片が散らばり、床板は雨風にさらされ土埃に埋もれて、長年人が立ち入りしていない様子が伺える。しかし、聖堂というものは一度受けた祝福は風化せずに今も宿っているようで、荒廃していようとどこか清々しい。


 マリーが扉の前から動けずにいると、祭壇のほうから金槌を打つ音が聞こえてきた。マリーが音の方を見やると、窓から差し込む日の光に照らされて金髪が輝く。


「リヒャルト」


 マリーが名前を口に出すと、リヒャルトが顔を上げて、いつもの笑顔を一行に向けた。


「来た?遅かったね。一人でできるかなと思ったけど、修復って難しいね」


 そう言うと、リヒャルトは腰元に差し込んでいた布で顔の汗を拭った。足元には木製の十字架が横たわっていて、表面が削り取られ、真新しい木の肌が覗いている。上には磔刑にされた神の子の金細工が置かれており、リヒャルトはその細工を金槌で取付けようと奮闘していたらしい。


 マリーが以前見かけた木材はリヒャルトが聖堂の修繕に利用したのかと納得がいった一方で、新たな疑問が生まれてマリーは辟易した。加えて、リヒャルトが呑気に構えている様子を見て、マリーの怒りは沸点に達した。


 マリーは侍女二人に向かい、口角を上げるよう努めながら、こう伝えた。


「せめて半刻、二人きりにさせてください」


 ゲルダは敢えて答えずに、ヨゼフィーネの反応を待つ。侍女頭は真っすぐマリーを見てこう言った。


「新天地では心砕くことも多く、マリー様のお祈りはさぞやお時間がかかるでしょう。我々は外でお待ちしましょうか、ゲルダ様」


 まるで主人の姿が見えていないかのように話すと、ヨゼフィーネはまたもや錆びついた扉を開けて、聖堂の外へと出て行った。ゲルダはマリーに目配せをして、後を追いかける。


 扉が閉まる音を確認するとマリーは言った。


「お話を、しましょう」


 目は、ときに口以上に語るときがある。


「う、」


 リヒャルトは慌てて列席の上の埃を布で払い、少女に座るよう促してから、自身も近くの席に腰を下ろした。少し距離を取ったところを見ると、マリーに臆しているようだ。


「なにから聞きましょうか。まず、ここは?」


「フィアーツェン唯一の聖堂だよ。領地を統合して大分後に教会から指摘されて、ここにつくったらしいんだけど、誰も礼拝に来なくて、結局は廃れてしまったらしい。でも窓の色ガラスが綺麗でしょう?」


 マリーが見上げると天井近くの窓には、青を基調とした立派な色ガラスが聖人の形にはめ込まれているのがわかった。薄汚れてはいるが、周りの樹木を伐採すれば、太陽の光を受けて美しく輝くだろう。マリーは「きれい」と小さくつぶやき、天井をしばし見つめた。元は立派な聖堂であったことは、堅牢なつくりからも伺える。


「街はもう見てきているよね。帝国の傘下に入る前から、この地域で信仰されている精霊や神々がいて、それらの文化や風習は今でも残っているんだ。五百年以上も前から、ずっと先祖代々続けているんだよ。まぁ頑固だよね、北部の人って」


 冗談混じりに話すが、よくそんな土地に選帝侯のお膝元であるツァイム領の息女を嫁として迎え入れようと思ったものだ。マリーは、どこか抜けているザロモン家が不可解でならなかった。しかし普通は新郎側で行う婚約式をツァイムの赤い大聖堂で執り行ったのも、フィアーツェンがこのような状態だからなのだと、マリーは合点がいった。


「とはいえ、教会への信心がない訳ではないんだ。領邦専属の司教様が各集落を周って、ミサや洗礼式も行う。他の領邦と同じように聖書を使って子供たちを教育しているよ」


 北部という辺境だからこそ、教皇も目を瞑っているのだと、リヒャルトは説明した。


「では、自警団の本拠地がここだっていう噂はどうかしら。ゲルダから聞いたの」


「そんな話があるの?うーん、まず自警団は見たことがないけれど、フィアーツェンの領邦は広大だから、どこかに潜伏していても気づかないかもしれない」


 リヒャルト曰く、初代皇帝が戴冠を受けてハインリヒ帝国が樹立する頃、フィアーツェン一帯には、どの国家にも属さない十四ほどの集落が点在していたようだ。徐々に帝国が領土を広げ、いよいよ大陸北部にも進出しようとしたとき、フィアーツェンは元々あった集落を八つにまとめて抵抗しようとした。その際に、ザロモン家が一帯をまとめる長に君臨したという。


 結局、教会化の波に圧されて帝国の傘下に入ったが、領邦国家制度の下でもザロモン家の権威は依然として変わりないようだ。だから、古い人間は「ハインリヒ帝国フィアーツェン領」とは言わず、「フィアーツェン国」と呼ぶらしい。優に五百年は続く統治体制なので、今更反乱が起きる心配はないが、大陸北部の大部分を占める統治領は把握しきれない部分があるようだ。


「では施療院は?背教者を強制的に収容しているという話だけれど」


「ん、」


 施療院を話題に出すと、リヒャルトの目は泳ぎ、会話が止まった。マリーはしばらく待ってみたが、なかなか次の句が継がれない。何か知っていて、話せない事情があるのだろうかと勘ぐるが、ここで強く追及して信頼を失っても仕方がないと考え、マリーは話題を変えることにした。


「では、あなたのその傷は?」


 これも返事がない。次第にリヒャルトは顔をそむけ、マリーと目を合わさなくなっていった。結局二人きりになっても、リヒャルトが心を開かなければ話にならない。辛抱強く待ったマリーだったが、煮え切らない態度に耐えられず、詰めよってしまった。


「他の従騎士から暴行を受けているって聞きました。なぜそうなったかはわからないけれども領主様にお話したら問題なんてすぐ、」


「父上には言わない!!」


 リヒャルトの声はがらんどうの教会に響いた。これまでとは違う、明らかなる拒絶の意思にマリーが口を閉じると、青年は絞り出すように話しだした。


「父上に泣き言を言いたくないんだ。これは、僕自身の、前世からの問題なんだ」


 なぜ今前世の話になるのか、なぜ前世と暴行が関わりあるのか。一体リヒャルトは何を抱えているのか。疑問は深まるばかりだが、少年のように小さく丸まったリヒャルトの背中を見て、マリーは少し前までの自分を思い出した。逡巡した挙句、マリーは立ち上がってリヒャルトの前で跪き、手を取った。


「私は、あなたの前の名前も、顔も知らない。でも私はこの世で、あなたと結ばれることになったの。一生添い遂げる伴侶よ。だからその魂が背負っているものを教えて。そして私も一緒に背負わせて欲しい」


 一瞬、碧い目が開いた気がした。しかし、リヒャルトはなかなか首肯しない。


「でも、まだ、」


 リヒャルトの拒絶は強まり、マリーは後悔した。マリーは彼の神聖な領域に足を踏み入れてしまったようで、リヒャルトは心の扉を固く閉ざしてしまったようだ。うつむき、黙り込んだ青年から、無理に聞き出すことは難しいと、マリーは悟った。


 一息ついて周りを見回すと、リヒャルトが修復していた十字架がマリーの目に入った。


 そもそも彼はなぜ、いつから、この聖堂を修繕しているのか。祭壇付近にはあらゆる種類の修繕道具が散乱しているが、見ると割れた窓にはその場しのぎの布が張っただけで、天井の穴も一応塞いだようだが細い光の筋が見えていて、これからの道程は長そうだ。そして聖堂の修繕と同じくらい、リヒャルトの心に積もった雪を溶かすのに時間を要しそうだと考え、マリーは長期戦を覚悟した。


 マリーは立ち上がると、床に落ちている小石や枝などを黙々と集め始めた。


「何をしているの?」


 突然のマリーの行動を、リヒャルトは不思議そうに見つめている。


「ここはあなたの大切な場所なんでしょう? 自分の手で修復しようと考えるほど。なら、私も手伝うわ。たった一人での作業は大変だし、気が滅入るわよ」


 そう言うと、マリーはリヒャルトに向かい、謝罪した。


「妻といえど、みだりに心に土足で入ってはいけないわね。ごめんなさい、焦ってしまったわ。あなたが話してくれるまで待つわ」


 そしてマリーは、くるりとリヒャルトに背を向け、作業の邪魔にならないようにドレスの裾をたくし上げてから、せめてもの掃除用具がないか探し始めた。その様子を見て、閉じこもっていた青年も、マリーの心遣いを理解できたようで、重い腰を上げた。


「ありがとう」


 そしてリヒャルトは、マリーの手を引いて十字架の前に立ち、こう言った。


「いつになるかわからない、けれども、僕の胸の内を必ずマリーに教えるよ」


 それは、神様を証人とした誠実な誓いだった。マリーも同じように誓う。


「待っているわ。でも一つだけ覚えておいて。あなたがどんな話をしようと、どんな決断を下そうと、私はあなたの傍にいるわ」


 その言葉にリヒャルトは安堵したようだ。ようやく見せてくれた夫の穏やかな表情を見て、これまで「妻になろう」と躍起になっていたマリーの中で何かがすとんと落ち、形に収まった。少女は今、初めて、人の伴侶として生きる喜びを得たのだ。

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