第13話 雪国の涙

「本当に来てくれたんだね! 嬉しいよ!」


 フィアーツェン城に到着するやいなや、元気な青年の声が聞こえてきた。寒い中、扉の前でリヒャルトは二人を待っていてくれたようで、顔の中央にうっすらと広がるそばかすが赤みを帯びている。リヒャルトはマリーの手を取って馬車から降ろすと、すぐさま馬車に積まれた荷物を軽々持ち上げ、城内へと運び出した。仕事を取られた使用人たちは戸惑って、馬車の周りを右往左往している。一人が勇気を振り絞って「私たちの仕事なので」と口を出すと青年は満面の笑みで答えた。


「俺にも手伝わせてよ!婚約者に良いところを見せたいんだ。鍛錬も兼ねるしね」


 頭と思しき人が苦笑いで応じると、他の者に別の仕事の指示を出していった。いつもこのような調子なのだろう。上の者が気さくすぎると仕える側も気苦労が絶えないようだ。


 城から辺りを見下ろすと、黒い森が早くも冬の空気を纏っているようだった。吐く息も白い。ツァイムは紅葉していたが、ここらの木は葉を落とすか、針のような黒々とした葉に養分を蓄えているようだ。


 賓客として扱われたマリーとゲルダはまず城の地上階にあるサロンに通された。二人はリヒャルトに許しを乞い、外套を着たままサロンの一角に置いてある長椅子に腰をかけた。作法としては外套を脱ぐべきだが、外の風から逃れられたとはいえ、広いサロンは暖房の効きが悪く、外と気温がさほど変わらない。


 まだ寒さに慣れていないマリーたちは外套を手放すことはできなかったのだ。長旅の疲労もあってか、長椅子に身を沈めると眠気がマリーを襲ってきた。出された紅茶を口に含むと冷えた体が芯から温まり、より一層居心地が良くなる。リヒャルトが城の主人を呼びに行っている間、暇を持て余したマリーは、ぼんやりと馬車の中での出来事を反芻した。


 ゲルダの告白を受けたマリーは、返答できずにいた。肯定すべきか、否定すべきか、瞬時に判断できなかったのだ。するとマリーの怪訝な表情を読み、慌てたゲルダは身振り手振りで弁明した。


「もちろん、このことはどなたにもお話していません。この七年間、胸に秘めて参りました。しかし嫁ぎ先がフィアーツェンに決まり、お伝えしたほうがマリー様をお助けできるかもしれないと考え、初めて打ち明けたのです。このゲルダ、これまで一度もお嬢様を裏切ったことはございません」


 その表情や流暢な話しぶりはいつもの彼女らしく、懐かしく感じたマリーは緊張が緩み、ふっと息を漏らした。するとゲルダは顔を真っ赤にして、子供のように声を荒げた。


「ゲルダは心配だったんですよ!しかし自警団の一件もあり、やきもきしておりました。マリー様も苦労なされたでしょう。誰にも打ち明けられず、ただ一人悩まれたことでしょう。ただリヒャルト様との文通が始まってから、お顔がずいぶんと優しくなられて、ゲルダも安心したものです」


 例え時間が巻き戻っても、マリーはゲルダに打ち明けようとは考えないだろう。それでも彼女に秘密を隠していたことを、マリーは申し訳なく思った。


「この旅は、ゲルダがマリー様をお守りできる最後の機会です。短い滞在期間ではありますが、今回の旅で調べて、不安を少しでも解消しておきましょう」


 ゲルダの鼻息が荒い。いつだったか、ゲルダが「どんなに腕っぷしが強い者よりも、自分のほうがマリーを守れる」と豪語して、家令を困らせていたのを思い出した。


「ありがとう、宜しくお願いします」


 マリーはゲルダの手に力を込めて握り直した。根拠はない、でも彼女とならきっと大丈夫だろうという気持ちと共に。


「いやいや、マリア・アマーリエ様、ようこそ、こんな寒いところまで来てくださって、ありがたいことだ」


 豪快な笑い声が広いサロンに響き渡り、閉じかけていたマリーの目は自然と開いた。マリーが急ぎ席を立つと、リヒャルトの父、ホルガー=フォン=ザロモンは強く抱きしめ、歓迎してくれた。


「まだ本格的な冬は到来していないが、外から来たものは震え上がってしまう。寒かったら遠慮なく言ってください。毛布でも毛皮でもなんでも持ってこさせよう」


 ホルガーの風貌はいかにも「山の男」という印象で、髪の毛と髭がつながって、とにかく縦にも横にも大きく、お伽話に出てきそうなリヒャルトとは似ていない。彼の言葉は粗野で貴族らしくなく、決して洗練されていないが、両手を広げ、腰を落として深々と丁寧に挨拶する様子は流れるように優雅で、城主の貫禄を見せた。


「こちらの願いを聞き入れていただき、誠にありがとうございます。これから暮らす土地を見ておきたく、我儘を申してしまいました」


 義父に微笑むと、娘として迎えるマリーに、ホルガーは照れくさそうに笑って頭をかいた。


「侍女が何人かいるとはいえ、妻が亡くなってからは男所帯のむさ苦しい城だ。これからは自分の城だと思って、寛いでくれ」


 そして悪戯っぽく片目をつむり、「しかし」と付け加えた。


「婚約が成立したとはいえ、まだ結婚前だ。寝室はリヒャルトとは別だよ。来年の叙任式に向けて倅も鍛錬中だから、滞在期間中もなかなか付き合えないかもしれん。だから、おお、こっちだ。ヨゼフィーネと好きに、町や城を見物してくれ」


 ホルガーから紹介されたのは、眼鏡をかけた、雪のような肌と髪をもつ女性だった。


「ザロモン家、侍女頭のヨゼフィーネ=タマールと申します。マリア・アマーリエ様とゲルダ様がご滞在中は、身の回りの御世話をさせていただきます。何かご用命の際は、いつでもお声掛けくださいませ」


 ヨゼフィーネの眉ひとつ動かさずに話す姿をゲルダは後で「氷のような女だ」と揶揄していたが、マリーはその凛とした表情に惹かれた。すると、それまでホルガーの横で口をつぐんでいたリヒャルトが口を開く。


「ヨゼフィーネは無表情だし、何を考えているかわかんないときがあるけど、すごく優秀だよ。気付くと、仕事が片付いているんだ。だから遠慮せずに、何でも言ってね」


 ホルガーの話す「男所帯」は、リヒャルトに思いやりを忘れさせてしまったようだ。かつての礼儀正しく愛くるしい少年はどこに消えてしまったのだろうか。


「リヒャルト様、本日は雪中行軍の訓練です。ご準備はお済みでしょうか」


 ヨゼフィーネは咳払いをして、子息が凍らせた空気を払拭し、自ら話題を変えた。


「そうだった! それじゃあ、またあとでね」


 陽気に両手を振りながら金髪の青年は去り、城主も家令に呼ばれて、名残惜しそうにサロンを後にした。騒がしい主人たちがいなくなると、途端にサロンが侘しい風景に変わり、残された女三人はつい、無言になってしまった。静まり返る中、気まずそうにマリーとゲルダが目を合わせると、ヨゼフィーネが眉一つ動かさずにこう聞いた。


「城下町をご覧になりますか?」



 馬車から覗いたフィアーツェンの街並みは、色彩豊かで美しかった。ツァイムの単彩な景色とは違い、木組みの家の壁が撫子色や若草色など明るい淡色で塗られているからだ。これらは視界が悪い豪雪の中でも家に辿り着くための工夫らしい。大広場では市が開かれ、立ち飲み屋が多いのだろうか、多くの人が麦芽酒を片手に乾杯している。


「帝国に出回っている麦芽酒のほとんどは、この地方のものです」


 ヨゼフィーネが説明すると、ゲルダも負けじとマリーに説明をしだした。


「火を入れた麦の香ばしい香りが漂い、強い炭酸が特徴で肉料理とも合います。イルゼ様の嫁ぎ先も麦芽酒は有名ですが、製造量はフィアーツェンが群を抜いていますね」


「ゲルダ様はよくご存じですね」


 ヨゼフィーネが無表情ながら褒めると、ゲルダの背筋が誇らしげに少し伸びた。


 ツァイムよりも広い城下町を見て周るのに、馬車と徒歩を合わせても半日かかったが、優秀な侍女頭のおかげでマリーたちは飽きることなく散策ができた。しかしどれだけ歩いても、ゲルダの話す、転生者が収容されているという施療院は見つからない。


 また、マリーは街の雰囲気に違和感を覚えた。この街には自警団が結成された当時のツァイムのような殺伐とした雰囲気がないのだ。むしろマリーのような余所者でも、一行が歩を進めるたびに話しかけてくる。


「あんたが、領主さんとこに来た嫁さんか!!」


「あの巨人にか?こんなべっぴんさんが?」


「ああ、姫様、こんな酔っぱらいたちの相手なぞしなくても良いですよ。さあ、歓迎の印にこちらをお持ちください」


 前を通りかかっただけだったが、酒屋の主人は麦芽酒の瓶を何本もマリーたちに持たせてくれた。本来ならば、封建社会で身分の違う者が談笑するなんてあってはならない。しかしヨゼフィーネにも当然のように声を掛ける様子から、領主様がどれだけ町の人々に心を砕き、分け隔てなく接しているかが伺えた。


 昼が短い北部では、半日も過ごすとすっかり日も落ちる。散策を諦めて馬車で城に帰ると、途中、町の外れに煉瓦造りの古い建物を見つけた。一瞬視界をよぎっただけだが、外壁に真新しい木材が立てかけられていた。


「あの、」


 マリーが、ヨゼフィーネに聞こうとしたが、目を瞑っている。ゲルダは長旅の疲れが混んでか、いびきをかいていた。マリーは仕方なく窓の向こうの北部の景色に視線を戻した。




 その晩、ザロモン家の夕餉は豪勢だった。牛だけでなく鹿、猪といった肉料理が次々と出され、食後にはカレンベルグ家から贈られた果物やチーズが並んだ。


 しかしマリーの目は、真向かいに座ったリヒャルトの顔に釘付けになった。頬が明らかに腫れており、肉料理を食べるのが辛そうだ。


「その傷はどうしたの?」


「ああ、いつものことだ。お嬢が気にすることではない。鍛錬中には仕方ないことだよ」


 ホルガー領主が代わりに答えると、リヒャルト本人も同調するように微笑んだが、どうも痛々しい。気にしないなんて無理な話だ。食事と会話の合間に、マリーがそっと目線を移して観察すると、顔の傷はちょうど拳大でまるで誰かに殴られたかのようだった。


 会食後、団らん室に向かう途中、リヒャルトはいつも通り話しかけてきた。


「どう?北部の肉料理はお口に合ったかな。火を入れすぎなんだけど、美味しいでしょう」


「ええ、確かに。でも、ねぇ、それよりも」


 マリーが意識的に目線を頬に向け、聞き出そうとすると、リヒャルトは真顔になって小さく首を振った。「聞かないで」と目が訴えかけてくる。結局、団らん室でも話ができないまま、就寝時間になってしまった。


 初日の調査が空振りしたせいもあり、寝間着に着替えたマリーはすんなり寝付けず、とうとうゲルダに愚痴を吐き出した。


「結婚なんてこんなものなのかしら?肝心なことを話すことができないまま、疑問だけが増えていくわ。なんか空振りしてばかり」


 姉の話に乗ってこの地にやってきたマリーにとって、フィアーツェンは謎に満ちて、不可解な場所だった。施療院、自警団、いやそもそも相手にマリーを選んだ理由、婚約を急いだ理由、さらにリヒャルトの傷も加わった。未知の土地で、唯一知り合いである親友は尋ねても口を閉ざしている。


「これが夫婦といえるのでしょうか」


 マリーとリヒャルトが交わした手紙では専ら近況を伝え合うもので、互いの深い部分に触れる機会がなかった。しかし、これから夫婦となる二人は互いに想い合い、支え合わなければいけない。マリーがわざわざ遠方まで足を伸ばしたのも、対面して互いの目を見ながらじっくり話し、夫婦としての気持ちを高め合う機会を設けたかったからだ。それなのにリヒャルトときたら、顔を会わせばにこやかに微笑んでくれるものの、自分の懐に入ろうとするものを拒んでしまう。


 マリーが憤慨していると、ゲルダは少し困ったように微笑んだ。どう答えてよいのか判断しかねているようにも見える。


 すると寝室の扉の向こうから小さな物音が聞こえた。夜更けの訪問者にゲルダが構え、マリーが部屋の奥に身を隠す。


「どなたでしょう」


「夜分に申し訳ございません」


 か細いが、侍女頭のヨゼフィーネの声だ。


「なにか?」


 ゲルダがそっと扉を開けると、ヨゼフィーネは小さな隙間から室内に入ってきて、そのまま扉の前で沈鬱な表情のまま動かなくなった。昼間の堂々とした態度と違い、肩を丸めて俯く彼女はとても小さく、か弱く見えた。


 しばしの沈黙が流れる。


 マリーとゲルダが目を見合わせると、弱弱しい声が聞こえてきた。


「助けてください」


 顔を上げると、ヨゼフィーネは子を心配する母親のような必死の表情で訴えてきた。


「リヒャルト様は他の従騎士から暴力を受けています」


 彼女の言葉で、マリーの疑惑が確信へと変わった。しかしだからこそ、今日の晩餐での領主の態度が気になる。


「領主様はお気づきのようですよね。何か手を打たれてはいないのでしょうか」


 ゲルダの問いかけに、ヨゼフィーネは頭を左右に振った。


「なにも。騎士になる道程で越えるべき壁とし、リヒャルト様ご自身で解決されることをお望みです」


 領主の考えを知ったところで、マリーたちにできることは限られていた。身分制社会のハインリヒ帝国では、男女でも住む世界に隔たりがあるからだ。つまり男の世界には、男だけで分かち合う申し合わせがあり、女の口出しは許されない。


 マリーの表情から察したのか、ヨゼフィーネは唇を震わせながら胸の内を明かした。


「もちろん、女性にできることは少ないでしょう。しかし、リヒャルト様は幼い頃に母君を亡くされても、これまで明るく努めていらっしゃいました。これ以上、リヒャルト様が耐え忍ぶ姿を見ていられないのです」


 そして侍女頭は哀願した。


「まだ婚約が成立したばかりとはいえ、幼い頃から心を通わせているマリア・アマーリエ様にリヒャルト様の心を支えていただけないかと思い、夜更けにもかかわらず参りました。いち侍女が差し出がましくはありますが、どうか、リヒャルト様をお助けください」


 ヨゼフィーネは唇を噛みながらも、深々と頭を下げた。マリーは、足元に落ちた涙が蝋燭の光を反射して輝く様を、黙って見つめるしかなかった。

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