第12話 婚約式と告白

 婚約式では二つのものが交わされる。


 一つは、新郎新婦それぞれの権利と義務を記した婚約書だ。保有財産、持参金、夫が死別した際の妻の権利など、互いの男性家族が話し合って詳細を取り決めた後、当日は新婦の父、新郎、後見人の三者が内容の確認を行う。話し合いに女性は参加できないが、この婚約書は、女性が嫁いだ後も不当に扱われないようにする大事な取り決めであった。


 もう一つは指輪で、新郎新婦は結婚後に相手がはめる指輪を用意し、交換する。儀式には、婚約者同士が「自分を所有する権利を相手に与える」という意味合いがあるようだ。


 ちなみに教会の下で結ばれた夫婦の離縁は基本的にご法度で、結婚は文字通り「死が二人を分かつまで」が契約期間とされている。


 婚約式は大聖堂の外で執り行われ、家族以外の第三者である公衆が二人の婚約の証人となるように、誰でも見ることができる。統治者であるカレンベルグ家の婚約式と聞いて、既に多くの人が大聖堂の周りに集まっていた。


 祭壇の前、マリーは婚約者であるリヒャルトの隣に立ち、粛々と大司教の誓約の言葉に耳を傾けた。いざ指輪の交換となると、すっかり青年の顔つきになった親友と面を向かい合わせるのは少々気恥ずかしくなり、目を逸らせた。まさかリヒャルトが自分の結婚相手だったとは露程にも思っていなかったマリーは驚いたものの、まったく見ず知らずの他人よりはよっぽど良いと安堵もしていた。


 リヒャルトから指輪を受け取ると、そういえば手紙の返信が半年も途絶えていたことをマリーは思い出す。結婚が決まったときに父の話をまともに聞いていなかったマリーも悪いが、結婚という重要な話題を書簡で知らせなかった親友に、今更マリーは怒りを滲ませ、リヒャルトの指幅に丁度良くつくられた指輪を力いっぱい指に押し込んだ。痛みでマリーの想いに気づいたのだろうか、リヒャルトは軽く歯を食いしばりながらも「笑って?」と猫なで声でマリーに声をかける。マリーは見えなかったように、そっぽを向いた。


 大司教が互いの誓約を確認し、婚約書と指輪の交換が完了すれば、婚約は成立したとして、その日は解散となる。式後の四十日間は「婚約公示期間」よし、その間に二人の縁組が街に公表されて、結婚の猶予が与えられる。


 万が一、婚約への異議を申し立てるのなら、この期間内に済まさなければいけない。申し立ては当人だけでなく、家族や第三者、例えば昔の恋人でもできる点、とても寛容だと言えよう。反対にこの期間内に異議申し立てがなければ、新郎新婦双方が納得し、周囲の者もこの婚約に賛同したと解釈されるのだ。


 この婚約公示期間があるため、婚約成立後も新郎新婦の同居は許されず、それぞれの住居へと帰らなければいけない。つまり、マリーとリヒャルトはまたしばしのお別れだが、今、怒れる新婦と共に過ごさないほうが新郎の身の為だろう。マリーはリヒャルトに最後まで声をかけずに、帰路に着いた。


 式を終えて城の団らん室でお祝いをしていると、ふとマリーは今年の叙任式ではリヒャルトの姿がなかったことに気付いた。


「ああ、彼はまだ従騎士だよ。それにイルゼの結婚が重なったのでマリーの結婚式は、来年の叙任式を終えた後に行うつもりだ」


 マリーの問いかけに、父は「前も話したはずだったが」と首を傾げながらも、すぐに答えてくれた。父は交渉がまとまった解放感からか、既に頬を赤く染めながら葡萄酒を片手に長椅子で寛いでいる。


「マリーはイルゼの準備を手伝ってくれないか。あの調子だと一体いつ結婚式ができるかわからん。旅立ちの準備もあるというのに」


 確かに夏に終えた婚約式から随分経つのに、イルゼの荷物は片付いていないどころか増えている。一日中仕立屋と話し合っても、一向に結婚式のドレスが決まる様子もない。


「マリーが手伝ってくれると嬉しいけれど。それならばなぜ婚約を急いだのでしょうか」


 横で話を聞いていたイルゼが会話に割り込む。めでたい日に自分だけが小言を言われたくないがために、姉はさりげなく話題を本日の主役に戻した。


「向こうからの要望だ。すぐに婚約をしたいと。理由は聞いていないが、向こうに移り住むのは結婚式後で良いと言っていたのでな」


 建前上、領主の間には上下関係はなく、互いに持ちつ持たれつの関係を保つため、相手が何かしら要求をしてきたら交渉は欠かさない。父も例外なくフィアーツェン城主との間で婚前交渉を有利に進めたのだろう。そういえば先ほど狩猟の館の改装が話題に上がっていたことをマリーは思い出した。


「それでしたら父上、婚約公示期間を無事に過ぎたら、マリーがあちらの城にお伺いするのはどうでしょう?」


 イルゼが閃いたように、父に提案をする。


「来年なんてまだまだ先です。貴重な乙女の一年を無駄にするわけにはいきません。向こうには向こうの文化やしきたりがありますし、一度伺って実際に暮らしてみれば良いのよ。簡単に行き来はできませんし、せっかくなら一ヵ月ほど滞在するのはどうかしら」


 姉の口からスラスラと出てくる妙案に、マリーはただ感心していた。向こうで生活すれば、もしかしたら婚約を急いだ理由もわかるかもしれない。マリーは期待の眼差しを父に向けると、「面倒なことを言い出したぞ」と唸っている。


「あら、お土産をたくさん持って行けばいいのよ。北部は厳しい環境で実りが少ないのでしょう。秋の味覚をお届けすればいいのよ」


 よく頭が回る姉は父の考えを読んでいた。


「そうそう、ゲルダ、そのときはお供してあげたら良いわ。一人では不安だけど、ゲルダと行けば心強いと思うの」


 イルゼの声掛けに、領主のグラスに葡萄酒を注いでいたゲルダの手が一瞬止まった。そして瓶を持ち上げて背筋を伸ばし、父のほうを向いて、慎重に判断を待つ。


「よかろう、マリーはゲルダも連れて、フィアーツェンへ行ってみなさい。私から先方へ手紙を出しておこう」


 父はようやく算段がついたのか、注いだばかりの葡萄酒を一気に喉へ流し込み、「娘たちの門出に乾杯だ!」と空のグラスを宙に掲げた。ゲルダが深々と頭を下げると、イルゼはマリーに抱きつき、耳元で「ゲルダをよろしくね」と囁いた。


「ありがとうございます、父上」


 マリーは丁寧にお辞儀をして、父のご機嫌を伺う。酒が回って気分が高揚しているのか、ツァイム領を治める厳格な領主は目元に涙を滲ませて、小さく頷いた。



 マリーがイルゼの準備を手伝っていると、いつの間にか婚約公示期間を過ぎており、もう雪の季節に突入しようとしていた。誰かに期待していたわけではないけれども、マリーは期間中に異議を申し立てがなかったことを少し残念がっていた。腹を据えたとはいえども、気が移ろいやすい十三歳の少女は最後の悪あがきを期待したが、物語はそう都合よく動いてくれないようだ。


 フィアーツェンへと出発した日、マリーは兄たちから贈られた真新しい黄金色の毛皮で身を包み、ゲルダと共に馬車に揺られていた。


「マリー様、少しよろしいでしょうか。到着前にお伝えしたいことがございます」


「なにかしら」


 結婚を告げられたときと同じ堅い面持ちのゲルダに、マリーは窓枠についていた頬杖を外し、膝を合わせて向き合った。


「イルゼ様の結婚式を終えたあと、ゲルダはそのままイルゼ様に連れ立ち、ヴィンミュレ王国に留まります。ツァイムに戻ることはもうないでしょう」


 嫁ぎ先には従者が連れ添うのが習わしであり、その候補に姉妹の乳母も挙がるが、彼女はもう若くない。侍女頭のゲルダが長女であるイルゼに伴うのは至極当然のことだ。しかしこれまで深い愛情を注いでくれていただけに、マリーはゲルダの話に耳を疑ってしまった。どこかでゲルダならイルゼを差し置いて、自分に連れ添ってくれるのではないかと期待していたのかもしれない。


「そ、そうよね。寂しくなるわ。ゲルダにはとても助けてもらったもの」

 マリーは咳払いをして、一呼吸置く。


「姉上を、イルゼを宜しくお願いします」


 深く頭を下げると、ゲルダは強く、でも包み込むようにマリーの手を握りしめた。勘の良いイルゼはゲルダの気持ちに気付き、最後の旅に二人を送り出してくれたのかもしれない。調子の良いところもあるが、心の機微を読み、さりげなく手を差し伸べてくれるイルゼを、マリーは心から尊敬していた。彼女ならきっと良い領主夫人になるだろう。


 マリーが顔を上げて、ゲルダと目線が交錯すると、彼女はマリーの手を一層強く握り、頭を近づけて声を落とし、話し始めた。


「話はもう一つあります。マリー様はフィアーツェンがどのような場所かご存じですか?」


 ゲルダの問いかけに、マリーは実はこれから向かう場所について何も知らないことに初めて気が付いた。家族との遠出では別荘のある南や東の方角にしか訪れたことがなく、北部は未開だ。リヒャルトのやりとりの中でも、「冬が長く、寒い」としか聞いていない。


「いいえ、あまり、これからの時期、ツァイムよりも寒いことしか」


 ゲルダが首を振る。


「フィアーツェンは自警団の新たな本拠地と言われています。捕らえられた人々が送られ、施療院に幽閉されているようです」


 ゲルダの話にマリーは言葉を詰まらせた。領主の息子であるリヒャルトからは何も聞いていないが、もしその噂が本当ならば転生者である彼やマリーが住む場所としてはあまりに危険ではないだろうか


「そして」


 さらに声を落として、ゲルダは告白した。


「マリー様。あなた様も前世を知る者だと、ゲルダは小姓の少年から伺っております」

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