第11話 夏の記憶

 その日、マリーは朝食が終わるやいなや、ゲルダに外に連れ出された。テオから昨夜の報告があったのだろうか。手習いや婚約式の準備などをすべて休まなければいけなかったが、身の入っていないマリーに手を焼いていた母はこの予定にない外出を許したようだ。


 マリーに反抗する元気はなく、ただ促されるまま馬車に乗って、ツァイムの街に出た。朝の仕事始めの時を告げる赤い大聖堂の鐘の音が、頭に響く。マリーは眉間に皺を寄せて、目を閉じた。馬車は相変わらず乗り心地が悪く体が小刻みに揺れているが、市門をくぐる頃には、夜通しの脱出計画で疲労困憊のマリーは眠りに落ちていた。


 マリーの目が自然と覚めたとき、馬車の窓からは水鏡に映った狩猟の館が見えていた。


「なぜここに?」


 前に座るゲルダに聞いても、乗車してから終始無言を貫く彼女は答えてくれなかった。


 マリーが馬車を降りると夏のぬるい風がスカートの裾をはためかせ、館を取り巻く野原の草花を揺らした。ゲルダが無言のまま、大荷物を抱えて湖岸のほうへ歩いて行くのを見て、マリーは慌てて後を追う。


 館の対岸までくると、ゲルダは籠から大きな布を取り出して草原の上に敷き、手際よくティーセットや食べ物などを並べた。ひとしきり並べ終えると敷物の上に正座をして、ようやくマリーと向き合い、口を開いた。


「さあさ、マリー様。ここにはゲルダしかおりません。あなたを祝福する者は誰もいません。安心してお泣きください」


 説教があるのかと密かに怯えていたマリーは、ゲルダからの思いもよらぬ申し出を咄嗟に理解できず、呆然と立ち尽くした。


 そして辺りを見回して、今二人のいる場所がマリーとクラウスが密会して朝焼けを眺めた思い出の場所だと気付いたとき、ようやくゲルダがマリーの初恋を、その恋が芽生えたときから知り、温かく見守ってきてくれたことを思い出した。結婚が決まって城内が慶祝気分に満ちているなか、彼女だけがマリーの心情に寄り添い心を痛めてくれていたのだ。


 誰もいない別荘地の野原で、ゲルダと二人きり。しかしマリーはうまく泣けずにいた。リヒャルトと出会い、マリーは子供の頃よりも自身の感情や考えを相手に伝えられるようになっていたが、怒りや悲しみなどの激しい感情を表に出す勇気を持ち合わせていなかった。マリーがうろたえていると、ゲルダは痺れを切らしたように涙を流しながら言った。


「それならば、ゲルダが代わりに泣いてもよろしいでしょうか。私は、マリー様が、マリー様の想いを、知りながら」


 ゲルダという心を自制できる大人が感情を溢れさせ、むせび泣いている様子を見て、マリーの心は揺さぶられた。他でもないマリーのために、この涙は流れているのだ。たまらずマリーはゲルダを抱きしめた。こんなにも温かい愛情があるのかと、感動しながら。


 やがてマリーの目から一粒、そして一粒と涙が落ち、止まらなくなった。


「結婚したくない、わ、私は、クラウス様が好きで、お、お慕いしていて、忘れられなくて、忘れたくなくて、いやよ」


 そこに礼儀正しく、思慮深い貴族の姿はない。泣いているのは初恋に敗れ、自分ではどうしようもできない運命に反発する十三歳の少女だった。マリーとゲルダは二人で肩を抱き合い、大声をあげて泣いた。


 出会ってから六年、マリーがクラウスと会話をした回数なんて、両手で数え足りるくらい少ない。それでも父上が狩猟会を開くたびに、マリーは人だかりの中から彼を探しだし、見つけたときは姿が見えなくなるまで見つめていた。淡い憧れは長いさなぎの期間を経て、叙任式で美しい蝶と成長し、恋の空を謳歌した。これからマリーは顔も知らない男と婚約し、結婚して家庭を設ける。しかし誰かに恋心を抱くことはもう二度とないだろうと、マリーは泣きながら思った。


 到着したときには真上にあった太陽はいつの間にか傾いており、ひとしきり泣いて腹の虫を鳴かせた二人はようやくお茶会を始めた。よく見ると敷物の上には、マリーの好物ばかりが並んでいた。小さな緑の林檎、野苺、無花果、砂糖菓子、チーズ、蜂蜜パンに、洋梨パイ。


「紅茶はすっかり冷めてしまいましたね。お菓子の上にも草が乗ってしまったわ」


 ゲルダが草を吐息で吹き飛ばす。


「いつもとは違うお茶会で新鮮ね」


 昼食を食べていなかった二人は、行儀作法を一旦忘れて無我夢中で食べ物を頬張った。汚れた口元はあまりに貴族らしくないが、そんな姿を見てクスクスと笑い合う時間に、マリーは小さな幸せを感じた。


 すると、不意に背後から弦楽器の音色が聞こえてきたので振り返ると、ヴィエルとリュートを演奏しながら館の使用人たちがやってくるのが見えた。主人がいない間でも、館には維持管理のために数名の使用人が住んでいるのだ。馬丁の奏でるヴィエルに、庭師がリュートを合わせ、料理長が手拍子をして歌う。


 ゲルダは慣れた調子で料理長の手を取って、踊り出した。マリーも見様見真似で踊り出すが、あまりの不器用な足取りに料理長が見かねて、マリーに手を差し伸べてくれた。


 マリーが胸に当てて礼儀正しくお辞儀をすると、料理長がマリーの両手を取って踊りを手ほどく。慣れてくると、ゲルダも加わって三人で輪になりながらくるくると回った。盛り上がるにつれて段々と調子が早くなると足がもつれ、とうとうマリーは他の二人を巻き込んで草むらの上に倒れ込んでしまった。


 赤く滲んだ夏の夕空が、肩を揺らすマリーを覗き込んでくる。深く息を吸い込むと、草の青い香りが鼻を突き抜けた。まだ心の中の澱みは消えないが、ぽっかり空いた穴を賑やかな論舞が埋めてくれたようだった。



「ああ、なんだか緊張するわね」


「イルゼ、あなたの婚約式はとっくに終わっているでしょう」


「大事な妹の式よ。緊張するわよ」


 母と姉のやりとりを聞きながら、マリーはまた馬車に揺られていた。短い夏が終わると途端にツァイムの景色は色づき、朝方には外套がないと肌寒く感じるほど気温が下がる。


 今日、マリーは赤い大聖堂で婚約式を執り行う。相手は北部の領主の子息らしいので、これからのマリーはツァイムよりも寒い冬を毎年越さなければいけないのだ。そういえば「今年は狐を多く狩ろう」と兄たちが意気込んでいたが、まさか餞別に毛皮の外套をマリーに贈るつもりなのだろうか。


 狩猟の館から戻り、夏のうちに腹を括ったマリーは婚儀の準備を着々と進め、堂々と婚約式に臨んでいた。この少し前に行ったイルゼの婚約式では、当人が目も当てられないほど緊張していたため、妹の肝の座り方を見て家族は安心しきっているようだ。


 馬車が止まり、マリーが窓の外を見ると、大聖堂の前で大司教と相手家族が談笑しているのが見えた。マリーは馬車から降り、式のためにあつらえたドレスを汚さないようにと裾を掴み上げると長兄のカールが手を差し出した。カールの特別な計らいにマリーが応えるように、兄の逞しい腕に抱きついて二人は大聖堂へと向かった。


 父が挨拶しているところにマリーが遅れて着くと、式用に設えた祭壇前に立っていた新郎らしき若者が振り向いた。


「マリー。今日という日を迎えることができて僕は嬉しいよ」


 昔よりも声は低くなっていたが、マリーはその陽気な口調に聞き覚えがあった。見上げると、知らない青年が微笑んでいる。しかし、その揺れる金髪と碧の眼差しにも見覚えがあり、マリーは目を細めた。


「リヒャルト?」


 マリーの婚約相手は筆不精の親友、リヒャルト=フォン=ザロモンだった。

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