第10話 逃亡前夜
かつては市民間でも証人を立てれば、結婚が成立したらしい。しかしハインリヒ帝国統治下において婚儀が教会の管轄となると、新郎新婦は婚約式を経て、結婚式に臨まなければいけなくなった。
娘二人の婚約が同時に決まったカレンベルグ家では、まず姉であるイルゼの婚約式を今夏に、妹のマリーの式を秋口に行うこととした。婚約式には家族が列席するので、マリーにとって姉の婚約式は予行練習となるだろう。
父の話から一夜明け、イルゼはすぐにでも式の準備に取り掛かろうと息巻いていた。夢見がちな姉と思われたが、実際は貴族の息女という立場をよく理解し、自身の結婚に前向きな一歩を踏み出していた。もちろん年頃の女性らしく、相手の容姿や立ち居振る舞いなども気になるが「惚れやすい私のことだから、どんな方でも愛してしまうでしょう」と言ってのけた。事実、イルゼは遠くない将来、最愛の夫との間に四人の美しい子供を授かる。
一方、マリーの気持ちは沈んでいた。数日経ってもまるで時間が止まったように、何に対しても無気力で、手習いも手が付かず、食欲も減退し、眠れない夜が続いていた。幼い頃から騒動に巻き込まれ、心を閉ざすのが得意だったマリーは、周囲がイルゼの準備にかまけて何も口出しをしてこない状況に甘え、怠惰な日々を過ごしていたのだ。
ある日の朝、マリーが目を覚ますと城は妙に騒がしかった。たっぷり時間をかけて身支度してから寝室から出ると、イルゼが扉の前でマリーを待ち侘びていて、そわそわと何か言いたげな表情でマリーを見つめている。
「どうしたの?」
無言のまま、姉は目線を大広間に落として「見て」と合図した。城の大広間は吹き抜けで、寝室がある階段上から覗けば、すぐに下の様子を確認できる。反対に大広間で大きな音を出すと、城中に筒抜けとなる。
マリーが大広間を見下ろすと、そこには多くの騎士たちが整列して、待機していた。隊列の先頭には領家の家紋が織られた軍旗が掲げられ、紋の多さから察するに複数の領地から騎士団が集まっているようだ。そういえば数日前にゲルダが、ツァイム近辺の山間部を利用して騎士の合同演習が行われると話していたのをマリーは思い出した。
マリーが騎士たちをぼんやりと眺めていると、イルゼが痺れを切らしたように端に並ぶ隊列の方向を無言で指さした。先頭で掲げているのは槍に見立てた一角獣の旗、アインホルン家の軍旗だ。マリーが驚いてイルゼに目を向けると、姉は口を真一文字にきつく結びながら何度も小さく頷いていた。
改めて列に並ぶ人々に目を凝らすと、カレンベルグ家の三男、テオと話すクラウスの姿が見て取れた。もう見ることは叶わないと思っていた姿に、マリーの心の澱が少しずつ溶けていく。「今だけは」と、板金鎧に帯刀するクラウスの雄姿を、マリーはただ見つめた。
すると、隊列の付近で騎士の世話に奔走する四男のベンヤミンが、覗き見をしていた姉妹に気づいたようで無邪気に手を大きく振った。つられて、テオとクラウスが階上の姉妹に気づき、見上げては微笑む。
その瞬間、マリーはみぞおち辺りで小さなざわめきを感じた。まるで瀕死だった蝶が最後の力を振り絞って羽を広げ、羽ばたこうともがくように蠢いている。と同時に、小さな蟲に触発されたのだろうか。少女が隠していた反抗心がむくむくと膨れ上がっていった。
そうだ、父上が決めた結婚だからといって必ずしも従わなくても良いのではないか。私の人生は私のものであり、他の誰でもない私によってつくられるべきものなのだ。
それは古い記憶から掘り起こされた、遠い昔の未来にある価値観であった。これまで古い記憶は、マリーの頭の中で当時の価値観をさも正しい知識かのようにひけらかし、今マリーの生きている時代がまるで暗黒時代かのように映し出した。「そんなはずはない」と目を背け、貞淑な女性であろうと努めても、貴族の厳格なしきたりに苛立つ自分がどこかに必ずいて、マリーは度々苛まれていた。
しかし今、思春期らしい反抗心が芽生えたマリーは手の平を返し、遠い昔の未来の価値観を都合よく味方につけ、自身の行動を正当化してしまったのだ。
いつものマリーなら、クラウスが向ける眼差しに赤面して、目を逸らすか硬直するが、今日は初めて自らの意思でクラウスを見つめ返し、そして強い意思を持って微笑んだ。
「マリー、」
イルゼは妹の悲恋を憐れみ、優しく抱きしめた。彼女はきっと、マリーがクラウスと決別したと思っているのだろう。
「ごめんなさい」
マリーは愛しそうに姉を抱きしめ返し、聞こえないように謝罪の言葉を口でなぞった。
その日からの少女は忙しかった。手習いや騎士たちへの炊き出しの合間、寝る前に少しずつ、密かに、今後の生活に必要なものをまとめた。侍女の手伝いがいらない衣服に、長時間の歩きにも耐えられる丈夫な靴、最低限身支度用に櫛も用意した。長い旅に欠かせない当面の食料には、保存が利いて栄養価の高い干し果物や木の実、干し肉なども厨房からくすねて、ベッドの下に隠しておく。そしてこれらを持ち運ぶために、炊事場から穀物保存用の丈夫な布袋をくすねると、側面に余り布を二つ並行につけて背負えるようにした。
準備の仕上げには、リヒャルトから届いた秘密の書簡をすべてランプの火で燃やした。マリーにはもう必要のないものだったし、他の人に見られると不都合だったからだ。これでツァイムをいつ離れても大丈夫だ。
そして時を待った。
七日間にわたる合同演習では、城の中庭や外の練兵場で行われる試合形式の演習のほか、近隣の山間部でも様々な訓練が行われるようだ。マリーが狙いを定めたのは、最後の夜に行われる野営訓練であり、聞くところによると野外に天幕を張り、一晩過ごすらしい。
六日目の夜、城が寝静まった頃、洗濯室から拝借してきた侍女の服に着替え、マリーはいつぞやの夜のようにベッドを抜け出した。
マリーが目指したのは、城下町とは反対の山側にある石積みの城壁だった。小高い丘の上に建つツァイム城は、マリー二人分の高さはあるだろう城壁に囲まれていて、人が通れる入り口は街側にある正面の城門の一つしかない。しかしその反対、山側にある城壁の一部が、戦時の緊急脱出口として利用できることをマリーは知っていた。
壁と壁が重なる角には、目立たないが、登り降りができるように石がいくつか交互に突き出ていた。以前、庭師が城壁の上にできた鳥の巣を取り払うために、そこから登っていたのをマリーは偶然見ていて、要領をつかんでいた。そして窮屈なコルセットを用いない侍女の服であれば、お腹や背中に力を入れられるので、マリーでも登れると考えたのだ。
マリーはスカートの裾をたくし上げて腰辺りで結ぶと、垂直の壁から突き出す石を掴み、その細い腕と脚を駆使して、壁をよじ登っていった。腕に擦り傷をつくりながらも壁を登りきると、裏に流れる河の向こう岸の森まで見渡すことができ、その眺めは壮観であった。
幸い月は出ておらず、裏の城壁は塔の影に隠れているので、小さなマリーの姿は見張りの目に入らないだろう。同じように、外側にも突き出した石を頼りに、マリーは城壁の向こう側を慎重に降りていった。あとは事前に隠しておいた戸板を、堀の狭まった箇所に橋のようにかければ、城の敷地から出られる。マリーは堀の下に広がる河底を見ないように、自身の足先に意識を集中させた。
演習の騎士たちは、かつて武芸試合が開催された、城の丘の下に広がる野原で野営をしていると聞いていた。その情報通り、無数の天幕が張られていて、領地ごとに固まって寝ているのか目印に幟旗が地面に刺さっている。
マリーは音を立てないように、慎重に丘を下り、夜陰に乗じて天幕へと近づく。明かりはほとんど消え、いびきがそこらから聞こえるのでほとんどの人が寝ているようだ。
旗の紋章をひとつひとつ確認しながら進んでいくと、天幕の合間から煙が漏れているのに気付いた。マリーは地面に伏せて天幕の影から覗き見ると、焚き火を挟み、クラウスとカレンベルグ家三男のテオが向かい合って話す姿が見えた。クラウス一人のほうがマリーの都合が良かったのだが、ぐずぐずと悩んで夜が明けてしまってはこの好機を逃すため、マリーは意を決して、二人の前に飛び出した。
暗闇の中から突然現れた影に驚いた二人は反射的に飛び上がり、即座に腰の短剣を抜いて、構える。一瞬にして空気が凍った。
「こんばんは、クラウス様。……テオお兄様」
焚き火の炎で浮かびあがった妹の顔を見て、テオはさらに驚いた。
「マリー?!お前、一体何をしているんだ。そして、その姿、どうしたんだ」
思いもよらない登場に声をあげたテオだが、何度も目を上下させて、みすぼらしい恰好に身を包み異様な雰囲気の妹の姿をまじまじと見た。横のクラウスは目を見開いたまま動けず、ただ呆然としていた。
「申し訳ございません、お兄様、ただ、クラウス様にお話したいことがありまして、城を抜け出して参りました」
テオは何かを察したようにクラウスを見ると頭をかいた。そして自分が座っていた石の上に座るよう、顎でマリーを促す。マリーは小さく首を横に振り、黒髪の想い人のほうへと体を向けた。クラウスは、ようやく事態を飲み込んだようで瞬きをした後、マリーに丁寧に声をかけた。
「マリー様、突然の訪問に驚きましたが、お話できて光栄です。転ばれたのでしょうか、お怪我はありませんか。先ほどテオ殿から伺いました。ご結婚をされるようですね。おめでとうございます」
青年はどこまでも礼儀正しかった。その毅然とした態度が、温かな言葉とは反対に冷酷なようにも感じられ、マリーはよろけた。
彼の耳に結婚の話が入ってほしくなかった。彼の口から結婚の話を聞きたくなかった。
マリーは抗うように言った。
「私は、結婚しません」
「何を言っているんだ、マリー」
マリーは自分の発言で、改めてここに来た意図を確認した。そうだ、私は自分の意思で、自分の結婚を決めるのだ。マリーはクラウスを真っすぐ見つめた。
美しいドレス姿ではなく、化粧もしていない。壁をよじ登ったせいで体中が泥で汚れて、傷だらけで、髪も乱れている。城の決まりを破り、大切な家族を捨て、私はただ愛しい貴方に会いに来ました。
「クラウス様、どうかお願いです。私をここから連れ出していただけませんか」
テオは絶句して、妹を見つめている。クラウスも動揺を隠せない。
「なぜ、私に?」
マリーは予想外の返答にうつむいた。
「あなたをお慕いしております」
マリーの鼓動が激しく打ち、目からは涙が溢れそうだ。まるで祈りを捧げるように、マリーは自然と手を合わせた。
もう言葉はいらない。その鳶色の瞳で私を見つめて、その腕で抱きしめてほしい。
「ありがとうございます。マリー様のお気持ちが何よりも嬉しいです。しかし、」
マリーは目を瞑った。手が顔を覆う。
「私はあなたと結婚できません」
神様は、黒髪の青年は、マリーの願いを聞いてはくれなかった。
パチッパチッ
静まり返った野営地では、薪のはぜる音が大きく聞こえる。沈黙を破るように、テオが溜息をついて、言った。
「マリー、帰ろう」
テオはどこからか荷物運搬用の馬を連れてきて、野営用の毛布をマリーに被せると、その小さな体を抱え上げて乗せた。
坂を上り、堀の前でテオは門番に大声で「野営中に急病だ。通してくれ」と呼びかける。門番が塔から覗き込んでテオの顔を確認すると、跳ね橋がゆっくり下がり、城門の落とし格子が上がった。一大決心をして城を飛び出たマリーだったが、結局一刻も経たずに城に戻ってきてしまっていた。
マリーは馬から降ろされると、とぼとぼと自室へと戻った。背後ではテオが見送ってくれているようだが、振り返る気力もない。
ベッドの前に立つと、手づくりの鞄を足元に落とし、泥だらけの侍女の服を脱いだ。鎧戸の隙間から漏れるやわい光が、白い腕についた汚れや細かな傷を浮かび上がらせる。気付かないうちに、血も出ていたようだ。
「頑張ったんだけどな」
クラウスからもらった最後の言葉が、何度も何度もマリーの頭の中で繰り返される。やがて視界がぼやけて、大粒の涙が床に落ちた。
「ふっ、うぅ、うぅ」
早起きの侍女たちに気付かれぬよう、唇を噛み締め、声を押し殺してマリーは泣いた。
マリーは生まれて初めて失恋を経験した。
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