第9話 貴族の現実

 叙任式以来、マリーは物思いに耽るようになっていた。憧れの少年に抱いていた恋心は現実味のない、幼いものだったが、昨日現れた青年によって、マリーのそれは瞬く間に鮮やかに色づき、脈動し始めた。


 マリーは目を閉じて、クラウスの姿を一つ一つ丁寧に反芻した。絹のようなしなやかな黒い髪、どこか憂いを帯びた鳶色の瞳、肌は昔よりも少し焼けていただろうか、健康的な肌色だった。背丈は伸び、鍛錬を重ねて育てた筋肉を纏っていたが、まだカールのようには成熟していないようで青年の身体の線は華奢だった。言葉が少なくとも、紳士的な態度は変わらず、マリーに向ける眼差しや声にはいつも温かさがこもっていた。あの夜も。


 人間の記憶能力は優れているが、とても扱いづらく心もとない。人生の節目を迎える儀式でさえもコレーに頼るくらいなのだ。たとえば子供が転んで傷ついても、その痛みの記憶が時間と共に風化させることで、その子供はけがを恐れずに再び歩き出すことができる。記憶の風化は人間が生きていくために必要なものだからこそ、必ず訪れるだろう、大切な思い出や記憶もいつかは色褪せてしまうときが恐ろしかった。この想いと記憶の依り代となるような、肖像画、わずかな服の切れ端でも何でもよいから、具体的なものが手元にあればこの不安はなくなるのだろうか。


 読みかけだった本が膝から落ち、マリーは我に返った。折れた頁をまっすぐにしようと、上から何度も撫でつける。


 クラウスを考えれば考えるほど、マリーの会いたい気持ちは高まっていく。しかし、貴族のしきたりをそう簡単に変えることはできず、叙任式の夜がクラウスとの最後の夜となった。アインホルン家が、息子の嫁にマリーを選ばない限り。


「はぁ、」


 溜息をついて、マリーは机の引き出しを開け、秘密の書簡たちに触れた。これまで胸に靄がかかると、金髪の親友に打ち明けていた。恋愛の話はこれまでしたことがなかったが、心の広いリヒャルトならきっと受け止めてくれるだろう。


 しかし、ここ最近、やりとりが減少しているのがマリーは気にかかっていた。リヒャルトが従騎士になってから、二ヵ月、三ヵ月と間隔が開き、今や半年に一度返事があれば良いほうだ。たまに来る返信には実践演習が続いて疲れているとか遠征していたとか、遅れた理由が何かしら書かれていたので実際に忙しいのだろう。筆不精の友人を咎めることなく、マリーは律儀に前と同じ頻度で書簡を送っている。しかしその内容はほとんどが日記のように、ただ近況を伝えるだけのものとなっていた。


 マリーはもう一度溜息をつき、気晴らしに中庭に出ようと扉に手をかけたとき、廊下側から扉を叩く音が聞こえた。開けると、そこにはゲルダが立っていた。


「マリー様、領主様がお呼びです」


 ゲルダらしからぬ短い一言に驚きながらも「かしこまりました」と返事をした。


 見ると後ろを見ると緊張した面持ちのイルゼが立っていて、妹に向かって声を発さずに口だけを動かして言葉をなぞっているようだが、マリーにはその内容がわからなかった。とりあえず何か特別な状況であると理解したマリーは、父に失礼のないように衣服と髪の乱れを直してから、寝室を出た。


 城内の廊下を移動する間、いつもならゲルダとイルゼが会話を楽しんでいるのだが、依然としておしゃべりな侍女頭は口を開こうとしない。異様な雰囲気に気圧されてか、姉は力を入れすぎて唇が内側に巻き込まれていた。


 執務室の扉を四回叩き、もう一度四回叩いて相手の返事を待ってから、ゲルダが重い扉を開けると、部屋の奥にある執務机では父が最近付き人に任命されたカールと話していた。長兄は姉妹の姿を見ると会話を止め、一礼をしてから一歩下がる。ゲルダに続いて入室すると、室内には母もいることがわかった。


「おお、よく来た、イルゼ、マリー」


「父上、お元気そうでなによりです」


 長女のイルゼがドレスをつまみ、軽く頭を下げて挨拶をし、妹もそれにならう。父は目を細めながら「うん、うん」と小さく頷いた。


「実はな、そなたたちに縁談が来ている。受けてくれるな?」


 気の利いた前置きもなく、多忙な領主はいきなり本題を姉妹に告げた。背後でカールが軽く拍手し、母は涙ぐんで目頭を押さえている。思いがけない父の言葉に、イルゼは頬を紅潮させて歓喜し、幼い少女のように父に抱き着いて最大級の感謝の意を表わした。


「ええ、もちろんですとも!父上、ありがとうございます。お相手はどのような方でしょうか。おいくつ?結婚式はいつ頃になるの?」


 矢継ぎ早に繰り出される質問に、兄は慌て、母はまあまあとイルゼをたしなめ、父は上機嫌に声を出して笑った。


「まあ、落ち着きなさい。イルゼよ、そなたももう立派なレディだ。いつまでも少女のように飛び跳ねていては困る。ほら、妹のように毅然とした態度をとらないか」


 父の言葉を受けて、マリーは意識的に口角を上げた。いつかは来ると思っていた日が来ただけなのだと、自身に言い聞かせながら。


 何百といる貴族の子息の中で、マリーが希望するのはただ一人だけ。その一人と結婚できるなんてまるで奇跡なのだ。わかっている。しかしまだ父は相手が誰とはまだ言っていない、まだわからない、きっと、もしかしたら。


 マリーの中で想いが錯綜する。他の人に気取られないように、小さく呼吸をして、マリーは気持ちを落ち着かせた。


 背筋を伸ばして視界を広げると、マリーはふとゲルダが気になった。彼女は目を伏せ、気配を消し、じっと扉の横で待機している。まるでこの時間に耐えているようだ。


「まずはイルゼ。そなたの相手は、ヴィンミュレ王国内の領家嫡男、アデルベルト=フォン=バッケルだ。ヴィンミュレ王国は大陸の北西にあり、現皇帝の統治領でもある。同じ言語で話し、国境を越えたすぐのところだから寂しくはないぞ」


「まぁ、それで? アデルベルト様はどのような方なのでしょうか?」


 イルゼの興味はあくまで夫その人にあり、親心さえ今は興味ないようだ。


「年は近いと聞くよ。私も一度話しただけだが、頼もしい青年だったよ。狩りもうまい」


「父上、私が聞きたいのは、」


「まあまあ、あとは婚約式までの楽しみにとっておけばいいじゃないか」


 カールが助け船を出したところで、イルゼは不服ながら父から離れた。困ったような表情の兄に、微笑みを滲ませながら心配そうに娘を見守る母の温かい目。それらが視界に入るたびにマリーは逃げ出したくなっていた。


「次はマリーだ」


 父の言葉にマリーは微笑むのも忘れ、すがる想いで見つめた。


「そなたが嫁ぐのは、ここより北にあるフィアーツェンだよ。大領主の息子で」


 クラウスのアインホルン家は帝国都市の摂政を務める領家であり、その居城はツァイムよりも南側に位置している。


 もうマリーの耳には父の話が入っていなかった。崩れ落ちそうな膝に力を入れて、なんとか倒れないようにするので精一杯で、下を向き、隠れて唇を噛み締める。


「行きたくない」


 声を上げて現実に抵抗しようとしたが、父の圧倒的な声量の前では、音にさえならずにかき消えた。感情を強く堪えているせいか、マリーの鼓動が強く、強く脈打つ。


 顔を上げて、微笑んで、父上に感謝の意を伝えなければ、領主の娘としての役目を果たさなければ。カレンベルグ家を繁栄させ、領民の安寧を守るためにも、この婚姻は成立しなければいけない。


 しかしついにマリーは父に感謝を伝えることができなかった。家族も気にしてはいない。


 マリーの心に、黒く重い帳が静かに下りた。


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