第6話 騎士叙任式

「栗色の御髪に薔薇色がお似合いですよ。たまには華やかな色をお召しにならないと」


 仕立屋から上がってきたばかりのドレスに袖を通したマリーを眺めながら、ゲルダは上機嫌に話を続けているが、鏡の中のマリーはどこか浮かない表情をしていた。


「でもコルセットは慣れないわ」


 十三歳になったマリーの体には女性らしい膨らみが出ており、肌着だけでは心許なくなり、この度初めてのコルセット着用とあいなった。しかしより立体的に仕上げようと、侍女頭に容赦なく編み上げの紐を締め上げられ、マリーは珍しくヒキガエルをつぶしたような悲鳴をあげた。「すぐ慣れるわよ」とイルゼは言うが、息苦しさには慣れる気がしない。


 上半身の補正が終われば、次は下半身だ。ひだが段々についたペチコートをドレススカートの下に忍ばせれば、尻に量感が生まれて、まだ成長途中のマリーの体にも美しい曲線をつける。足元に空間ができるので、足の自由は利くが、腰元に重しがついているように重心が背中側にとられるので、歩き方にコツが必要のようだと、マリーは悟った。


 マリーが胸元に違和感を覚えて、鏡を何度も覗き込む間、ゲルダはどの宝飾品を胸元に合わせるか悩んでいた。「これが流行よ」とイルゼが選んだドレスは胸元が露出しており、決してマリー好みのものではなかったが、何度も鏡を覗き込んでいると、マリーは襟元に施された繊細な植物模様の刺繍に気付き、ようやく少しだけドレスを好きになれる気がした。華美な宝飾品がなくとも十分見映えするように思えるが、輝く金銀細工で飾り立てるのが貴族というものらしい。


「今日はいっぱいおしゃれをしましょう。なんて言ったって、お祭りなのだから」


 イルゼの声はいつも以上に弾んでいる。今日、城下町で行われる聖霊降臨祭は春先の復活祭と比べると小規模だが、多くの人、とりわけ年頃の女性が楽しみにしている祭事だ。その理由は、同日に催されるもうひとつの行事、騎士の叙任式にある。


 貴族に生まれた男児は七歳から聖職者のもとで基礎教育を受け、十二歳からはペイジ(小姓)となり、生家とは別の領主の城で修行を積むのが一般的だ。二年間の修行を経てエスクワイア(従騎士)になると、先輩騎士につき、身の回りの世話をしたり歩兵として実際の戦に参加したりするようになる。そして早くて十七歳、遅くても二十歳で試験を受けて合格をすると一人前の騎士として認められ、その年の聖霊降臨祭で大司教から叙任を受けるのだ。つまり騎士の叙任式は貴族の男子にとって通過儀礼といえる。


 叙任式が年頃の女性たちにとって楽しみなのは、それが「将来の旦那様を見られるチャンス」だからだ。もちろん貴族同士の結婚には政略が絡むので、叙任式で相手を見染めたからと言って、女性のほうから求婚できるわけではない。とはいえ、大聖堂で祝福される騎士たちは見惚れるほど格好良いらしく、たとえ将来の仲にならなくとも「見ておきたい」のが乙女心なのだ。


「早く始まらないかしら。待ちきれないわ」


 マリーよりも早く身支度を終えたイルゼは鏡の前に割り込んで、入念に身だしなみを整え始めた。普段滅多に接しない青年を見られる、またとない機会であり、期待に胸を膨らませる乙女が多く、イルゼもその一人だ。


「リヒャルト様の叙任式も今年かしら?」


 不意をつかれ思わず咳き込むマリーに代わり、ゲルダが「今年十六歳のはずですから、早くて来年でしょうね」と簡潔に答えた。


 マリーと金髪の王子様が六年前の誕生祭で出会って以来、ゲルダと相手側の侍女に協力してもらいながら、何度も文を交わしているのを、イルゼは知らない。


 当時のマリーは精神的に追い詰められていた。だからこそ本来なら望ましくない男女間の文通に、ゲルダは難色を示しながらも目を瞑ったのだ。もちろん釘は刺されている。


「マリー様、差し出がましいことかもしれません。しかし、敢えて言わせていただきます。まだ成人前とはいえ、殿方と必要以上に仲良くされるのは考えものです。なによりも、」


「承知しています。もちろんリヒャルトとも、どちらかの婚姻が決まれば、このやりとりを終えようと約束しております」


 当時、ゲルダの忠告に対して、マリーは強い意思を示した。親友と出会えたマリーは、ほんの少しだけ強くなっていたのだ。


「彼は数少ない友人です。ツァイムの人々はみんな、優しいから私に気遣ってくれるでしょう。だから事情に詳しくない彼と話すと心が紛れるのです。ゲルダ。お願い、見逃して」


 普段は姉の後ろに隠れて、自身の気持ちを隠しがちなマリーの反抗に胸を打たれたゲルダは、その願いを叶えようと心に決めたようだ。ゲルダは涙を拭って小さな姫君に誓った。


「かしこまりました。この有限の友情は、マリー様の成長の糧になるでしょう。これは二人だけの秘密ですよ」


 言葉通り、六年経っても約束が守られているおかげで、幼い少女は心を潰さずに、健やかに成長することができた。大切な親友は、傷を癒す薬のような存在だったのだ。


 首元に乳白色の美しい真珠の首飾りが置かれると、マリーは鏡の中の淑女を見て小さく声を上げた。ゲルダが嬉しそうに留め具を付ける姿を、マリーが鏡越しに見守っていると、イルゼが覗き込んでマリーの視界を奪った。


「あら、お嬢さん。お姉さまにはちゃんとわかっていますよ」


「なんのこと?」


 困惑するマリーに、姉は悪戯そうに笑う。


「黒髪の王子様。クラウス様を忘れたわけではないでしょうに」


 マリーは姉に返答する代わりに、かつて朝焼けの湖岸で見た、クラウスの美しい横顔を思い出した。リヒャルトが薬ならば、クラウスはマリーの心に影を落とした夜の帳に、唯一差し込む希望の光だろう。前を向くマリーに必要な灯火であり、彼女の人生を豊かに潤す、花や宝石のような眩い存在でもあった。波打つ動悸を鎮めるように、熱くなった顔を冷ますように、マリーは両手で頬を覆って、鏡の中の自分を見つめた。


 まだまだ顔つきは幼いが、この国で十三の年齢は結婚適齢期にあたる。しかし恋心が具体化するとまだ尻込みしてしまうマリーは「願わくば」の先をまだ口に出せずにいた。


「支度はできましたか?あら、見違えましたね。二人とも芍薬が咲いたように美しいわ」


 侍女が開けた扉から顔を覗かせた母が、目を細め、愛娘たちを嬉しそうに見比べている。身支度を手伝った侍女たちも誇らしげな表情を浮かべているのを見て、母は特上の微笑みを彼女たちに向けた。


「では参りましょうか」


 貴族が参列する聖霊降臨祭のミサと叙任式は、ツァイム大聖堂前の中央広場で執り行われる。中央広場から各行政区をつなぐ大通りでは、大勢の人が花冠で飾られた牝牛や楽隊を連れて練り歩いているので、広場に向かう貴族は裏道から遠回りして行かなければいけない。裏道には民家が並ぶため、マリーは裏道に差し掛かると馬車の窓掛けを引いて、狭い隙間から外を覗き見てみた。


 長い年月の間に自警団の活動は落ち着き、街は平穏を取り戻したようだが、騒動が原因か、街から人が減っているようだ。かつては人でごった返して、会話をすることも困難だった市場も年々出店数が減っているとゲルダから聞いていた。しかし祭りの当日である今日は、新市街にも旧市街にも人だかりができ、そこらから羊が焼けた良い匂いが漂う。子供たちがすれ違う馬車に向かって笑顔で手を振り、大人も麦芽酒を片手に肩を組み、道ゆく人々と乾杯して笑い合っていた。その光景にマリーは胸を撫で下ろし、涙がこぼれ落ちないように、馬車の天井を見上げた。


「せっかくの叙任式なのに曇天っていやぁね」


 馬車を降りたイルゼは空を見上げ、溜息をついた。マリーも目線を上げると、先ほどまで晴れていた空には、今にも雨が降りそうな厚い雲が広がり、ツァイムの街を覆っていた。


 中央広場には、大聖堂を背にして高台が設けられていた。檀上の中央には祭壇が置かれ、その前に赤い絨毯が観覧席を左右に分断するように敷かれている。祭壇の横には、前日のうちに大司教の祝別を受けた五本の真新しい剣が並び、主の登場を待ちわびていた。


 歴史を遡ると、もともと叙任式は城主導の儀式だったが、皇帝による帝国統一後に教会の管轄となったようだ。大司教区を治めるツァイム大聖堂は、ハインリヒ帝国の西部から南部にかけての地域の叙任式を請け負うため、広場に準備された観覧席の半分以上はすでに埋まっていた。そのほとんどが叙任式に出席する新騎士の関係者だろう。


 マリーたち姉妹は地元領主の娘という特権から祭壇に近い席が用意されており、いつもは慎んで付近で待機するゲルダも、今回ばかりは「護衛のものです」と周囲に言い訳をしながら、姉妹の隣に座った。


「あれ、そういえばベンヤミンお兄様も叙任される年では?」


 イルゼがはたと身内を思い出した、四番目の兄は従騎士として既に三年は修行を積んでいるはずだと。すると最前列に来賓として座る母が溜息混じりに「今年は出ません」と答えた。どうやらベンヤミンは先日、剣の訓練で足をくじいて試験を受けられず、叙任は来年に持ち越しになったのだそうだ。とんだ兄の失態に、マリーとイルゼは苦笑いをするしかなかった。


 定刻になったのか、管楽器の音が鳴り響き、談笑していた人々が急ぎ席に着く。


「始まるわよ」


 赤絨毯に薔薇の花びらを撒きながら大司教が登場すると、聖霊降臨祭が始まる。声楽隊が美しい歌声で神への感謝を表していると、観覧席の周りに人だかりができていた。


 大司教の祝辞のあと、参列者が揃って讃美歌を歌い終えて着席すると、またもや管楽器が吹かれ、ミサから式典へと移行したことを示した。大司教が高台の剣に向かい、「彼が神に奉仕するすべての者の守護者となるように」と祝別を授けると、参列者も一同に頭を垂れ、祈る。マリーの横で、頭を下げながらしきりに後ろを気にしているイルゼを見ると、どうやら主役たちが登場するらしい。


 観覧席の後ろから人々の歓声が沸き、その声に押されるように、五人の新騎士が赤絨毯の上を闊歩し、高台へと上っていった。つられて乙女たちは精一杯首を伸ばして、中央の道に目を光らせる。横を過ぎていく新騎士を目で追うイルゼにつられて、マリーが通路を見ると、列の最後尾で檀上に上がろうとする黒髪の青年に目が留まった。


「クラウス=フォン=アイホルン」


 マリーは無意識に声にならない声で、その青年の名前を呟く。すると神の采配か、大聖堂の上に溜まっていた雲が風で押し流され、太陽が姿を現した。雲間から差し込む光は、高台に上がったクラウスを明るく照らす。


 マリーの鼓動が胸を激しく打ち、イルゼが何かしきりに話しかけているが、耳に留まらずにすり抜けていく。その熱い脈動に、マリーは淡い憧れとして留めていた感情が、情熱的な恋へと熟れていくのを感じた。

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