第5話 親友
その少年は大陸の北に位置する辺境の領主の子息だと、後にゲルダから聞いた。年齢は十一で、マリーよりも四つ年上だ。ゲルダいわく「朗らかで、誰に対しても分け隔てなく、礼儀正しく接する少年」で「えくぼが愛らしい笑顔や、じぃっと見つめてくる碧い眼に、心を奪われる女性が多い」のだとか。
マリーの異変に気付いたのか、イルゼが二人の間に割り込んで、牽制した。
「なにか御用かしら?」
しかし、少年の噂に違わない愛嬌は姉の警戒心を一瞬で砕き、その心を見事に射抜いた。
「麗しいイルゼ様。初めまして、大陸の北より参りましたリヒャルト=フォン=ザロモンと申します。以後、お見知りおきを」
小さな淑女の手の甲に口付けると、たちまちイルゼは顔を赤らめ、膝から床に崩れ落ち、ゲルダに抱えられて大聖堂を後にした。
どうやらザロモン一家は、今夜のカレンベルグ家の主賓らしい。広大な領地を持つザロモン家には、城に領民を招く習慣はなく、誕生祭の何日も前から各集落を訪れ、宴を開いて領民を労うのだという。今年は旅の終わりに、友人であるカレンベルグ家のもとへ、年末の挨拶に訪れたのだと母が説明してくれた。
ミサを終えて共に城へ戻ると、騎士による警備は解かれ、城の者だけで宴会が催された。食堂にはいつの間に準備したのか、まるで食物庫の中をすべて出したかのような豪勢な食事が中央の名が机に並び、普段は真面目に給仕する侍女たちもほろ酔いだ。
楽隊が陽気な音楽を演奏し、そこら中でグラスをかち合わせ、善き日を祝う。ある者は曲に合わせて踊り出し、ある者は椅子に足をかけて大声で歌い出す、そんな宴の中、マリーは居心地の悪さを覚えていた。大聖堂で金髪の少年リヒャルトに不意を突かれただけでなく、いつも隣にいるイルゼが恋の病に臥して、欠席しているのも原因にある。
マリーは食事にも飲み物にも手を出さずに、頃合いを見計らって食堂からひとり抜け出そうと試みた。すると、リヒャルトが目ざとく見つけ、マリーに声を掛けてきた。
「どこにいかれるのですか?もしマリー様が良ければ城を案内していただけますか」
マリーはゲルダに助けを求めようと辺りを見回したが、給仕に奔走しているのか姿が見えない。マリーがまごつく様子を見て、リヒャルトは「いきましょう」と半ば強引にマリーの手を引き、食堂の扉を開けた。
もう月が昇ってから大分時間が経つので、侍女をひとりも連れずに子供が廊下で歩いていたら、誰か大人が制するはずだ。そうマリーは期待したが
「マリー様、王子様と夜の散歩ですか?」
「今夜は雪が月明りで光って美しいですぞ! 逢瀬にはぴったりだ!」
「二人の恋路に乾杯!」
城内全体が誕生祭独特の陽気な雰囲気に包まれており、酔っ払いの大人たちは小さな二人の逃避行を笑顔で見送ってくれる。むしろ両親から隠そうとする協力者が出るほどだった。マリーは大人に助けを求めるのをやめ、代わりにすれ違う人々の顔を睨みつけながらリヒャルトを追った。そんなマリーの態度に気付いたのか、少年は周囲に人がいないことを確かめてから、小声で耳打ちした。
『安心して、僕も生まれ変わりだよ』
マリーに今日二度目の衝撃が走る。遠い東の言葉に触れたのは一年ぶりで、耳が慣れていなかったので聞き間違いとさえ思った。
「向こうで話そう。おそらく、ここは領主様の部屋の近くだね?」
リヒャルトに手を引かれるまま走っていたマリーは、いつの間にか両親の寝室や執務室がある階へと来ていたことに気づいた。主人がいない階はとても静かで、地上階の賑わいも遠くに感じられる。普段入ることを許されない領主の執務室は不用心にも鍵が開いており、これも誕生祭のなせる奇跡なのだろうかとマリーは首を捻った。
執務室の重い扉を開けると、リヒャルトは手慣れた手つきで暖炉に薪を入れ、火をつけた。城全体を暖めるような気の利いた器具はなく、無人の部屋は外とほぼ同じ温度で凍えるほど寒い。まだ警戒心を解けずにいるマリーは白い息を吐きながら、リヒャルトの動向をただ見守った。
『さて』
少年は暖炉前に椅子を二脚移動させると、マリーの手を取ってから座るよう促した。マリーが腰をかけると、隣に座ったリヒャルトの顔にうっすらとそばかすが広がっているのが、暖炉の火に照らされてわかった。
『改めて、初めまして。転生者と話すのはこれが二回目だよね』
マリーは頷いた。リヒャルトは夏の騒動を知っているようで、またマリーに緊張が走る。しかし、一年前は気付かなかったが、落ち着いて東の国の言葉を聞いてみると音がとても耳心地の良いものに感じられた。
『えと、はじめましぃてぇ?』
マリーはリヒャルトを真似して発声してみたものの、なかなかに発音が難しく舌がもつれてしまい赤面した。マリーの頭の中では古い記憶と共に、流れるように響いていた言語だが、いざ声に出すのとは勝手が違った。ぎこちない様子がおかしかったのか、リヒャルトは涙を浮かべるほど笑っていた。
『初めて話したのかな?上手だよ。難しいよね。僕も久しぶりに話したから緊張したよ』
「しぃっ」
マリーは慌ててリヒャルトの口元に指を立てて、言葉を制した。この階に人がいなくても、石造りの建物は音が必要以上に響くので、かつての言葉を話すなら細心の注意が必要だ。しかし、慣れない言語の練習に時間を費やすよりも、二人は舌に馴染んでいるハインリヒの言葉に戻して会話を続けることにした。
「夏のことは知っているのね」
「そう、話を聞いて、もしかしたら同じかもしれないなと思って試してみたんだ」
そう言ってリヒャルトは手のひらをもう一度開いて見せた。例の文字はもうほとんど消えかかっていて、読めない。
「この方法で試したのは今回が初めて?」
「いや、地元で何人かに聞いてみた」
「それって危なくない?」
マリーの指摘に、リヒャルトはキョトンとした顔で「考えてもみなかったな」と言った。
「こっちの人に平仮名なんてわからないよ。海の向こうは未開の地だから、みみず文字にしか見えないさ」
確かにマリーは前に一度だけ交易船を港町で見たことがあったが、大海を渡れるほど立派なものではなかった。
「今は大陸東部のほうと緊張関係にあるから、陸路の交易は少し前に途絶えたみたいだ。だから、この地域で平仮名を知っている人なんて、それこそ転生者しかいないはずなんだ」
リヒャルトは「一部の人に限るけど」と舌を出しておどけていたが、マリーは少年の機転と大胆さに感心し、これまで閉じこもって動けずにいた自分を恥ずかしいとさえ感じた。
「なぜそこまでして」
マリーの素朴な疑問に、リヒャルトはふと寂しそうな表情を浮かべて、鼻先をこすった。
「うちは母上が病弱で早くに亡くなったから、兄弟が誰もいないんだ。父上も後妻をとろうともしない。だから、兄弟みたいな仲間が欲しかったんだよね」
金髪の少年は照れているようで、暖炉の火を見つめながら続けた。
「前世の記憶を持つ人なら、普段は隠している心の内を一緒に語り合えるかなって。本当の兄弟にはなれなくても、親友にはなれるんじゃないかなぁって」
マリーはリヒャルトの手に自分の手をそっと重ねて言った。
「親友よ、間違いないわ」
マリーは痛いほどリヒャルトの気持ちがわかった。少し前まで、古い記憶を持つ自分の不気味さに怯えていたし、すべて妄想なのではないかと疑ったこともある。その孤独さを、丁寧に言葉を重ねなくても心から理解してくれる相手と出会えた幸運は、まさに誕生祭の奇跡だ。親友、なんて素敵な存在ではないか。マリーは自然と目をつむり、手を組んで、神様に感謝の祈りを捧げた。目を開けると親友も隣で同じように、神様に祈りを捧げていた。
その後も二人は思い思いに語り、笑い合った。何ヵ月も塞ぎ込んでいたマリーは、感情も考えも素直に出すことができ、その心地よさに感動した。状況はなにひとつ変わっていないが、朗らかなリヒャルトと話していると、暗い気持ちが浄化されていくように感じた。
「マリー様、リヒャルト様、」
遠くから、二人を探すゲルダの声が聞こえた。もうお開きの時間のようだ。
「なかなか会えないだろうから、手紙を出すよ。そこでまた話そう」
「そうね、親友さん」
リヒャルトは暖炉の火を消すと、マリーに紳士的に右手を差し伸べた。三回目に合わさった二人の手は、これからの友情を確かめるように、しっかりと握られた。
暗い執務室から出ると、また凍えるような冷たい空気にさらされたが、マリーの心は温かい光に満たされていた。
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