第3話 自警団

「……こうしてハインリヒ帝国が樹立したのです。さて、今日のお話はここまでにしましょう」


「ふー、」


 一刻ほど続いた、母による帝国講釈が終わり、マリーは一息ついた。


 貴族の子息・息女は、七歳となる年の秋から本格的な教育を受けるようになる。ただし市井の子供たちが通うような公的な教育機関はなく、男児は聖職者が催す私塾で、女児なら親元で学ぶのが一般的だ。冬生まれのマリーは少し早く、六歳で手習いが開始された。


 女児が学ぶのは、基本的な母国語の読み書きに加え、外国語、針仕事、乗馬、宮廷礼儀作法といった貴族の日常生活に即した内容だ。他にも人が負傷すれば、重症でない限りは医者の代わりに婦女子が治療を行うため、応急処置や民間医療の範囲での薬学も学ぶ。中庭には観葉植物、食用植物以外にも薬の原料となる薬草が育てられており、マリーは城内に緑が多い理由をようやく理解した。


 手習いに意欲的で分厚い書物を前に目を輝かせていたマリーだが、今日の母の一言に気が滅入ってしまった。


 手習いを始める前に、母は「女性たるもの、夫のために外の美はもちろんのこと、内なる美を磨くよう努めなさい」と説いたのだ。つまり、夫に対して思慮深く、謙虚で、誠実であれと。勉学とは見識を広げ、自身を高めるものではなく、女性においては花嫁修行と同義だと改めて認識させられたのだ。貴族に生まれた女性にとって結婚と出産が人生のすべてと言っても、過言ではない。もちろん、結婚は恋愛の末に挙げられるものではなく、一切が家を繁栄させるための政略結婚だ。


 女児の教育では音楽、詩歌といった教養が、他の学習と同程度重視されているのも同じ理由だ。戦や政で心も身体も疲弊した夫を、妻の詩の朗読や音楽で癒し喜ばせる必要だと考えられていて、そんな男性都合の女性像にマリーは辟易していた。


 いや、悶々としてしまうのは、マリーの中に古い記憶があるからに違いない。遠い昔の未来で男尊女卑の風潮を恥じ、男女平等に機会を与える社会を目指していたときの感情と記憶が色濃く残っているからこそ、マリーは何も知らずに騎士様を夢見る乙女でいたかったと考えてしまうのだ。イルゼのように無邪気に、将来の夫のために嬉々として、手習いに励みたかった。この国で貴族の女性として生き抜くには、古い記憶から掘り起こされた価値観はあまりにも役に立たなかった。


「またクラウス様のことを考えているの?」


 しかめ面のマリーに笑顔を戻そうとしたのか、イルゼのいたずらな目が覗き込んできた。するとマリーは、クラウスの名で反射的に頬を赤らめてしまった。


「そんなこと、ないわよ」


「本当かしら」


 夏の別荘での騒動は、マリーにとって忘れがたい思い出となっていた。いつの間にかイルゼにもマリーの純情が知られており、時折空を見つめていると侍従頭のゲルダと一緒になってからかってくるので困る。


 そしてもう一つ胸に刺さっているのが小姓の転生者だ。マリーを気遣ってか、城内でかんこう令が敷かれているようで、あのゲルダでさえも少年について一切を教えてくれない。


「マリー、行きましょう。私、詩歌をつくってみたいのよ。一緒にしてみない?」


「私にできるかしら」


「あなたの想いが言葉を紡いでくれるわよ」


「もう!!」


 またもや姉に冷やかされて、マリーは反論をする気さえ起きなかった。


 二人が団らん室から出ると、バルコニーに人が集まっているのが見えた。


「なにかしら、行ってみましょう」


 好奇心旺盛のイルゼが妹の袖を引く。バルコニーでは侍女や使用人たちが仕事の手を止め、皆一様に遠くを見遣っている。どうやら町のほうで騒ぎが起きているらしく、マリーも同じ方角を見てみたが、身長が足りないせいで森しか見えない。すると、頭上から声が降ってきた。


「とうとう動き出したか」


「あの噂は本当だったのか」


 辺りに不穏な空気が流れ始める。すると誰かが怒りを滲ませ、吐き捨てるように呟いた。


「魔女狩りなんて時代遅れのものを始めやがって」


 人だかりの中に、ゲルダの姿を見つけた。侍女たちと、不安そうに町を眺めている。


「あ、ゲルダだ!」


 イルゼの呼びかけを聞くと、ゲルダは途端に顔に笑顔を貼り付け、人混みをかきわけて、二人のもとへ駆け寄った。


「イルゼ様、マリー様! いかがされましたか。さあさ、もう中に入りましょう」


「ねぇ、魔女狩りってなぁに?」


 姉の無邪気な問いかけに、ゲルダは一瞬眉間に皺を寄せる。


「さあさ、マリー様は手習いを始められて、さぞやお疲れでしょう、温かいミルクを入れましょうか。今日は特別に甘い蜂蜜も入れ」


「ゲルダ、教えてほしいの」


 姉の問いかけに答えず、懸命にはぐらかそうとするゲルダに、珍しくマリーが釘を刺した。末娘の強い眼差しに、ゲルダがたじろぐと、見かねた家令のゼンメルが間に入り、ゲルダの肩に手をのせて無言で頷いた。


 促されたとはいえ、ゲルダは何度も言葉を飲み込み、なかなか話し出すことができない。ただ、いつもは騒がしい姉妹がじぃっと黙って待っている様子に、心を決めたのか、ゲルダは少しずつ話し始めた。


「魔女狩りとは、神に背いたとする人間を捕らえる行為です」


 ゲルダは続ける。


「先日、マリー様に狼藉を働いた少年への審問が、ようやく終わりました。大司教様は、前世を語る彼を『背教者』として認めたのです。するとその審判を知った一部の者が、他にも背教者がいるはずだと、自警団なるものの結成を市民に呼びかけたのです」


 マリーの青ざめた顔に気付いたのか、老齢の家令は慌てて補足する。


「自警団の発足は、マリー様とは関係ありません。あなたが気に病むことは、なにひとつないのですよ。教会に盲信しているものたちが、勝手に騒ぎ立てているだけです」


「まさか自警団ができるとは、私、」


 ゲルダの声は震えている。そして大きな涙が一粒こぼれ落ちた。家令がゲルダの肩を抱き、なだめる。


「何十年か前に、この領地でも魔女狩りがありました。その当時を知るものは多くはありません。しかし私たち、城で働くものは、教訓として繰り返し聞かされてきました。私たちは民の愚かさを知っています。こんなことは許されません。彼らはただ、自分たちの不満を暴力で発散しているだけです。彼らのしていることこそ、背信行為なのです」


 街の方角から黒煙が上がった。連中が自らを鼓舞する怒号が繰り返し聞こえてくる。


「あの、」


 事態の深刻さに気付いたイルゼは、恐る恐る家令に尋ねた。


「捕らえられたものはどうなるの?」


 するとゲルダは少女から目を逸らし、家令はかぶりを振った。


「教会の審問や民事裁判にかけられます。その後は聞かないほうがいいでしょう」


 マリーは尋ねることができなかった。では審問をかけられた少年は今どこにいるの。


 裁判、火あぶり、拷問。古い記憶を辿って思い出される魔女狩りの結末は、どれも凄惨なものであり、マリーの頭の中は真っ白になる。手足が冷たくなっていく様子がわかった。


 バルコニーを真っ赤に染める夕暮れどき、ツァイムの街から城へと続く一本道に、松明の光が列をなして近づいてくるのが見えた。


「あれはなんだ」


「まさか城に向かっているのか?!」


「おい、急げ!領主様に知らせろ!!」


 どよめきが広がり、使用人たちはその光景に慄いて後退りをし、衛兵たちは背を向けて城内へと走り出した。


 土埃を立てながら行進してきた男たちの足音は、やがて城門の前で止んだ。


「カレンベルグ家の末娘、マリア・アマーリエに背教の嫌疑がかかっている。速やかに城門を開け、身柄を我々に渡せ!!」


 その言葉に、バルコニーに残っていた人々が一斉にマリーを見た。視線を痛いほど感じたが、マリーは彼らの顔を見返すことができず、反射的に俯いた。どのような顔をして、どんな目でこちらを見ているのだろう。怖くて、見ることができない。


「失礼!!」


 突然、マリーの身体が宙に浮いた。家令がマリーを抱き上げてバルコニーから避難させたらしく、侍従頭もイルゼの手を取って後に続くのを、マリーは家令の背中から眺めた。寝室に着くと、マリーはいつもよりも優しく、そして静かにベッドに下ろされた。


「心配に及びません。なにかの間違いです。今に領主様が追い返してくれますよ。ですが、万が一もございます。私たちが戻るまで窓に近づかぬよう、扉も開けないように」


 家令がマリーたちをなだめている間、ゲルダは急ぎ別の侍女を呼びつけた。そして瞬く間に二人は出て行き、外側から鍵をかけた。


「マリー、」


 イルゼがなだめるように肩に触れるが、マリーはその手をはねのけ、枕に突っ伏した。


 窓の向こうでは、父と自警団とが押し問答しているようで、男たちの怒声が交差する。マリーは聞こえないように毛布を被って、声を押し殺して泣いた。

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