第2話 黒髪の少年

 神の子が、聖霊が宿りし母から生まれた

 神の子は、人間の罪を背負い、死で贖った。

 神は罪を赦し、神の子は再生した。

 人々は、神の子の下に集い、教会を成した。

 ある日、神は一人の男に祝福を与えた。

 教会は、男に知恵と力を授けた。

 人々は、男の下に集い、国を成した。

 男は、初代皇帝となった。

 

 これはハインリヒ帝国の子供なら、必ず一度は耳にする建国物語だ。元々は一領主だった男が天啓を受け、生き惑う人々に救い主である神の子の言葉を説いて回り、数ある集落を一つの国にまとめあげたという。神の子の言葉は、こう続く。


 神に祈りなさい。

 父母を敬いなさい。

 隣人を愛しなさい。

 慎ましく生きなさい。

 安息日には休みなさい。

 神は二人もいません。

 人を殺してはいけません。

 姦淫をしてはいけません。

 盗みを働いてはいけません。

 嘘をついてはいけません。

 十の約束を守れば、その生を終えたとき、神の子が貴方を光の国へ導くだろう。


 物心つく前から祈り、そらんじてきた約束の意味を理解したとき、私は涙した。私は光の国に行けないかもしれない。なぜなら前の命の記憶を残したまま生まれたからだ。



 騒動からどれくらい時間が経ったかわからないが、マリーは窓から差し込む光の濃さで、日が傾いているのだとわかった。極度の緊張から解放されて気が緩んだのか、少しばかり眠っていたらしい。マリーはベッドから体を起こして辺りを見回すと、イルゼが足元で敷布にしがみついて寝ている。横の椅子には乳母が体をあずけ、うなされながら眠っていた。

 マリーは寝床から這い出ると寝室の重い扉を開け、二人を起こさないように静かに扉を閉めて廊下へと出た。すると、階段を上がってきた、おしゃべりな侍女頭とちょうど目が合ってしまった。

「あら、マリー様。お目覚めになられたのですね。ご気分はいかがでしょうか。ミルクをお召し上がりになりませんか。じんわり心もお腹も温かくなりますよ。じきにお夕飯ですが少しだけなら良いでしょう。もうじき太陽の季節が訪れるとはいえ、日が落ちるとひんやりしますから、さあさ、こちらへどうぞ」

 マリーは促されるまま、寝室からほど近い塔の小部屋に入った。そこは侍女たちの休憩場で、簡単な台所が設けられている。小さな窓は、明かりとりとしては物足りないようで、侍女は机の上に置かれたランプに火を灯した。

 マリーが古びた椅子に腰かけると、早速ティーカップが置かれ、温かなミルクが注がれた。吐息で十分に冷ましてからカップに口をつけると、じんわり喉からお腹へと温かいものが流れていく。侍女頭は、マリーが一息つく間も喋り続けていたが、マリーはその息継ぎに合わせて声をかけることで、なんとか話に割り込むことができた。

「あの、助けてくださった男の子は?」

 マリーは自分を守ってくれた黒髪の少年が気になっていたのだ。すると、侍女頭は目を輝かせてマリーに微笑んだ。

「アインホルン家のクラウス様ですね?」

 名前など知らない。マリーは首を傾げた。

「その方、でしょうか?」

「黒檀のような黒髪に、賢そうな鳶色の瞳。端正な顔立ちに、齢十一にしてあの物腰の柔らかさ。ここよりもさらに南に位置する帝国都市で摂政を行うアインホルン家の次男と伺いました。本日到着したばかりだそうです。次の春にペイジになられるという話でしたが、まぁ、大の大人たちを突っ立って何もできないなか、颯爽と不届き者からお嬢様を守ってくださる姿なんて、騎士様そのものです。あのような方なら、マリー様やイルゼ様を任せられるでしょう」

「え、あ、そうでしょうか」

 一を聞けば十も二十も返してくる侍女頭に、マリーは圧倒されていた。最近イルゼがままごとで早口でまくし立てていたが、この侍女頭を真似しているに違いない。

「その、クラウス様にお礼を伝えたいのですが、どうした良いでしょうか」

 マリーの相談に、侍女の口がみるみるうちに大きく開いていったので、ついマリーは両手を前に出して構えてしまった。

「この侍女頭のゲルダにお任せくださいませ。向こうの侍女とは通じております。明日には、いえ、今夜にはクラウス様とお会いできるよう手配しましょう。ですが、マリー様は六歳とはいえ立派な淑女です。人の目があるところで堂々と殿方とお会いしてはなりません。あくまで、密やかに、誰の目も届かないところでゆっくりお話ができるように、準備いたしましょう。まるで誰もその存在に気づかない、夜中の鼠のようにひっそりと」

 長い回答の末、「しばしお待ちくださいませ」と言うとゲルダはようやく口を閉じた。

 黒髪の少年と会うことができるかもしれない。思いもよらず手にした小さな希望に胸を弾ませ、マリーはカップで口元を隠すようにしてミルクを飲んだ。


 その夜、マリーは眠れずにいた。中途半端な時間に寝てしまったからではなく、今日出会った小姓の少年について考えていたからだ。

 彼は、幼い頃からマリーの頭の中にあった言語を話していた。つまり、マリーの頭の中にある古い記憶は空想ではなく、現実であり、マリーとして生まれる前の記憶なのだと証明されてしまったのだ。

 マリーの持つ古い記憶は、まるで昔読んだ長い物語のように、印象的な場面は鮮明に残っているが、ほとんどは霞んでしまっていた。また、記憶にはこの国にはない物や概念が多く占めており、それらは大人が使う言葉のように、今のマリーには難解すぎたのだ。

 ちなみにマリーがこの古い記憶に気づいたのも最近の話だ。人間は動物と比べると、様々な部分が未発達なまま生まれるようで、例えば赤子の脳は、前世の記憶を持っていたとしても、それを思い出し、整理し、理解できるほどに脳が育っていなかった。筋肉と同じように、脳は使えば使うほど鍛えられるようで、マリーは四歳になったときに、何かの拍子に関連する古い記憶が蘇るようになった。最初はマリーの体が体験していないのに、記憶が勝手に再生されるので、あまりにも不気味に感じられた。成長するにつれ、マリーの脳が育つと大人じみた論理的思考が芽生え、頭に「転生」という認識が生まれたが、今日までは自身の特殊すぎる状況を、誰にも打ち明けられず、懐疑的に過ごしていた。

 神様はなぜ記憶を残したまま転生させたのか。マリーは、その問いに対する答えを、あの小姓の少年が知っているような気がした。もしかしたら、それは気のせいで、ただ同じ境遇の者として話をしたいだけかもしれない。

 ただ、彼はこの国の規律に触れてしまったので沙汰を逃れることはできないだろう。おそらく今もこの館のどこかに、捕らえられているはずだ。

 ハインリヒ帝国には身分制度があり、聖職者、貴族、平民(都市民)、農民の四つに分けられている。農民や平民は貴族に対して、例え相手が子供でも気軽に話しかけてはいけない決まりがある。それを彼は破ったのだ。ましてや恫喝なんて父が見過ごすはずがない。

 ただ、マリーは必死に助けを求めていた彼に応じられなかったことを悔いていた。もし可能であれば少年を許し、解放してあげたい。そしてきちんと話したい。

 明日父にお願いしてみようと、寝返りをうちながらマリーは思った。「当事者の私が許すなら父上も納得してくれるはず」と満足げに頷くと、マリーは安心して眠りにつくことができ、ようやく長い一日に終止符を打った。

 

 しかしマリーの考えは甘く、終日狩猟に出る父を捕まえるのは至極困難だった。大人たちもまた、しきりに騒動を隠そうとしているのがわかったので、わきまえていたマリーは少年について周囲に聞くことができずにいた。

 黒髪の少年クラウスについて侍女頭のゲルダからの報告があったのは、騒動から三日後のことで、さすがに領主家族をもてなす合間に、相手の侍女とやり取りをするのは難しかったようだ。彼はどうやら太陽が出ない明け方に城門を抜け、湖の周辺を散歩しているという。時間がかかった分を挽回するべく、ゲルダは早速その翌朝に会う約束を取り付けたと、マリーに誇らしげに語っていた。

 約束の朝、イルゼが寝息を立てている横で、マリーは外套を被り寝室を抜け出した。

「気をつけていけ。何かあったら叫べ」

 館の門をくぐると、夜間の見回りにあたっていた門番がゲルダに耳打ちする。彼女は無言で頷き、マリーが乗る馬の手綱を引いた。本来、貴族の息女が衛兵の付き添いもなく館の外に出るなんて言語道断だが、ゲルダはどうやら彼らにも手回しをして、一切の責任を負う覚悟でマリーを外に連れ出したようだ。

 マリーはそんな彼女の胸中を知らずに、異例の外出に浮足立っていた。まだ薄暗いなか、二人は門から伸びる馬車道を抜け、湖岸に沿って歩きながらクラウスの姿を探す。山間の深い森を切り開いて築城したツァイムとは違い、ランシャフト地方は平地で、起伏の少ない地形なので見通しがよい。

 しばらく歩くと城門とは反対側の岸で、馬に水を与えているクラウスの影を見つけた。

 近づき、馬を降りると、鳶色の瞳が二人に向けられる。途端にマリーの心臓が飛び上がり、恥ずかしさのあまり俯いてしまった。気弱な主人とは反対に、ゲルダは一歩前に出て膝を曲げ、頭を深々と下げた。

「私、カレンベルグ家、侍女頭のゲルダ=フォン=ヴィートと申します。お初にお目にかかります。先日はマリア・アマーリエ様を暴漢からお救いくださり、ありがとうございました。お礼を申し上げたく、不躾とは知りながらも参りました」

「クラウス=フォン=アインホルンです。侍女から話は聞いております」

 クラウスは馬の手綱をゲルダに渡しては、空いた手をマリーに差し伸べた。

「では私は後ろに控えております。さあさ、マリー様」

 ゲルダに背中を押され、マリーはクラウスの前に出た。緊張で震える手を堪えながら差し出された少年の手に重ねると、クラウスは何かに気づき、声の調子を和らげた。

「あのときは声を荒げてすまなかった。怖い思いをさせてしまったね」

 その温かな気遣いに、マリーが思わず顔を上げると、クラウスと目が合った。噂通りの端正な顔立ちを間近に見て、またもや頭の中が真っ白になってしまったマリーは、頭を軽く振り、自身を奮い立たせて声を絞り出した。

「いえ、あの、あのときは、ありがとうございました。これまでお礼をできずに大変失礼いたしました」

 クラウスは微笑みで返事をすると、湖岸のほうへと少女の手を引いた。腰掛けにちょうど良い岩に座ると、真正面に湖の上に浮かぶように建つ「狩猟の館」が見えた。晴れた日に、人工の湖は水鏡のように館の像を映し出すが、マリーはその光景を遠目でしか見たことがなかったのを思い出した。ここからならじっくりと「逆さ館」を眺めることができそうだが、まだ太陽が山々に隠れている今の時間、水面は暗く澱んで見える。

 小さな紳士が、マリーの横に腰を下ろすと、呼応するように少女の肩がわずかに跳ね上がった。マリーの鼓動は波を打ちっぱなしで、目線は湖面から離れられず、顔もなんだか熱い。純情な想いに翻弄されっぱなしの少女は、意を決して横目でちらりとクラウスを見ると、まるでマリーなんて眼中になさそうに、なんとも涼やかで、穏やかな眼差しを湖に向けていた。マリーは肩を落としたが、力が抜けたおかげで少し視界が広がったようだ。深呼吸してから、ふと、この三日間抱えていた疑問をぶつけてみることにした。

「あの小姓はどうなるのでしょうか」

 誰もがマリーの前では、この話題を避けていたため、ゲルダにもほかの大人たちにも聞くことができなかった話だ。尋ねられたクラウスは不思議そうに、マリーを見つめる。

「気になりますか」

「ええ」

 少年は口元を手で隠した。どのように伝えようか、逡巡しているようだ。

「今は館の土牢にいるようですが、どのようになるかは城に戻ってからになるでしょう」

 それは、いささか違和感を覚える回答だった。マリーは貴族でも子供であり、騒動で負傷したわけでもない。つまり大した事件ではない。館の主である父の裁量次第で内沙汰にできる話にもかかわらず、なぜ引き伸ばしているのだろうか。

「もちろん、城主のご息女に対する非礼は問題です。しかし今、館で話題になっているのは彼の発言です」

「どういうことでしょうか」

「どうやら小姓は土牢の見張りに、自分が一度死んで生き返った者だと話したようです。それが領主様、マリー様のお父君の耳に入り、改めて大司教様を交えて審問をするように決まったと、私の父から聞きました」

 マリーは血の気が引くのを感じるのと同時に罪の意識を覚え、顔をクラウスから背けた。

「怖がることはありません。もうあなたがあの小姓と会うことはないでしょう」

 強張ったマリーの手を、クラウスは優しく包み込んだが、少女の意識は別にあった。教会の教えにおいて、人は死ねば最後の審判を待つだけの身となるため、再生は許されていない。再生を唱えるものは神の子自身か、もしくは自分を神の子とうそぶく背教者だ。後者であれば当然、神を嘲る不届き者と見做され、罰せられる。マリーが自身の境遇を、誰にも相談できなかった理由はここにある。

「だから大司教様にご相談されるのですね」

 マリーは自分がうまく立ち回れなかったせいで、小姓の少年が断罪されるかもしれないという事実に耐えられず、震えた。

 建国物語からもわかる通り、この国では教会の力が強大だ。とりわけツァイム大聖堂の大司教は帝国議会で大きな発言力をもつ「選定候」でもあり、そのような人に背教と見做されたら、小姓の少年がどのように裁かれるのか、マリーには検討もつかなかった。

 一方で、不謹慎ながらも、マリーの心は少女らしく、この話題に触れた自分の思慮の浅さを非常に悔やんでいた。男女であるマリーとクラウスはそうそう二人きりで話す機会なんて巡ってこない。なぜ、こんな貴重な機会を暗い話で不意にしてしまったのだろう。マリーは自分の魅力を伝えられず、クラウスの関心を惹くような話題を振ることもできずに、ただ背伸びしてしまったのだ。

 二つの想いがせめぎあい、次の言葉を紡ぐことができずにマリーが俯くと、目の端に光るものが映った。いつの間にか顔を出していた太陽の光が、水面に反射していたのだ。

 夜が明ける。

 暖色の光は暗闇を消し、すべてを明るく、包み込んでいった。

「この景色を見るのが好きなのです」

 そう小さく漏らしたクラウスを見上げると、目元が緩み、少年らしい笑みを浮かべていた。マリーはその横顔に見惚れ、思わず「私も」と同調してしまった。

「ほら、見て」

 クラウスが指さすほうに、マリーは念願の水鏡に写った「逆さ館」を見た。時折吹く風がさざなみを立てて、水面が煌々と輝く。その神々しさまで感じる、美しい光景を二人はただ静かに見つめていた。

 この温かい光がすべてを消し去ってくれないだろうか。そして今という瞬間を、永遠に留めてくれないだろうか。マリーは自然と手を組み、光に祈りを捧げた。

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