亡国のマリア

豆ばやし杏梨

第1話 二人の転生者

 あの時、あの男に出会っていなければ私は、故郷は、こんな目に遭わなかったのだろうか。

 マリーはわなわな震える手を抱いて、過去の自分を責め立てる。


 もうすぐ夜が明けるはずなのに、星の進みがいつもよりも遅く感じられる。見張り棟にある小部屋に唯一ある小窓から見えるのは、火に包まれる城下町。市民を避難させるために教会が激しく警鐘を鳴らし続けているのが遠くで聞こえる。マリーたちが隠れている小部屋には、皇帝軍が城を攻める轟音が響き、衝撃と共に天井から煤が降ってくる。

 騎士たちの足音に加え、侍女たちの悲鳴や騎士の怒号が聞こえるようになると、恐怖が徐々にマリーの心を蝕み、細い指が震えだした。恐怖に囚われてはいけない、そうマリーは強く、繰り返し念じては拳を握りしめ、奥深くに眠る小さな闘志を燃やした。

「ここだ!!」

 古い木製の扉はいとも簡単に蹴破られ、男たちの鋭い目が割れ目から覗く。マリーは侍女の服を強く掴み、襲い来る絶望に目を固く閉じてひたすらに祈った。


 あの時、あの男に出会わなければ……!!




「マリー、マリー! ほら大聖堂が見えてきた! いつ見ても荘厳で美しいわね」

 うたた寝をしていたマリーは、姉のイルゼに肩を揺らされ、寝ぼけ眼の焦点を合わせようと瞬きをした。そして急いで馬車の窓の向こう、イルゼの指さすほうに目を向けたが、もうそこには何もなかった。

 マリーたちを乗せた馬車は、この城下町の南にある別荘へと向かっている途中だ。ふと頬に伝う一筋の涙に気づき、マリーはイルゼに気づかれないように慌てて拭い、何事もなかったかのように、隣に座る母を見上げた。母は額に手を当て窓にもたれるようにして外を眺めているが、その憂鬱そうな表情は景色を楽しんでいるようには見えない。

 六年前、マリーは、ハインリヒ帝国の南西側に位置する地方都市ツァイムの領主であるウルリッヒ=フォン=カレンベルグと、その妻アデリナの末娘として生まれた。マリア・アマーリエ=フォン=カレンベルグという大層な名前があるが、本人は、二つ上の姉イルゼが呼ぶ「マリー」を好んで使っている。マリーの上にはイルゼの他に四人の兄がいて、この帝国のどこにでもある平凡な地方領主の家族だと、マリーは思っていた。

 目が冴えた少女は、姉と同じように窓を過ぎゆく街の景色を眺めることにした。ツァイムは隣国との国境に近く交易が盛んで、よく広場に市が立ち、活気に溢れている。先程イルゼが教えてくれた大聖堂は、街の中心にある中央広場の傍に建っている。赤い煉瓦に青い屋根の対照が際立つ建物は、街のどこからでも拝むことができ、まさにツァイムの象徴的建物だ。大聖堂を取り巻くように建つ旧市街地の建物は、軒面をそれぞれ赤茶や黒色の木組で意匠を懲らしていて、人形の家のように可愛らしく、マリーは好きだった。街の唯一の難点は石畳だろう。冬場は長時間歩いていると足が芯から冷えてしまうし、馬車で上を走ると体が上下に揺れてお尻が痛い。

 ガラー……ン ガラー……ン

 ツァイムの市門を抜けると、旅の守護聖人の彫像が馬車を見送る。後方では大聖堂の鐘の音が折り重なり、力強く鳴り響いていた。

 初夏の遠出の主たる目的は、近隣の領主家族への接待だ。館の主人である父は代わる代わる訪れる来賓を相手に狩猟に出かけて接待し、夫人はその間ピクニックや茶会などを催して、領主の奥方をもてなす。それが一週間も続くのだから、母の溜息も理解できる。子供は気楽なもので、男児は狩猟のお供をし、女児は茶会に相席して豪華な菓子に手を伸ばし、大人の会話に知った顔で頷くだけ。飽きた頃にはイルゼが気を利かせて、来賓の子供をままごとに誘いだすのが恒例だ。

 馬車が森林を抜け、田舎道に揺られながら、いくつかの荘園を通りすぎた頃、「どうどう」という掛け声で馬たちが歩みを止めた。

「やっと着いたわ」

 母の言葉に、イルゼはマリーの手を握る。

「いいこと、マリー。私たちはカレンベルグ家の人間よ。お客様には礼儀正しくね!」

 姉の威厳を示したい年頃なのか、イルゼが幼い妹を指南すると、マリーは素直に敬愛する姉を見つめ、神妙な面持ちで頷いた。

「足元にお気をつけくださいませ」

 マリーは乳母の手を取り、六歳にはまだ高い階段をおぼつかない足取りで降りる。

 ツァイムから南へ馬で数時間。このランシャフト地方にある「狩猟の館」は毎年狩猟の時期に訪れる、カレンベルグ家自慢の別荘だ。開かれた玄関扉から清々しい薫風が吹き、マリーの栗色の髪を撫でる。玄関の広間から食堂、そして奥庭へと一直線に扉が並んでいるため、すべて開放すると風が通り抜けるのだ。

「次はこっちね。どんどん運んで!」

「この荷物はどの部屋だっけ?」

「気をつけて運んでね」

 侍女たちが一息つく間もなく、次々と荷物を館内に運び込む様子を横目に、母は「またここで食事をしなければならないのね」と、小さく愚痴をこぼし、館へと足を踏み入れた。

 玄関から続くダイニングホールには、中央に何十人と腰をかけられる長机が置かれ、夜には来賓との晩餐会を開かれる。しかしこのホールで注目すべきは、壁だ。「狩猟の館」の名前にふさわしく、壁という壁に剥製の赤鹿の首が飾られていて、その数はなんと64頭にも上る。狩猟を嗜む者はその光景に目を輝かせて「やぁ、この角は実に立派だ」などと話に花を咲かせるのだが、そうでない者は壁中から注がれる視線にただただ居心地の悪さを覚える。

 館主であるカレンベルグ家の女性はまさに後者であり、妹思いのイルゼは深呼吸をし、怖がるマリーの手を強く握りしめた。

「行くわよ」

 剥製と目が合わないように、足先に視線を落とし、姉妹は懸命に母の後を追った。今夜の晩餐会を考えると、一刻も早く赤鹿の視線に慣れなければいけないのだが、まだ幼い二人には極めて難題だった。

 奥庭に辿り着くと、先に到着していた父と兄たちが馬を引いて、狩猟に出かけようとしていた。

「今着いたのか。我々は森に出るところだ」

 接待とはいえ公務から離れているためか、穏やかな表情を浮かべる父は、しかめ面の母を腰から抱き寄せ、両頬に口づけた。

「父上、早く行こう!」

「ベンの支度が遅かったんだろう」

「イルゼ、マリーは楽しみに待っていなさい。今夜は鹿祭りだよ」

「新しい弓の調子を試すんだ!」

 年の近い兄弟は子犬がじゃれ合うようにそれぞれの馬を従えて、父と共に黒い森へと消えていった。母は、多少機嫌を直したのか、じきに到着する来賓たちをもてなす準備のために、鼻歌まじりで館に戻っていった。

 別荘の奥庭には珍しく季節の花々が咲き揃っていて、その景色はいつ見ても壮観だ。マリーは以前、庭師が、領主家族が訪れた時に満開になるように植え付けする花の種類を厳選しているのだと、侍女に自慢していたのをこっそり聞いていた。それからマリーの奥庭を見る目が変わり、敬意と愛情をもって眺めるようになったのだ。だからこそそんな庭師の努力を知らずに、無邪気に花を摘もうとするイルゼの姿を見ていられなかった。

 マリーは、奥庭の端に植えられたブナの木に下がる古いブランコに腰をかけて、揺れる世界をぼんやり眺めていると、ふと頭に祖母の小さな花園が浮かんだ。それは頭の中に残る古い記憶であり、かすかに思い出される祖母の家は、決して大きくない昔ながらの家屋で、裏庭は物干し台を立てればいっぱいになるほど、こぢんまりとしていた。祖母の秘密の花園は日当たりの良い、二階のベランダにあり、プランターに植えられた色とりどりの花は空に向かって、のびのびと咲いていた。

『ちょうちょ、ちょうちょ』

 かつて祖母が水やりの際に口ずさんでいた歌を、マリーはなぞる。春の訪れを喜ぶ、懐かしい童歌。庭を舞う蝶々に誘われ、いつの間にか隣にいたイルゼも、興味深そうに目をくりくりさせながら、妹の歌に声を重ねた。マリーはイルゼの手を取り、拍子に合わせて腕を振り、二人は何度も同じ歌詞を歌った。

 すると突然、大きな音と共に少年が叫んだ。

『おい、なぜその歌を知っている?!』

 背後から聞こえてきたのは、この国で聞くはずのない、遠い東の国の言葉だった。

 姉妹が振り返ると、少年が必死の形相で立っていた。身なりからして小姓のようだが、最近館で雇われたのだろうか、マリーは見覚えがなかった。彼の足元には、城から運んできた母上の荷物が散乱している。

「え、え、」

 突然の怒号に面を食らい、イルゼが後退りをするが、なまじっか言葉を理解できるマリーは小姓を凝視したまま動けずにいた。

『さっきの歌はどうした?もう一度歌ってみてくれ』

 小姓はマリーにじりじりと迫る。

『歌い出したのはお前だな。そうだろう』

 イルゼとは違うマリーの狼狽に、小姓も気づいているようだ。しかしマリーを責め立てる眼差しはやがて悲しみを帯び、小姓はその場で膝をつき、泣き崩れた。

『お願いだ、せめて返事だけでもしてくれ』

 マリーは恐怖に囚われ、小姓の懇願に応えられずに、ただ震えてその丸まった背中を見つめることしかできなかった。館のほうではようやく異常な事態に気づいた大人が慌てふためき、衛兵を大声で呼ぶ様子が伺える。

 時間がないとわかった小姓は再び激昂する。

『なんとか言え!俺の言葉がわかるんだろ?!』

 小姓がつかみかかろうと腕を伸ばすと、マリーの視界を黒いものがよぎった。

「無礼者。幼い少女に手をかけるとは何事だ」

 黒髪の少年がマリーの前に立ちはだかり、 小姓を制したのだ。

「なんだお前は!」

 怒りの矛先が少年に向かい、腕を振り下ろしたとき、小姓は大人たちに後ろから取り押さえられた。喚き声を上げながら暴れるも、少年の力では敵わず、いとも簡単に抱え込まれた小姓は衛兵によって連れていかれた。

「マリー様!!」

 乳母が駆け寄り、マリーを抱き寄せる。横では乳母の裾をつかみながら、イルゼが大粒の涙を流していた。

「うわあああん」

 小姓の姿が見えなくなると、マリーは恐怖から解放され、額に汗を浮かべ、力の限りマリーは泣いた。六歳の心が気持ちを鎮めるには、涙で恐怖を洗い流すしかなかった。

「マリー様、お怪我はございませんか?ああ、奥様、大変申し訳ございません。このアガーテ、お咎めは受けます」

 乳母は母を見るとマリーから手を離し、深々と頭を垂れて一歩下がった。

「ああ、マリー、よかった、無事で」

 青ざめながら近づいてきた母は、ハンカチーフで娘の涙を拭い、強く何度も抱きしめ、口づけた。母に抱かれ、落ち着きを取り戻したマリーは、しゃくり上げながら周囲を見回し、黒髪の少年を探した。

 黒髪の少年は、マリーを一瞥すると、黒猫のように大人の脇をすり抜け、館へと消えていった。挨拶もなく、人目を避けるように。

「待って!」

 乾ききった喉から絞り出した少女の声は、庭に吹き込んだ薫風にかき消されてしまった。

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