第19話


「……え?」


 聞き違いだろうか。


 お兄ちゃんは宥めるような、生温い声音で続けた。


「俺に散々言われた通りお前と相性悪くて、不快な気分にさせちまったから謝りたいってさ。お前、家飛び出したんだって?」


「飛び出した?」


 まさか赤瀬について伝えてない?


「施錠は莉子りこに鍵貸してるから任せりゃいいよ。まあでも、もう一回会ってやってくれねえか? かなり反省してる様子だったし、俺も今日は何時に帰れるか分かんねえし……」


 赤瀬は私の肩を掴むと私のスマホへ身を乗り出す。


涼穂すずほは今日あたしの家に泊まります」


「んっ? 誰だ?」


涼穂すずほのクラスメートで友達の赤瀬です。さっき涼穂すずほから、暫くご両親が仕事でいないって聞いて。涼穂すずほのお兄さんですよね? お兄さんも遠い町で一人暮らし中って聞いてます。うちの両親は了承済みなので、涼穂すずほの事は心配しないで下さい」


「お、おお。お友達か。いつも妹がお世話になってます……。っていやいや、ありがたいけれど、うちの親三ヶ月帰って来ないんだよ。その間ずっとっていうのはなあ……」


「いいんですうちの親も仕事で余りいませんから。泊まって貰うのも初めてじゃありませんし。涼穂すずほには矢花やばなさんにちゃんと会うよう、あたしからも伝えておきます」


矢花やばなっ? 何で莉子りこの名前知ってるんだ?」


 漏れ出しそうな悲鳴を堪えた。


 赤瀬は息を呑んで私を見る。


 やっぱり矢花やばなさんは私が赤瀬に連れ出して貰った事を伝えてない。きっとそうなった経緯さえ。でなければお兄ちゃんも私を再び、矢花やばなさんと接触させようなんて思わない。赤瀬が割り込んで嘘を並べ始めたのも私と同じ疑念を覚え、確認しようとお兄ちゃんに鎌をかける為か。


 矢花やばなさんは嘘をいてる。お兄ちゃんの前では無害で可愛い彼女を演じ、あの常軌を逸した本性を隠している。私に会う為に。まだ接点を保とうとしているという事は、会うだけでは達成されない何らかの為に。


 こちらの困惑がお兄ちゃんに漏れる前に、赤瀬はほぼノータイムで答えた。


涼穂すずほから聞きました。お兄さんの彼女だって」


「ああそういう。んー、まあ正直嬉しい申し出だけれど……。まあ一旦、涼穂すずほ莉子りこと会うよう改めて言っといてくれないかな。その後は涼穂すずほの判断に任せるよ。ちょっと涼穂すずほに代わって貰えるかい?」


 間髪入れず応じる。


「お兄ちゃん?」 


「おお涼穂すずほ。お友達から話は聞いた。今日は莉子りこと会って、それでも嫌だったら、お友達の家に泊めて貰え。俺も、明日はちゃんと帰るからさ。今後の事は、それから考えよう」


「分かった」


 それでもも何も無いさっさと赤瀬の家に逃げる。


「赤瀬さんだっけか? 泊めて貰う事になってもならなくても、気にかけて貰ってるんだから、ちゃんとお礼言うんだぞ」


「うん。また聞きたい事があったら、電話していい?」


「勿論。俺もまた連絡するよ」


「分かった。それじゃあね」


 通話終了のボタンに親指を伸ばした。


「ああ涼穂すずほ


「何?」


 苛立ちを堪えて親指を止める。


莉子りこの事は悪かったよ。もっと言い聞かせればよかった。でもあいつ、普段はいい奴だからさ。あんまり嫌ってやらないで」


「お兄ちゃんごめん、ちょっと今急いでて」


「あーいたいた! 水間みずまさーん!」


 馴染みの無い声に呼びかけられた。


 つい電話を切りながらそちらを見上げる。渡り廊下の方か? 


 辺りを見回しながら渡り廊下の正面に出ると、向こう岸に立つ女子生徒が手を振っていた。


 クラスメートじゃない。でも知ってる。同期の水泳部の子だ。大会で何度も優勝してるから校内でも有名で、今懸垂幕で一番名前が載ってる子。でも面識は無い。


 首を傾げていると察したのか、水泳部の子は手を振り続けながら言った。


「ごめーん窓越しに見えたから! さっき帰ろうとしたら正門前に先輩の知り合いがいてさあー! 水間さんを捜してるから、いたら声かけといてくれないかって言われてー!」


 先輩の知り合い?


 付いて来ていた赤瀬が隣で止まった。私と水泳部の子の遣り取りが聞こえていたらしく、水泳部の子へ尋ねる。


「先輩って誰!?」


 勿論全く訛っていない。


「保坂せんぱーい!」


 赤瀬は私を見た。


「知ってるか」


 完全な関西訛り。


「初耳」


「どないなっとんねん」


 怪訝そうに呟く赤瀬の声に被る格好で、水泳部の子は続ける。


「何かー! 保坂先輩の友達って人が捜してたよー! 矢花やばなって名前の女の人なんだけれどー!」


 息が止まった。


 赤瀬も目を見開いて絶句する。


 視線を咄嗟に窓へ投げた。ここからならギリギリ、正門が見える。 


 いた。正門越しに校舎を見上げる、秋らしいワンピース姿の女性が一人。初めて見た時からまだ脳裏に焼き付いて離れない、矢花やばな莉子りこのその姿が。


 無邪気で無知で惨たらしい幼児みたいなあの笑みを浮かべている様さえ見えた気がして、背中が粟立ち凍り付く。


「……赤瀬」


 つい呼びながら姿を探した。赤瀬はすぐ振り向いて来る。


 二つの視線と目が合った。


 一つは赤瀬。


 もう一つは、赤瀬の肩越しにいる、あれ。さっき正門に続く一本道で見た、不器用な人が粘土で作ったような輪郭の誰か。


 霧に阻まれて性別も年齢も判断がつかなくて、空から垂れた縄で首を吊っているように背骨は真っ直ぐで項垂うなだれていて、なのにこちらを見ているとは明確に分かる視線を放っていたあれが、屋内にいるのに未だその不明瞭を保ちながら赤瀬の肩越しに立ち、一本道で見た時と変わらない姿勢で私を見ている。



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