第2話
生白いものは鼻先で笑っていた。
女。女の顔だ。色白の若い女性。どれ程機敏に私へ急接近したのか示すように、宙へ浮き上がっていた長髪が闇の中はらはらと垂れていく。
鼻筋が通っていて唇が薄い。口角と目の端が上がっている。大学生だろうか。涙袋を活かしたナチュラルメイクをしている。涙袋が無い私には病的な肉塊が浮き立っているようで気持ち悪い。お陰で闇の中でも目に付く。
そいつに腕を掴まれていた。こいつに引き
背を、湿っぽい空気にべろりと舐められる。
外気だ。玄関ドアが開いたままなんだ。
周囲へ気を向ける意識が呼び起されて、ドアへ振り返ろうと身を
引き戻された。涙袋の女は、笑顔を見せ付けるように迫るなり口を開く。
「お帰りなさいっ!」
キャベツを両断したような、ざくりという音が頭の中に響いた。
「
「……え?」
先のざくりという音は、私の脳なりの強烈なショック表現だったらしい。切られたのはキャベツでは無く思考力で、束ねた脳の神経を包丁一本でざくりと切断されたような衝撃を浴びたのだ。
「
違う。そんな事を考えている場合じゃない。
まだ麻痺して能天気な分析をしている意識を引き戻す。
「あの」
「
女は離したばかりの私の手に、自身のスマホを握らせた。今までずっと腕を掴まれたままだったとそれで気付く。
握らされたスマホに目をやる。画面には、〝
発信ボタンを押していた。よく知りもしない女のスマホを、自分の耳に当てている。
四度目のコールで繋がった。逃げ込むように叫ぶ。
「お兄ちゃん!? あの」
「えっ
聞き慣れたお兄ちゃんの声に、知らない女の名が異物感無く混ざっていた。
決定打を浴びたような気分になる。激流のように放たれようとしていた言葉達が喉の奥で一斉に躓き、石のように硬くなった。今度はそれに息が詰まりそうになって捻り出す。
「いや、あの、今家に、お兄ちゃんの彼女っていう
「早っ。もう行ったのかよあいつ。そう大学終わったら連絡しようと思ってたんだけれどさあ。暫く親いねえじゃん? どうしよかなってちょっと
「いつもこんな感じなのこの人」
「変な人だから別れろ」と言いたいのに、眼前にいる状態で刺激したくなくて躊躇ってしまう。
お兄ちゃんはちょっと困った様子で、「あー、何かやったか早速?」と笑う。
「性格合わないと思うぜって結構言ったんだけどなあ。何つーかまあ……。ぶっちゃけ、お前の嫌いなタイプだよ。サプライズとかイベント好き。ホラー映画好きだからって映画研究部入ってるぐらいだし、兎に角人をびっくりさせんのが好きって言うか……。驚かされたか?」
「驚かされたなんてもんじゃないよ。こんなの、警察呼ばれてもおかしく」
「あァ~マジでごめん! 帰ったらキツく言っとくから! テンション超上がってんだわそいつ! お前に会うって意味でも、映画研究部って意味でも! 映画好きとしてはテンション上がるだろ、俺らの地元って! 霧でどこ行っても雰囲気あるから、適当に撮るだけで映えるし! 無理に仲よくしろとは言わねえけれど、落ち着いて話せば普通の奴だから! 俺も今実家から遠い所に住んでるし、中々通えないしさあ! 三ヶ月だけ、頼む!」
両手を合わせて頭を下げている様が目に浮かぶ。お兄ちゃんが何か頼み込む時、いつも見せる格好。たとえば私がコンビニに行こうとしていると呼び止めて、ついでに何を買って来て欲しいとか言う時に見せて来る。
この頃久しい下らない遣り取りを思い出して、つい笑みが零れてしまった。
「……分かった、分かったよ。兎に角
「勿論! 可愛いゾッ!」
「ゾッ! じゃないよ、もう。早く帰って来て」
「いやガチで可愛いし申し訳無いと思ってるのもガ」
切った。
こんな事で気持ちが楽になっている自分が理解し難かった。
耳から離した手を下ろす。見慣れないスマホが収まっているのに気付いて、引き返して来た現実に心がざわつく。
もう一秒も持っていたくなくて、素早くスマホを差し出しながら顔を上げた。
女は電話の間も私を見ていたらしい。つい電話に気を取られて視線を外していた前と変わらない、姿勢と笑顔で立っている。
虫を思い出した。人間に捕らえられ
籠の網目のすぐ先には、自分を捕まえた四、五歳ぐらいの子供の顔がある。両手で持ち上げた
子供は喋らない。息を殺していて静か。眩むような熱気を
何をされるか分からない。
そういう、伸しかかって来るような好奇心。幼い内に誰もが手懐けた筈の、社会的な人間と呼ぶには余りに未熟で惨たらしい化け物感。
懐かしくも長らく覚えていないあの感覚が、どうしてか蘇った。
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