第2話 


 生白いものは鼻先で笑っていた。


 女。女の顔だ。色白の若い女性。どれ程機敏に私へ急接近したのか示すように、宙へ浮き上がっていた長髪が闇の中はらはらと垂れていく。


 鼻筋が通っていて唇が薄い。口角と目の端が上がっている。大学生だろうか。涙袋を活かしたナチュラルメイクをしている。涙袋が無い私には病的な肉塊が浮き立っているようで気持ち悪い。お陰で闇の中でも目に付く。


 そいつに腕を掴まれていた。こいつに引きり込まれた。


 背を、湿っぽい空気にべろりと舐められる。


 外気だ。玄関ドアが開いたままなんだ。


 周囲へ気を向ける意識が呼び起されて、ドアへ振り返ろうと身をよじる。


 引き戻された。涙袋の女は、笑顔を見せ付けるように迫るなり口を開く。


「お帰りなさいっ!」


 キャベツを両断したような、ざくりという音が頭の中に響いた。


涼輔りょうすけの妹さんだよね!? 私矢花やばな莉子りこ! 涼輔りょうすけの彼女です。涼輔りょうすけからご両親が暫く出張だから、その間あなたが一人になるって聞いて様子を見に来たの。まだ高校二年生なのに三ヶ月も一人なんて危ないでしょ? 夜には涼輔りょうすけも帰って来るから、先に鍵借りて待ってたんだ」


「……え?」


 先のざくりという音は、私の脳なりの強烈なショック表現だったらしい。切られたのはキャベツでは無く思考力で、束ねた脳の神経を包丁一本でざくりと切断されたような衝撃を浴びたのだ。


涼穂すずほちゃんだよね? 涼輔りょうすけから色々聞いてるよおすっごい綺麗! 涼輔りょうすけが自分とは全然似てないって言ってたけれど、確かに並んでも兄妹きょうだいって分かんないや。お父さん似とお母さん似ですっぱり分かれたのかな? もう涼輔りょうすけ涼穂すずほちゃんタイプならモテたのに」


 違う。そんな事を考えている場合じゃない。


 まだ麻痺して能天気な分析をしている意識を引き戻す。


「あの」


涼輔りょうすけに電話してみる?」


 女は離したばかりの私の手に、自身のスマホを握らせた。今までずっと腕を掴まれたままだったとそれで気付く。


 握らされたスマホに目をやる。画面には、〝水間みずま涼輔りょうすけ〟と表示された電話番号が。並ぶ数字はお兄ちゃんの番号と同一。


 発信ボタンを押していた。よく知りもしない女のスマホを、自分の耳に当てている。


 四度目のコールで繋がった。逃げ込むように叫ぶ。


「お兄ちゃん!? あの」


「えっ涼穂すずほっ? 何で莉子りこのスマホでっ?」


 聞き慣れたお兄ちゃんの声に、知らない女の名が異物感無く混ざっていた。


 決定打を浴びたような気分になる。激流のように放たれようとしていた言葉達が喉の奥で一斉に躓き、石のように硬くなった。今度はそれに息が詰まりそうになって捻り出す。


「いや、あの、今家に、お兄ちゃんの彼女っていう矢花やばな、さんが来てて……」


「早っ。もう行ったのかよあいつ。そう大学終わったら連絡しようと思ってたんだけれどさあ。暫く親いねえじゃん? どうしよかなってちょっと莉子りこに喋ったんだよ。そしたら、お前の面倒見るって言い出して。お前を一人にさせるよりはって鍵貸したんだ。俺も今から帰るから、着くのは十九時ぐらいかなぁ……? ちょっと挨拶がてら相手してやってくれねえか? あいつ一人っ子で妹欲しかったってちょくちょく言ってた所為か、お前にめっちゃ興味持ってて」


「いつもこんな感じなのこの人」


 「変な人だから別れろ」と言いたいのに、眼前にいる状態で刺激したくなくて躊躇ってしまう。


 お兄ちゃんはちょっと困った様子で、「あー、何かやったか早速?」と笑う。


「性格合わないと思うぜって結構言ったんだけどなあ。何つーかまあ……。ぶっちゃけ、お前の嫌いなタイプだよ。サプライズとかイベント好き。ホラー映画好きだからって映画研究部入ってるぐらいだし、兎に角人をびっくりさせんのが好きって言うか……。驚かされたか?」


「驚かされたなんてもんじゃないよ。こんなの、警察呼ばれてもおかしく」


「あァ~マジでごめん! 帰ったらキツく言っとくから! テンション超上がってんだわそいつ! お前に会うって意味でも、映画研究部って意味でも! 映画好きとしてはテンション上がるだろ、俺らの地元って! 霧でどこ行っても雰囲気あるから、適当に撮るだけで映えるし! 無理に仲よくしろとは言わねえけれど、落ち着いて話せば普通の奴だから! 俺も今実家から遠い所に住んでるし、中々通えないしさあ! 三ヶ月だけ、頼む!」


 両手を合わせて頭を下げている様が目に浮かぶ。お兄ちゃんが何か頼み込む時、いつも見せる格好。たとえば私がコンビニに行こうとしていると呼び止めて、ついでに何を買って来て欲しいとか言う時に見せて来る。


 この頃久しい下らない遣り取りを思い出して、つい笑みが零れてしまった。


「……分かった、分かったよ。兎に角矢花やばなさんは、本当にお兄ちゃんの彼女なんだね?」


「勿論! 可愛いゾッ!」


「ゾッ! じゃないよ、もう。早く帰って来て」


「いやガチで可愛いし申し訳無いと思ってるのもガ」


 切った。


 こんな事で気持ちが楽になっている自分が理解し難かった。


 耳から離した手を下ろす。見慣れないスマホが収まっているのに気付いて、引き返して来た現実に心がざわつく。


 もう一秒も持っていたくなくて、素早くスマホを差し出しながら顔を上げた。


 女は電話の間も私を見ていたらしい。つい電話に気を取られて視線を外していた前と変わらない、姿勢と笑顔で立っている。


 虫を思い出した。人間に捕らえられ虫籠むしかごに押し込められた、どこにでもいる昆虫。


 籠の網目のすぐ先には、自分を捕まえた四、五歳ぐらいの子供の顔がある。両手で持ち上げた虫籠むしかご越しに、爛々らんらんと輝く目をこちらへ投げかけていた。


 子供は喋らない。息を殺していて静か。眩むような熱気をはらむ無言を放ちながら、こちらの一挙手一投足全てを焼き付けるように目を離さない。


 何をされるか分からない。気紛きまぐれに籠から出されるなり頭をお尻を掴まれて、左右に身体を千切ちぎられるかもしれない。羽をがれるかもしれない。足を全部引き抜かれて、芋虫みたいな姿にされるかもしれない。それらの行為に後悔は無い。罪の意識も無い。未知の体験を得るという学習でしか無い。


 そういう、伸しかかって来るような好奇心。幼い内に誰もが手懐けた筈の、社会的な人間と呼ぶには余りに未熟で惨たらしい化け物感。


 懐かしくも長らく覚えていないあの感覚が、どうしてか蘇った。



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