霧に紛れて犯すのは。【今月31日まで毎日更新】

レンチン卵爆心地

1

1.留守宅の深海生物

第1話


 わざと狸の轢死れきし体を踏んでみた。やっぱりその程度で黙る興奮じゃなかった。


 道を横断し終える間際にかれたらしい狸は、「ぶに」とも「ぐに」ともつかない間抜けな感触でローファー越しに足裏を舐めるなり、妙にさっさとアスファルトの硬さを伝えて離れて行った。お腹にタイヤ痕を刻まれぺたんこになっている通り、中身が口と肛門から飛び出しているから、まともな肉厚さが無い。死んだばかりらしく、生臭さが精肉ぐらい薄かった。


 遠くで救急車のサイレンが響く。つい振り向いた。ベタ付くのっぺりした濃いグレーに阻まれて、一メートル先も見やしない。霧だ。トイレの個室の壁ぐらいの距離感で四方を覆い、全てを灰色に塗り込んで佇んでいる。


 いつもの事だ。一歩外に出れば、微かにえたような水の臭いが充満しているのも、梅雨に忍び込んだ廃墟の浴室から出られなくなったみたいに、陰気な水気が肌に纏わり付いて来るのも。この濃密な霧は清涼な空気を追い出すように、年中この町に伸しかかっている。


 今日から両親が出張で三ヶ月家を空ける事になった。今朝リビングにあった書き置きで知った。お兄ちゃんは今春から大学進学に伴い他所の町で一人暮らし中だから、家事は私の分だけでいい。つまり夏休み三回分もの自由。


 私は今、人生で最高にテンションが上がっている。


 これはクラスメートにも「機嫌がいいね」なんて言われちゃうのではと登校中まで期待していた。誰にも指摘されなかった。こんな日さえ私の精神と表情筋の接続状況は切断同然らしい。同時に、今日とは世間にとって平凡な日々の一つに過ぎないという現実を示され、やや冷めた。


 それでも人生史上は最高の日なので放課後を迎えた現在もアガッている。今日は家事をサボって、サブスクでのんびり映画でも観よう。


 学校から一番近いコンビニで買ったポップコーンをスクールバッグに入れて、自宅のあるマンションの階段を上がった。


 廊下に出る。誰もいない、音もしない、四角いだけの様が、ずうっと突き当たりまで続いている。表に出ているのは霧だけで、ここを廃墟と錯覚させるようにのろのろ辺りを這っていた。靴音がどこまでも抜けていくように響く。


 ああ靴掃除をしないと。踏み潰した蛞蝓なめくじがかなりの量になって来た。ローファーの靴裏がベタ付いてる。狸の肉片にしてはしつこ過ぎるし、蛞蝓なめくじなら、躱して歩けない量で毎日そこら中這い回ってる。かと言って靴掃除をサボれば粘液だの死肉だので結構な見た目になってしまうのは、日常とは言え困りものだ。


 赤瀬に、いい靴掃除の方法は無いかいてみようか。蛞蝓なめくじより靴掃除を嫌がるなんてズレてるって、また文句を言われそうだが。この町で靴掃除より蛞蝓なめくじを嫌がる人間こそ、赤瀬ぐらいなんだけれど。


 壁を這ってるやつに気付かなくて悲鳴を漏らしてるのを見た時は、そんな事で驚く人間がいる事が信じられなくてこっちが声を漏らした。ぶん殴られると分かっているので指摘しなかったが、赤瀬の悲鳴がかなり女の子らしかったのもあって。ホラー映画なら主人公を張っている。


 家路に就くという染み付いた動作が、考え事をしている私を他所に片側の爪先の向きを変えた。ぐるりと身を翻され、何度開閉したか数えた事も無い玄関ドアが目に飛び込んで来る。鍵を出せと命じられているような不快感を覚えながら、まだ宙に浮いているもう片側の爪先を着地させようと意識を向けた。


 玄関ドアが数センチ開いている。


 心臓が、熱したフライパンに落とされた生肉みたいに縮んで痛んだ。


 間抜けな隣家。


 いいや明確に我が家。このドアは確かに今朝この手で施錠した、私水間みずま涼穂すずほの家。


 お兄ちゃんが帰って来た?


 玄関のドアも閉められない程馬鹿じゃない。


 何で開いている事へ納得出来る理由を探してる。


 入ってはいけない。離れろ。今すぐコンビニにでも引き返して、帰宅していないか家族へ連絡を取れ。


 片側の足が着地する。


 即方向転換すべく力を込める。


 ブレザーの裾と胃の辺りまで伸ばした髪が、突風を浴びたように揺れた。


 突風が吹いて来た方向に目がつられる。


 素早くやった所為せいでまだ全ての輪郭が滲んでいる視界の中央に、それらを縦に両断する一本の直線があった。紙を貼り付けたような奥行きの分からない真っ黒い色をしながら、日常的に見ている風合いを帯びている。家の中の影だ。数センチだけ開いている玄関ドアの隙間から漏れている。


 その影に一つ、ぽつりと白い点が現れた。色味がどこか生々しい。大きくなっていく。溺死を逃れようと深海から急浮上する生物のように、隙間を覆うのっぺりとした影をその生々しい白で飲み込みながらぐんぐんと。


 体重が消えた。


 片足が前へ飛び出し宙を掻いている。


 玄関ドアが全開になっていた。


 生白いものの中へ引きり込まれる。



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