『斧と回遊魚』その③

 文化祭で吐いたのがトラウマになっているらしく、それからの音夢は目に見えて縮こまって、怖がりになった。

 たまにこうやってひどく怯える時があって、そういう時はぎゅっと抱きしめてやって、身体を圧迫すると安心してくれるらしい。

 二の腕を縛るように後ろから手を回す。体格差のせいで、包み込むようにもなった。

「ほらこれ。好きだったよね」

「珠火っ、ありがと」

 まだぜーぜーと途切れ途切れだけど、少し落ち着けたみたいだ。

 抱きしめたまま、音夢の左腕を掴んで指先を流水で流す。

「痛いと思うけど、我慢して」

「う、うん」

 傷を開かないように抑えながら、生乾きの血糊を剥がしていく。

 切ってしまったのは、左手の親指と人差し指。

 指先だから余計痛いし、興奮してるみたいだから出血が増えているのかもしれないが、傷自体はそこまで深くはない。

 こうやってよく洗って、絆創膏とか貼っておけば治りそうだと思う。

 

「救急箱はどこにやったっけな。そのうち整理しなきゃだ」

 珠火をソファに座らせて、キャビネットの中を探す。

 ここに来てから私は使っていなかったし、音夢も最後に使ったのは年単位で以前とのことで、すぐには出てきそうにもなかった。

 そもそもの音夢の生活に、怪我をしそうな道具というのは今まで無かったのだろう。ドアの蝶番より危ないものは見当たらない。

 あったとしても正直、使えるか怪しい気もするのだ。

 半ば諦めて、近所のドラッグストアはどこだったかなどと考え始めていた。

「えーい面倒だ。あとで探そうあとで」

 すこし迷って、音夢の指を咥えて傷を舐める。

「珠火、えっと」

「舐めとけば、治ると思う」

 口を離して音夢に答える。

 指先を伝って私の唇に糸を引いていて、濡れた肌も相まってなかなか艶めかしい。

「今日はもう、終わりにしようか。卵は後で食べられるようにーー」

 完全放棄宣言をかました私の口が、音夢の指に塞がれる。

 意図を尋ねようにも舌を抑えられていて、絡みついて水音が鳴るだけだった。

 身動ぎして引き離そうにもうまく力が入らない。

「……絆創膏は、後でいい」

 押し切られて、ソファに縺れ込む。

 音夢の身体が私を押さえつけていて、単純な重さ以上に愛情か執念か、もしくは欲のような重苦しさに身動きが取れない。

 頬に触れた右手の感触を処理しきれていない内に指が引き抜かれる。

 それは細く、銀色に糸を引いていた。

 飲み込んだ唾液の中の、音夢の血の味が離れない。少し酸っぱいような鉄の味が私を中から犯して、正常な判断力というのを作り変えていた。

 見とれるようだった私の唇が、不意打ちで奪われる。

 服の中に入ってきた手の、傷口からにじみ出る血液が跡を付けていく。

 抵抗する気も無かった。

 音夢の吐息と、音夢の体温と、音夢の鼓動と、音夢の香りだけが私を形作る。

 そういう夜になりそうだった。



「おはよふ」

 起きて第一声、ぬるま湯のような声が出る。

 ソファで寝たせいで身体は固い、あのまま寝たせいで寒い。

 不器用な責めで出来た傷もズキズキとそこそこ痛い。

 我慢出来ないほどじゃない。

 温かい音夢の身体を湯たんぽ代わりにしていたようで、不規則な吐息が胸元から聞こえてきていた。

 どうしようもなくなって音夢のそのままを抱きしめて、わしゃわしゃと頭を撫でていると自然、目が覚めたらしい。

「珠火っ、……その、ごめん」

 私の顔と、肌を見て何があったのか理解したのか、音夢が飛び退いて、おどおどしながら謝ってくる。

 傷の事か、半ば無理矢理だったことか、それとも私を抱いたこと自体に対してか。

 俯いた顔から真意を伺うことは出来なかったが、なんにせよ私の答え方は恐らく一つである。

 ソファに座り直す。

 頑なにこちらを向かない音夢の腕を引いて、私の膝の上に乗せて頬に唇で触れた。

 音夢、と語りかけようとして、違和感を覚える。

 昨日のキスと、その先のことが音夢からの愛情で。昔の、私達姉妹の間の感情への回帰なのだとしたら。

 私が呼ぶべきなのは。

「お姉」

 昔は、そう呼んでいたのだった。

 一生懸命で、ドジばかりなお姉はあの頃から変わらない。それがお姉なりの優しさで、本懐で、愛なのなら。

 私はそれを真正面から受け止めて、また愛してみたい。 

「お姉、大好きだよ」

 お姉の柔らかさを全身で感じて、その中に面を埋めた。

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