処方箋キッチン

『処方箋キッチン』その①

 チェックリストのFIXの項目にカーソルを動かし、誰も居ない部屋に、カチッとクリック音を響かせる。

 画面下のデジタル時計は三時過ぎを示していて、きりが悪いからと作業を続けていたらだいぶ遅くなってしまった。

 単純なデータの処理が主だったので、集中して一気に終わらせてしまいたかったのだ。

 ともかくこれで納期には間に合い、あんまり速く納品するとそれはそれで面倒くさそうなので少し寝かせるとして。

「お腹すいた」

 先送りにしていた、空腹と向き合うべきなのだろう。

 とりあえず、ダメ元でキッチンへ向かい戸棚を覗く。

 カップ麺やパンといったすぐ食べれそうな物は特にない。強いて言うなら買いだめしているスナック菓子はあるのだが、これを昼飯に出来るほど乱れた食生活はしていない。

 冷凍していた米に手を付けることも考えたが、ここから主菜副菜、まあ味噌汁はフリーズドライとしてもそれらの食器を出して使い洗う手間を天秤にかけると、散歩がてら外食に足を運ぶというのほうが幾分か軽かった。

 パジャマ兼用の部屋着を脱いで、色違いでまとめ買いした外着から適当に上下を着る。

 十一月も半ばだが今日はまだ暖かく、その上からコートだけ羽織って、財布と携帯電話と、それと家の鍵をポーチに突っ込み家を出た。

 ぽつぽつと降り出していた雨が若干不安だったが、一応晴れているし多分止むだろうと手ぶらで出る。

 大抵の店はラストオーダーを過ぎている時間で、ファストフードも気が進まない。お弁当を買っても良かったが、結局ここに行き着く。

 家から徒歩五分ほど。嫌がらせみたいに近い街角にその店はある。

 想作イタリア料理店【ぱーりんのいず】。

 私の恋人の店だ。

「元、だけど」

 そう、あくまで元カノだ。名前をパンケーキという。

 円満に別れたし、別に蛇蝎の如くとかそういう嫌い方はしていない。

 ただ私の年賀状を見てこっちに移転してきたのはちょっと気持ち悪いと思う。

 ただ料理は本当に美味しくお店も綺麗で、店員さんもかわいい。つまり居心地が良い。

 他の常連とも話すようになってきて、いい加減この店を気に入っていると認めざるを得ないかもしれない。

「他のってことは、いっぱい来てくれてるのは否定しないんですね」

 ひょこんと、背後からツインテールが一つ二つ。それを認めると同時に軽く衝撃を受けた。

 店員の、シルクワームちゃんの抱擁だ。

 考え込みがちな私とは対照的に元気よく明るい。赤みの強い髪色から、いちご色のゴールデンレトリバーだなと内心思っている。

 振り返って「こんにちは」微笑むとニカっと八重歯を見せて明るい笑顔を返された。

 私の好みとは少しずれるのだが、やっぱりかわいいなと素直に思う。

 セピア色のエプロンの下はフリルでいっぱいのパステルピンクのワンピースで、ゆめかわいいメイドさんと言った出で立ちである。

 それはそうと、声に出ていたか。

「そうですね、結構ひとりごちてます多分」

「それかシルクワームちゃんがエスパーかだね。まがったスプーンいる?」

 雑談しながらコートを預けて、いつものカウンター席に座る。少し右にそれた辺りが私の指定席である。

 カウンターの内側には豆やらサイフォンやらが並んでいて、これらはインテリアではなく店長、つまりパンケーキが使うものだ。

 逆側、つまりカウンターの左側には顔見知りの盃さんが、なぜかサンタクロースのコスプレをして突っ伏していた。

 向こうも物静か系の性格であるためそんなに話し込むこともないのだが、本の趣味とかは割と合いそうだったりする。

「えっと……、いやいいか」

 声を掛けるには若干遠く、疲れていそうだしという大義名分と合わせてひとまずスルーする。

 まあ、なんかあったらシルクワームちゃんが起こすだろう。

 かくいうシルクワームちゃんは「これセルフの美味しい水で、それと注文決まって、店長いなかったら呼んでねー」と残してホールの掃除をしていた。

 銀の箔押しがされた木彫りのメニュー表を手に取って開く。相変わらず趣味はいいから少し腹がたった。

 いつも日替わり定食を注文しているのだが、それはそれとしてこの店はパンケーキの思いつきで新メニューが追加されるので来る度に確認してるのだ。

 あまり比較する機会もなかったが食は太い方らしく、セットになっている量だけでは少々物足りないというのもある。

 ぱらぱらめくっているとフレンチトーストの新作というのが目についた。食パンをまるまる一斤、そのまま液に漬けて、焼きたてをその場で切るらしい。

 美味しそうだがその、曲がりなりにもここはイタリアンなのだが。想作という言葉にすべてを託し過ぎである。

「お疲れ音夢ちゃん。お仕事大変だったみたいだね」

 隈出来てるよ、と声が降ってくる。グレープフルーツのような強い甘さと酸味を伴った香りが空気を染める。

「……まあ、それなりにね」

 カウンターに立って、身を乗り出したパンケーキが子供をあやすように頭を撫でてくる。

 キッチンから出てきたらしい。手首の辺りが少し湿っていた。

 数秒、されるがままだったが人の目があるんだったと身を捩る。

 パンケーキもそれ以上はやってこない。軽く見回したがシルクワームちゃんも盃さんも気づいていないようで、それはいいのだが頭が焼けたような羞恥心があった。

 しばらくぶりだったが、パンケーキは相変わらず、優しいとも形容できる雰囲気を持っていた。

 その雰囲気の所以といえるふわふわの金髪は正直とても綺麗で、赤のアンダーリムがよく映える。

 背が高い女と言われて想像する更に一回りくらいのタッパがあり、関係ないし興味も全然無いが胸も大きい。

 シルクワームちゃんとおそろいのエプロンの下は、こちらもフリフリのブラウスとチョコ色のスカートだった。

 付き合っていたのは高校生の間で、その頃からパンケーキは変わらない。甘美な呪文のような彼女の言葉に魅了されて絆されていたが、珠火への想いをごまかすための道具にしているような自分に嫌気が差して別れを切り出した。

 理由を聞いたパンケーキは引くでも起こるでもなく「頑張れ」、と。

 その応援の具体性は、こうして私がふらりと立ち寄れる場所と手間のかかった料理の提供によって示すつもりらしい。

 私の中でのパンケーキという存在は十重二十重に複雑なもので、「元カノ」だとか「美人」だとかそういう単語一つで定義できるものではないが、「得体が知れない」と「感謝している」が両立していることは確かだ。

 実際彼女に……惚れていたことは事実であるし、これでも若干警戒しつつではあるが心は開いているつもりではある。

 私とパンケーキはヤマアラシだが刺し違えることはなく、それでいて腹を向けないくらいがちょうどいいのだと思う。

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