『完全防水のモルグ』その④

「たまひっ、やめて」

 喉の奥を爪で撫でて、吐瀉物で温められた臼歯を数えて。

 こほっ、と赤色が飛び出す。 

 えづく。お姉を抱きしめて、首に手をかけ、力を込める。

 堰を切ったようにそれは溢れて、その度に私は、「かわいいよ」と心を押し付けた。

 あのお姉が私の胸の中でのた打ち回っているという自覚が頭を白く染めていき、やがて言葉ですら放出できなくなった感情に翻弄され意識が薄らいでいく。

 涙目で必死に笑って見せるお姉は、スポットライトの当たらない舞台下で私に謝罪するだけだった。



 長い間、閉じ込めていた記憶だった。

 回想できるのはそこまでで、後は竜子とアメリちゃん先生がなんとかしてくれたらしい。劇の代役も竜子ちゃんがやってくれたと後で教えてもらった。 

 歪んでしまった私達の関係はついこの間まで放置され続けて、いや違う。

 これは私が歪めて、私が放置した関係だ。

 話を切り出してからずっと続く沈黙を解いたのはお姉で、重苦しい空気を割るように大げさに首を振って、冷めてしまった紅茶を一口に飲み干した。

 「あれから、血を見るのが怖かった。当時の私は、自分は何でも出来ると疑いもせず。そういう傲慢を責められたんだと思っていたんだ。だからそれを見る度に胸が、こう。筵になったようで。一秒先のことも考えたくなくて」

 噎せたのか、軽く胸を叩く。

「私が思っていたことは、珠火の失望と、怒りを買ったんだなということだったよ。嫌われたんだと、ずっと考えて」

「それは私だってそうだった。私も、その場の感情に任せてお姉を傷つけて、直しようもない溝をけがいたんじゃないかって、ずっと」

 だからお姉の歓迎が怖かった。また昔のように、一緒にお姉と笑って過ごせる日々が訪れたことが怖かったのだ。

「私はっ」

 私は多分、お姉のことが大好きなんだと思う。 

 なにが、「私は、お姉が何を思って私の前から居なくなったのか、知らなくてはならないのかもしれない」だ「せめて、お姉の言葉で」だ。

 なんという自己中心的な思考か。

 結論はわかっていたはずだ。お姉に嫌われたくないし、きっとお姉は私のことを嫌いにならない。

 あんなふうに歪に出力された愛だって、どうか受け取ってくれるって。

 こんな自慰行為じみた言動に正当性を求めようとした自分が嫌になる。

 それはこの情緒の不安定さの自覚も、それだって許されると思っている自分の甘えも同様だ。

 唾棄すべき感情を吐露できるのか。いや、できない。

「……あのときの私は、何もわかってなかったんだよ。それがお姉を傷つけ続けていた、ほんと、ごめんなさい」

 あの感情は茨のようなもので紡がれて私の心臓からぶら下がっていて、それを引っ張り上げる気高さは私にはなかった。

 覆い隠す、包み隠す、偲び隠す。

 まだ生きていたいから。

「珠火が、まだ私のこと好きでいてくれて嬉しいよ。謝らないで」

「好きって、別にそういう訳じゃーー」

 しどろもどろになる私に、お姉がぎゅっと、ハグをした。

 お姉は小さいけれど、その命分の重みがしっかり感じられた。

「……結構恥ずかしいね。でもわたしがそうであるように、珠火も私が好きだと嬉しい。愛しているぜ」

 それは私が含有しているようなものじゃないだろうけど。

「うん」

 そう返事するには十分過ぎるくらい幸せだ。

「昔のことは、どうしても一人だと思い出したくないけどさ」

「うん」

「珠火との思い出話としてなら、すこし、笑える気がする。ーーそうだ」

 何か思い立ったのかお姉が立ち上がる。体温が私の胸から離れて、少しさみしい。

 寝室の方へ駆けていって、数分後。

「じゃ、じゃーん」

 戻ってきたお姉は私がこの間買ってきた、かわいいワンピースで身を固めていて。

「どうかな、似合う?」

 軽くターンしてふわりスカートがなびく。

 秋には少し寒いノースリーブから伸びる腕が綺麗だった。

「お姉、かわいいよ」

 感動を頭をくしゃくしゃに撫でて放出。

 するりと素直に、その言葉は出てくれた。

「そうだ珠火、これ食べよ」

 ワンピースに気を取られていたが、フレンチトーストの入った紙箱を持ってきていたらしい。

 お姉はそれをサイドテーブルに置いて、開く。

「はい珠火ちゃん、……あーんっ」

 トーストに小さなフォークを差して私の口の前に運んでくれる。

 少しためらって、でもその甘い香りに引かれて。

「い、いただきます」

 口いっぱいに甘さが広がる。

 パンを切り開く歯の感触がいやに鮮明に伝わる。

 欺瞞で開いた完全防水のモルグは、こういう希望を隠していたらしい。

 控えめに言って、最高の気分だった。

 それを捨てることなんてあるわけでもなく、私は一人感嘆した。

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