『完全防水のモルグ』その③

 お姉の顔が青ざめている。

 唇が震えている。

 不自然なほど呼吸が速い。というか息を吸えていないーー

 踏み出したステップがぎこちない。

 思考するより前に、反射で身体が動いていた。

「竜子っ、パス」

 邪魔な制服を投げ捨てて、駆けた。

 お姉の右脚が、左の踵を蹴飛ばす。

「お姉っ」

 階段から落下したお姉の手首を掴む。

 引っ張り上げたお姉の身体は存外軽く、力んだ身体ごとごと反動でふっ飛ばされた。

 跳ね上がって、真っ逆さまに落っこちたお姉を私の両腕が受け止める。

 叩きつけられた衝撃でもつれ合って転がって塔の柵にぶつかって止まって。

 擦り傷だらけのお姉が目を開いて、私を見つめてきた。

「ごめっ、たまひ」

 心なしか、少しほっとしたような表情になる。

 相変わらずちゃんと呼吸出来ていないようで、嗚咽混じりに息を吐くばかりだった。

 軽く背中をさすったりなどするがままならない。

 私は火照った身体を無理やり深呼吸で落ち着かせて、お姉を隠すために柵の影に引きずり込んだ。

 放送室のざわめきと混乱が聞こえる。観客の方はまだ事に気がついていないようで、竜子が機転を効かせて幕を下ろし、休憩時間だとアナウンスをしていた。

 まだ気がついていないということは少なくとも、お姉が落ちたわけではないらしいと判断したらしい。

 すぐにステージ内の照明が付いて、シャツ姿の竜子が駆け寄ってきた。

「氷室先輩、珠火。怪我はっ」

 とりあえず保健のアメリちゃん先生を呼んでくる。と連絡して保冷剤を手渡される。

 有能で助かった。

 目立った怪我はお姉が足首をひねっているのとあちこち打撲。緊急事態だったとはいえ私のせいだ。

 私とは言えば、肩と腰にあらぬ方向へ力を入れてしまったらしい。

 興奮していて感じにくいが動かす度に確かに、鈍く痛む。

 いずれにしても命に別状はないだろうが、正直動けそうにない。

 竜子に手近に「血は出てない。けど痛い」と伝えると、「了解、任せて」と力強い返事。

 怪我のことはとりあえず竜子に任せることにして、私はお姉を膝の上に倒して過呼吸の対応をした。

 水を飲ませるのも良いらしいが生憎、この場にはない。

「お姉、スーハースーハー」

 怯えてしがみつくお姉の、胸を擦って深呼吸を促す。

 しばらくそうして宥めて、時折咳き込む度にとんとん、と背中を軽く叩いた。

「ごめっ、ほんと……がっは、はぁ、はぁ、はぁ……ごめん。ふー、ぜぇ」

「いいから」

 溢れてしまった涎をシャツの袖で拭った。

 激しく上下していた胸も落ち着いてきて、私は少し安堵する。

「落ち着いたかな」

 かな。

 お姉は返事代わりにこくりと首を動かして、口を開く。

「ごめんなさい……ごめんなさい本当に、ごめんね。情けないお姉ちゃんで」

「お姉は情けなくなんかないよ」

 お姉が先導した光は間違いなく私達を照らしていた。だから、お姉はかっこいいんだ。

「私は、たまひーのことを」

 身構える。

 私がお姉にどう思われているのかということを考えたことはなかった。ただでさえ余裕がない思考が圧迫されて、とめどない。

「……」

 けれども姉の言葉は続かず、喉の振動は逆流した息によって妨げられる。

 えずくように喘いで、覚束ない呼吸と共に溢れ出た吐瀉物が私へぶち撒けられた。

「おぇっ、はっ、はぁ」

 場違いに鮮やかな血の色と、胃酸のどろどろとした匂いが叩きつけられる。

 ほとんど食べれていなかったのだろう。そう考えると身体が嫌に軽かったのにも合点が行った。

 一体いつから、お姉はここまで追い詰められていたのか。無為に寄せた期待で、私は何を見て見ぬふりをしてきたのか。

 一周回って冷静に、どこか達観したような気分になってお姉を観察する。

 背は、もうほとんど同じだろう。

 お姉が伸びていないわけでは無いが、それ以上に私が成長していた。

 二年という生まれのアドバンテージとはこうも脆弱なものなのか。

 そして誰からも頼りにされてきたお姉にとって、頼れるのは。

 甘えられるのは私しか居ないのだろう。

 だからこんなに怯えているのだ。お姉にとって、私以外のすべてはきっと味方じゃない。

 だからこんなに怯えているのだ。私にだって、本当はかっこいいところだけを抽出して、そうして振る舞いたかっただろうから。

「お姉が悪いんだよ」

 そう声に出てしまったのは。

 私の知る最強のお姉と、今私の胸の中で、緊張と混乱で吐いた姉が結びつかなかったからだろうか。

 お姉は私の何倍も強いし、口喧嘩でも暴力でも、私に負けたことなんてもちろん一度もなかった。だけれど今小動物のように震えているこの姉は。

 私を頼れなかったこの姉は。

「でも、かわいいよ」

 私自身の情けなさを棚上げして。

 そう、素直に思えた。

 力なく開いていた唇に触れる。

 ぐちゅ、と湿った音が骨を伝いに私に鳴って、お姉の頬が血に滲む。

 我に返って右手の指を見れば、その傷と同じ赤に染まっていた。

「ごめんなさい……ごめんなさいっ、ごめんなさいっ、ごめんなさいっ。でも、それでもーー」

 止められなかった。

 口蓋を、指で犯す。

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