『 Ignight』その③
お姉は、流石にもう帰ってしまっただろうか。
さっき携帯電話に写っていたが終電には間に合わなそうで、そうなると今夜はどこかで宿を見つけなくてはならない。
交番が交通費を貸してくれるという話は聞いたことあるが、宿代はどうなのだろうか。公園に、財布が届いていないか聞くにしたって明日になるだろうし。
パンケーキさんに借りるという手もあるが、お姉の友達とは言えほぼ初対面だ。
「おまたせ妹さん。先に言っておくとごめんね、音夢ちゃんも探すって言ってたんだけど、流石に電車があるうちに返したんだ。ホテル代くらいなら持ち合わせがあるからそこは安心してね。返さなくていいから」
私の思考を読み込んだように、先回りして提案される。
「……ありがとうございます」
ここで夜を明かすと幽霊になってしまうので、必然的にそれしかない。お姉の友達だし、流石に菓子折りなどをお礼に用意すべきだろう。
駅前まで送るよ、と先導されて中華街を進む。
パンケーキさんは勝手知ったるといった風にすいすいと。さっきまで迷路のようだと思っていた路地を抜けていって、私はそれにおっかなびっくり、ついて行く。
しばらくすると大通りに出て、街路樹の電飾と、雲間の星あかりが私を出迎えた。
つまり、来た道を戻ってきたということで。「あの、ここさっきの公園じゃ」
「そうだね。珠火ちゃん、ちゃんと見れてなかったでしょ」
見ていこうぜ。
嘯いて、両手を広げてこちらに振り向く。まるでこの光全てを自分が用意したとばかりだ。
そう誘われると、確かにほとんど楽しめていなかった。
せっかく、だし。
「見ていこうかな」
言うが早いか、パンケーキさんは私の手を取って公園を駆け出す。
ほんのりと手のひらに残っていた熱は体温に上書きされて、歩幅を合わせるために大股になるから、肺の中の空気が溜息になる前に吐き出されていく。
「見てよ珠火ちゃん。綺麗なもんだねぇ」
複雑にライトアップされた樹木には、鮮やかな模様が投影されアニメーションしている。
それを背景に幽霊の女の子が楽しく踊っていて可愛らしかった。
パンケーキさんは見上げながら薄い階段を下りて、噴水の前で軽くターン。右手で繋がっている私ごとやるものだから、結んできた髪が左右に揺れた。
「これ考えたの私の友達だからさ、案内するよ」
テントの入口をくぐって中に入る。
アクリルのケースで保護された作品たちが並ぶ通路を、ゆっくりと進んでいく。
あっちの傘のオブジェは傘の形をしてるだけで指すと絶対濡れるようになってて、実験でなんどもびしょびしょに。この蛇のガラス細工は3Dプリンターで出力したやつで研磨作業に何ヶ月も……と。多分作品解説に書きたくない感じの裏話までぽろぽろと零れていく。
白鳥は別に水面に浮くために特に苦労していないらしいが、人間が同じことをするにはだいぶもがいてっていうのが必要で。うまくいえないけどそういうのだ。
その中だと弦楽器にハンマーが巻き付いたような彫刻が気に入った。
寄木細工だそうで、美術鑑賞っぽいことを言うと周期的に並んでいる色の違う木材にメッセージ的ななにかがあるのだろうか。
とまあ、そんな感じでクローンの森美術館を見て回り、件のメルヘンに光るソファに腰掛けた。右側を空けてくれたので、そこに収まる。
もう深夜で人も捌けていて、残っているのは私達だけだった。
「どうかな珠火ちゃん。少しはすっきりした?」
パンケーキさんが首を傾げる。指を組んで、ぐぅーと肩を伸ばす。背が高いからか放りだした脚が細長くて綺麗である。
意識すると、パンケーキさんはとても綺麗な人だ。
それは言ってしまえば顔の造形が好みであるということでもあるし。
柔らかさを感じる、豊かなその、つまり……あれだ。
ともかくとしても、纏っている、柑橘類の優しい香りが心地よいということでもある。
その源泉であろうベレー帽の隙間から檸檬色の髪は、空気と遊んでいるようにふわふわと広がって降り注ぐ光を反射する。
それに見とれていて、「えっと、あ、はい」質問されたことに気がつくのが遅れてしまった。
「ありがとうございます。色々、案内してもらって。ほんと」
中華街の事も含めて。その上宿代まで出してもらおうというのだから、お世話になる立場とはいえ怖くなるくらいの善意だ。
「いいんだよぉ。気にしなくって。……ふむ」
私の方を、ぼぉっと眺めていたパンケーキさんが、何を思いついたのか私に抱きついてきた。
困惑して揺れる私を、逃さないとばかりに腕を回して。引き寄せられた私はそのまま、パンケーキさんの胸元に零れ落ちる。
「見てたでしょ」
こことか、と私の髪を撫でて、頬にそれを押し付けて指摘する。
私や、もちろんお姉にはない未知の感触で、なにか刺激が伝わるたびに身体が硬直して動けなくなる。
声は出ない。喉が震えてくれなかった。
「そんなに怖がらないでよ。怒ってるわけじゃないんだ」
そういうとパンケーキさんは尖らせた唇を近づけて、そっと。
私の頬に触れた。
「ふ、ふぇっ」
私に覆いかぶさり、力の入らない右手を掴んで彼女の胸を掴ませる。
温かくて、柔らかくて、そしてーー
反射的に彼女を突き放す。飛び退いて、腰が抜けたように気が抜けた。
指が感触を再現しようと、反芻するように揺れ動く。
温もりを感じたその先に触れたものを思い出そうとするたびに、心臓にヒビが入ったような痛みが走った。
頭が理解を拒んでいるのか、身体の神経がどうかしてしまったのか。
いずれにしても私は息を荒げて、まな板の上の鯉のように無防備でいるしか出来なかった。
「好きなんだ、こーゆーの」
音が消えた。両耳を、手のひらで塞がれたらしいというのを遅れて理解する。
パンケーキさんの甘い声が、水の中にいるかのように、意味を伴わずくぐもったようにしか聞こえなくなる。
もちもちした指が私の耳たぶの上でわちゃわちゃと踊り、その音が手のひらの空間の中で反響して、耳の中で溢れた。
「そりゃっ、嫌いじゃあ」
私は、何を言っているんだ。
わからない。わからないままグズグズと脳の、芯のようなものが溶けていく。
ため息というよりも嘆息に近い、呼吸音は湿り気を帯びていて否が応でもこれから起きることに期待させられているのだ。
震える口内を食い縛って、やめてと小さく零す。組み伏せられて抜け出せるはずもない身体をよじって、そういう風に。あくまでも抵抗する私にきらきらした瞳を向けて。
「私も好きなんだぁ。……おねだり上手だね」
月光を浴びるように一度、髪の毛を掻き上げる。
来ると分かって反射的に瞳を閉じた。
唇を奪われる。
熱い舌が前歯を絡め取って開口させ、私の舌を優しく撫でた。
呼吸が止まる。頭のてっぺんから血の気が引いたようになって、脳味噌は、口蓋で撥ねる水音を反響させるだけだった。
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