『Not ice me』その⑤
爬虫類館を出てからの珠火ちゃんは少し内股気味で、そして動きが固くてぎこちない。今日は暖かいから手から伝わる震えは寒さのせいではないだろう。
その原因は、同じように不規則に揺らぐ私の心臓に尋ねればわかりそうだった。
少し進むと、ライオン舎の前に出る。
無軌道に進んでいた足跡は、気づいた頃にはベンチの前を通り過ぎて、今更引き返すには億劫なくらいの距離離れてしまった。
突き当りまでたどり着いて、少し迷い下へ続く道を選ぶ。上へ行くと出口だ。
木漏れ日もあまり届かない暗がりに、ぽつりぽつりと足を踏み出す。
一歩踏みしめるたびに、胃の底に深く潜るような鈍痛が渦巻く。
「顔色、悪いけど調子悪い? お姉外出慣れしてないし、やっぱりイルミネーションは今度にしてもう帰ってもいいよ」
「そう、いや……大丈夫。うん、大丈夫だよ」
言われて、左手で携帯電話を操作して自分の顔を見つめる。
半笑いの口元が歪で、目元は泣いた後みたいなぐずぐずになっている。その他部位によってバラバラの感情になってるのも相まってほぼ病人である。
端的に言って酷い顔だ。
「うわっ」
歩幅の違いから、先に進んでいた珠火ちゃんに引っ張られる。反動で、坂道が付けた助走に抗えず、とっさに握りしめてしまった腕は珠火ちゃんを巻き込んで脚がもつれて弾かれるように前へ倒れ込んだ。
意図せずともひだまりの下に引きずり出される。
ほんのりと朱に色づいた冬の夕日を浴びて、珠火ちゃんの髪が艷やかに反射する。
この焦燥感を煽る日の色が、昔から大嫌いだった。
何かに置いていかれそうな、自分の知らないところで物語が幕引かれそうな、そんな感じがして。
「こっ、ごめんね。重いよね」
珠火ちゃんのお腹の上に投げ出されるような形になっていて、半端に受け身を取った右腕をそこからどかす。もう少し背があったらもっといい場所を掴めたのかなと、そう思ったのは内緒だ。
「お姉は小さい、いや軽いし平気」
先に立ち上がった珠火ちゃんがすました顔で嘯く。言葉通り特に怪我もしていないようで、安心した。
視線を感じて見上げると、ドタバタ騒いだからかそこの柵からキリンが顔を出してこちらを見ていた。
なんとなくその瞳にお辞儀して、坂の下に立つ珠火ちゃんに向き合う。
気管支に何かがつっかえたような違和感が消えない。それは珠火ちゃんの方を見ると強く自覚できて、多分、危機感や焦燥感やらが実態を持って私に警告しているのだろう。
「伝えたいことを伝えられないまま、お前はまた珠火から離れるのか」、とでも。
つまり今日が終わったら、珠火ちゃんは私の家から居なくなってしまう。私の側を離れてしまう。たかが駅一つ分、たかが数キロといえどその距離はーー。
「遠いな」
そう、遠い。
こんな灰に塗れて転がって生きてきた性根で、腐りきった心でたどり着ける場所じゃない。
だからそれが、私にとっての十二時だ。
「あの、あのね珠火ちゃん。少し待ってて。今、書き上げるから」
リュックサックからスケッチブックを取り出して、地面に座り込む。
体育座りにした膝の上にそれを乗せて、私は感情を綴った。
紙を擦る音が、黒鉛の擦れた匂いが、私の感情を加工して、ちょうど良く素敵にしてくれる。
さっき擦りむいた手の平の薄皮が剥がれて、そこから血が滲む。
それが紙につかないように、目を瞑って舐め取って。
ハンカチをスケッチブックと手の間に挟んで止める。
長くは、待たせられない。この感情を待たせてもいけない。
一秒先なんてわからないけれど、この思いを珠火ちゃんに届けるために。
私は鉛筆を走らせた。
突然地面に座り込んだかと思えば、スケッチブックに何かを描き始めた。
昔からお姉はよく文字や絵を描く方だったからか、鉛筆の動きにあまり迷いはない。
それは良いのだけれど、体育座りをするものだから、中が見えないように変な足の組み方をしているせいでミニスカートがしわくちゃに揉まれている。帰ったらアイロン必死だ。
それから、三十分くらいしただろうか。ぴょこぴょこ動くお姉は見ていて飽きず、たまにキリンとにらめっこしたりなどしていると、「出来たっ。珠火ちゃん、出来た」お姉が顔を上げた。
背を預けていた柵から身体を起こしてお姉に向き直る。お姉はスケッチブックを両手に抱えて足が痺れたのかゆっくりと立ち上がった。
「つ、拙いけど。これは、手紙です」
スケッチブックに視線を落として、震える唇を開いた。
「拝啓 珠火ちゃんへ
今日は、一緒に動物園に遊びに来てくれてありがとうございます。
なんで連れてきたかというと、私はずっと珠火ちゃんに言いたいことがあって、でも踏みとどまってしまう事が多くて、うまく言葉に出来なくて。
だからこうして、私の気持ちを整理して、手紙にして届けます。
私が書いて、それで、私が直接読むし口語だしあんまり手紙ではないかもしれないけど、これは私の精一杯の気持ちです。
受けとってくれるとうれしいな。
昔の私はひどく傲慢で、自分に出来ないことなんて無いんだと思っていました。実際、色々なことをやったし、勇気と無謀を履き違えて、それがあの日に繋がったんだと思う。
私は、駄目な人間です。駄目な姉です。
珠火ちゃんが喜んでくれるからってそれだけで、周りへの負担とか自分の能力とか、そういうのから全部顔を背けて、好き勝手にやっていただけでした。
それでも、私は珠火ちゃんが好きで。すごく、大好きです。
だからそんな愛しの妹の為に、私は不器用でもがむしゃらでも、昔のように何でも出来るお姉ちゃんを目指してみます。
本当に、本当にがんばります。ちゃんと自分に向き合って、もう逃げません。
だからどうか、どうか。
こんな駄目な姉でもよければ、これからも一緒に居てください。
あなたの、お姉ちゃんより」
朗読を終えて、お姉は不安そうに私の返事を待つ。お姉が、私のことを好きと言ってくれて。逃げずに、私と向き合うと約束してくれて。そのうるうるとした瞳が愛おしくて。
だから。
「バカお姉っ、居るよ。一緒に居るよ」
気高く、私に踏み出してきたお姉を抱擁する。小さい背中に腕を回して、私の胸の中にすっぽりと収まるそれを優しく叩いた。
お姉もそれに答えるように、私の腰を撫でた。
弱々しくて、布越しでは本当に微弱にしか感じられないけれど、その儚い優しさがそっと心に染み入る。
スケッチブックは壊さないように、汚さないようにリュックサックの奥に仕舞う。
「珠火ちゃん、ごめん」
始めは、さっきの手紙のこととかなのだろうかと捉えていたそれが勘違いだということは、数秒後に否が応でも自覚させられた。
唇を結んだお姉が顔を私に近づけて、反射的に瞳を閉じると。
一瞬して頬に一閃、やわらかい感触が伝わってくる。
「えっ、何」
戸惑う私に構わず、もう一度お姉は私の胸に顔をうずめて、頬ずりをする。
そして力が抜けたのか、その場で崩れ落ちてしまった。
その感触を確かめるように頬を撫でると、指の触れた一部分だけが湿っていて。
お姉の赤面した、恥じる表情から察するにこれは「お姉その……キス、したよね」
私の、ほっぺたに。
指摘するとお姉は顔から火が出て俯き、私の足をつかんだまま動かなくなった。
「ごめ、ごめんなさい。私、わたっ、私はーー」
泣きじゃくっているお姉の頭は不規則な呼吸に合わせて動いて、ぼさぼさの髪を揺らしている。私はその一房をすくって、ぽんぽんと頭を撫でた。
「いいよ。少し、恥ずかしかったけれど。立てる?」
「腰がね、腰が、抜けちゃって。ちょっと呼吸も、落ち着かなくてっ」
あんなこと言ったばかりなのに、と口では言うものの。
その両手は正直に私を求めていた。
引っ張ってあげようとつかもうとして、脳裏にいたずらごころがよぎる。
左手を無防備な脇に、両のふとももに右手を伸ばして、「ふぇ、え?」と困惑するお姉を無視し抱き上げる。
いわゆる、お姫様だっこというやつだ。
小さいから簡単に抱けた。
「珠火ちゃん? 恥ずかしい……」
消え入りそうな声で鳴くお姉がかわいい。さっきのキスの、仕返しだ。
乙女の純情は安くないぞ。
あんなかっこいいことをされては、私も無様なほどに期待してしまうというものだ。
歩き始めるとお姉も観念して、私の腕に捕まるように丸くなる。
「お姉、今日は楽しかったよ」
「……イルミネーション、も。すっごく綺麗だったから楽しみにしてて」
もちろん。お姉がまた、私を連れ出してくれるならどこへでも。
眩しすぎた太陽はもう地平へ沈もうとしていて、柔らかい斜陽に背中を押されながら出口へと向かう。
ああ、吐息がこんなに白いのは。きっと。
肌で感じるお姉が、暖かいからだ。
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