第32話
議事堂近くの正門広場では、運動部たちがトレーニングをしている。
サッカー部の
右へ左へ。ボールを巧みにコントロールしながら敵陣を突破する。
彼の頭には仮想敵が見えているのだろう。たまにフェイントを入れていた。
そんな彼を
俺なら練習の邪魔になるから遠くへ行ってもらう。
しかし、
集中力が高いのか、それとも眼中にないのか、どちらだろう。
陸上部の
ときおりフォームを確認しながら何本も走りこんでいた。
そんな彼女を
彼女の胸が動くたびに、彼の瞳も揺れ動く。
鼻の下をデレっと伸ばした情けない顔は、見ていて不愉快だ。
この気持ちは同族嫌悪かもしれない。
けれど俺ならば表情コントロールができるので、締まらない表情など他人に見せはしないのだ。
拳や蹴りをくりだすたびにボフッボフッっと風切り音が鳴る。
そんな彼を
アキレス腱を伸ばしながらチラ見。
もも上げをしながらチラ見。
クラウチングスタートのポーズのままガン見。
筋肉フェチにも程があるだろう。
新体操部の
立った状態で片足を開く。
足は真横の位置を通過し、Y字バランス。さらに足は天を指し、I字バランスになる。
そのまま体を前に倒しつつ背中をそらす。
あげている足を背中越しに両手でつかむ。その姿は横から見ると数字の9に見える。
信じられないほどの体の柔らかさだ。
そんな彼女を
え? アイツ、
隠れファンが大勢いるのはしっていたが、よりによってアイツかよ。
その姿を議事堂の影から
頭の上から小さなハートがプカプカ浮いているような、恋愛ボケしただらしない表情だ。
「ぅおいっ!!」
「ひやぁいっ!!」
彼女は突然声をかけられ、ひどく驚いている。
「に、
「いつになったら
「心の準備ができてからどす」
なぜかムスッとした。
「声をかける勇気がないんだろ」
「おっきなお世話どす」
「そんな、奥手なキミに助っ人を用意した。先生よろしくお願いします」
「うむぅ」
俺の背後にいた
「
「ワシは儀保ではない、脳筋博士じゃ」
役になりきっている。
「遠征に出発する前、脳筋博士にはあるミッションをお願いしていたのだ。それは
「
「勘違いするでなぁ~い。あの野球バカから根掘り葉掘り聞き出す作戦じゃ」
「ああ……」
なぜか彼女は残念そうだ。
「ワシは脳筋博士。野球バカのことならなんでも知っておる。遠慮なく聞くがよい」
「彼はホモですか?」
「最初の質問がソレかよ!」
思わずツッコミを入れてしまった。
「だって、
彼女は頬を染め、両手の指をからめてモジモジした。
「どうですか脳筋博士」
「うむぅ。限りなく黒に近いグレーじゃ」
「やっぱり!」
「じゃが安心するがよい。まだ一線は超えておらぬ」
「好きな人はおるんどすか?」
「いないぞ。アイツは野球しか愛せないバカじゃ」
「好きな女性のタイプは?」
「あえていうならボール。そもそも女性に興味がないのじゃ」
「あぁ……」
彼女は悲しそうな表情になった。
「脳筋博士、彼女の恋を実らせるにはどうすればいいでしょうか」
「うむぅ。野球バカの価値観を塗り替えるのじゃ」
「どのように?」
「あのバカがなぜ野球に打ち込むか知っておるか」
「甲子園に出場するんが夢とちがうんどすか?」
彼女は小首をかしげた。
「そこは通過点にすぎぬ。ヤツはかっこいい大人になりたいそうじゃ」
「もやっとした答えですね」と言いながら俺は腕組みをして考える。
「バカだからな。小さいころに見た野球選手がかっこよかったそうじゃ。選手の名前は……忘れた。――じゃからバカの記憶にあるカッコよさを塗り替えてやるのじゃ」
「おぉ~っ」
「ワシに良いアイデアがある。
彼女はゴクリと唾を飲み込んだ。
「
「その心意気、良し! ついてまいれ」
△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼
ここは
なので床には畳が敷かれている。
家具を置いていないガランとした室内。
部屋と言うよりは部室に近い。
「いいから入れって」
外から
ドアが開くと
そんな彼を出迎えたのは着物を着た
大会に出場するくらい気合の入った振袖姿だ。
「おいでやす」
「えっ?」
彼は困惑し、顔をひきつらせている。
「どうぞお上がりください」
「どういうことだ?」
「百人一首に興味をもってもらうのが今回の催しだ」
「かるたに興味はないぞ」
「
「ないが」
「そうか。ならいい機会だ、じっくり見ていけよ」
彼の前に振袖を着た
窓から差し込む光が艶やかな着物を優しく照らす。
着物を間近で見るなんて、おそらく正月の初詣くらいだろう。
非日常感は否が応でも彼の精神を刺激する。
彼女はヒモを取り出すと、たすきがけをして振袖が暴れないよう体に固定した。
俺と
いつもは下ろしているストレートのロングヘアは、運動の邪魔にならないようポニーテールにしている。
「読手は俺がやる。歌を詠み始めたら
俺は二人にそう告げる。
彼女は
「一枚なのか?」
「ああ。
「余裕だ」
速球という言葉に反応した。やはり脳筋バカだ。
肩を回し、やる気を見せている。
「詠むぞ。き――」
タン――。
彼が手を出そうとした
彼女は飛ばした
「は?」
「遅いぞ野球部。それじゃあエラーだ」
「いやまて、反則だ」
「競技かるたでは先に
「それを先に言え」
こんどは
「『わが』と『ころも』で始まる
本来ならば、詠まれた
なので俺は、彼女が置いた
「なるほど、これはおもしろいな」
彼は愉快そうにニヤリと笑うと、少しだけ身を乗り出す。
乗り気になってきたようだ。
「詠むぞ。こ――」
彼が畳に触れる前に、
「凄いな」
彼は彼女のテクニックに
スポーツ選手の好プレーを見る子供の目だ。
俺はわざとらしく大きな
「遅い、遅すぎる。やはり野球部ではかるた部には勝てないか」
「いや練習すれば取れるようになる」
彼は少しムッとした。やはり野球部をバカにされるのは許せないのだろう。
「へぇ~っ、練習ねぇ~っ。野球じゃあ百本ノックがあるよな」
「ああ」
「百本かるたをするか」
「は?」
「今の要領で百枚連続で取るんだよ」
「なるほど、いいな!」
やはり脳筋バカは練習が大好きだ。目を輝かせている。
「百本ノックを途中で止めるなんてありえないよな」
「もちろんだ、血反吐を吐いてでも取りつづける」
「よし、何があっても途中てとめるなよ」
「おう!」
百本かるたが開始された――。
練習の邪魔が入らないよう見張りをするためだ。
取るたびに補充し、つねに四枚置く。
いち枚、またいち枚と
彼女は息が荒くなっていた。
「はぁはぁはぁ」
「凄いな
「お喋りしている暇はないぞ。次――」
弾き飛ばした
なので、ほとんど彼女が拾っている。
重い振袖を着て、立ったり座ったりを繰り返す。
額から噴き出た汗は、首筋をとおり、胸の谷間に流れ込む。
その光景を彼はずっと見ていた。
帯がゆるみ、前がはだける。
もちろんこれはわざとだ。
本来ならばヒモできつく縛っているので着物が着崩れることはない。
俺は彼女の後ろに立っているので、はだけている姿は見えない。
それに、
彼だけが、そのあられもない姿を見ることを許されている。
「おい
「集中しろ
「ぐっ……」
生半可な方法では彼の頭から野球を消すなんて無理だ。
それこそ度肝を抜く体験じゃないと彼の思い出に割り込めない。
もし誘惑しようと彼の前で裸になっても痴女扱いされるだけ。
ならば彼が逃げ出さないよう、かつ大胆な行動が必然となるシチュエーションを用意する。
これが
俺は札を次々と詠んでいく。
なぜか、途中から彼は札を取らなくなった。
いや動けないのだ。
彼は目を閉じ、横をむいている。
「目をそらすな
「だが!」
「百本ノックはひとりで行なうのか? バッターがいるんだろ? オマエは辛いからといってバッターから目をそらすのか! 打ってくれる人への感謝の気持ちはないのか!」
「ある!」
彼は目を開き、練習相手を見た。
着物の下がどのような姿なのか俺は聞いていない。
だが、彼の反応から察するに、凄い姿なのは想像できる。
彼の脳裏には強烈なイメージとして今日の思いでが記録されるはずだ。
それこそ、練習中に思い出すくらいに。
俺は百枚目の札を詠み終えた。
彼女はフラフラしながら最後の札を取る。
すると、そのまま畳のうえにつっぷしてしまった。
「おい!
競技かるたでは五十枚しか試合で使用しない。のこる五十枚は
けれど今回は百枚を休憩なしで通した。
この練習は彼女も初体験にちがいない。
俺は畳のうえに小瓶を置いた。
「
「これ、どーすんだよ」
「オマエが看病してやれ」
「はあっ?」
「彼女がどうしてそこまで頑張ったのか、少しは考えてやれよ」
ここから先は二人次第だ。
がんばれ――。
おっと、【恋愛対象】に
もしかすると二人の関係が進展するかもしれないのだから。
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