煩悩しか勝たん
「いっち、に。いっち、に」
新年になって五日目。
ゆっくりと自転車を漕ぐ俺の前で太ももを高く上げて走るのはほかでもない、妹の
「ほら文! ペース落ちてるぞー! 餅の分のカロリー消費するんじゃなかったのか〜」
「も、もー無理〜はぁ、はぁ」
文が立ち止まり膝に左手をついて頬に滴る汗を右の袖で拭った。俺はペダルを漕ぐのを止め、惰性で隣まで進んでからブレーキを掛ける。
「今年は煩悩に負けないで正月太りしないって言出だしてから一週間も経ってないぞ」
「うぅ~、そうだけど」
文は背を伸ばすと上着のファスナーを下ろし、白色のシャツを露わにさせた。汗でシャツが張り付いているため、二つの手のひらほどの膨らみやその下のくびれなどの身体のラインが出る。それらを見てもダイエットが必要とは思えないが、文が煩悩に弱いというのは事実だ。
「あー! お兄ちゃん目線がなんかヤラシイ!」
「バカお前、誰がお前をヤラシイ目で見るか!」
「えー?」
文は自分の体を抱きしめると身体をくねらせた。
「それはそれでショックなんだけどー。ちょっとくらいなら女の子として意識してもいいんだよ?」
「妹を女の子として意識してたら問題だろ!」
「ほんとぉ〜?」
文を恋愛の対象として見ていないのは事実だが、とはいえ、文は俺の前では圧倒的に無防備だ。そのためつい、ちらっと胸元などをみてしまうことがしばしばある。
だがそれは年の近い妹を持つ健全な男子なら仕方のないことだ。
きっと。
おそらく。
「お兄ちゃんなら、イタズラしてきてもいいよ?」
「ゲホッ! ゴホッ! ……何を言い出すんだ!」
「想像した? お兄ちゃんやーらしいー」
「ん、んん」
小悪魔のような笑みを浮かべる文を横目に咳払いをして誤魔化そうとした。
「お兄ちゃんも結構、煩悩に弱いよね」
文のその言葉に、本能的に兄としての威厳を失いそうだと察した俺は、俺は文より一年大人なのだと分からせるために、文のシャツを引っ張り上げて手を入れ、お腹を撫で回してやった。
「ひゃ! わ! あう!」
「そんなこと言う奴はこうだ!」
「せ、セクハラー! セクハラだよ!」
「ああ! セクハラだ!」
「開き直っちゃった!?」
「ほうら、次は胸だ! セクハラされたくなければ走るんだな!」
「ちょ、ええ!? 待ってよ! まだ休ませてー! ひーん!」
俺は心を鬼にして、悲鳴を上げながら走る文を自転車で追いかけた。
町内一周を終えてから、兄としての威厳が失われる行為だった気がしてきたが、後の祭りだった。
だが諦めるのはまだ早い。ここは優しくしてやる作戦だ。
公園のベンチで休んでいる文を労ってやろう。そう思い、自動販売機で文の好きなお汁粉を購入して文の方へ歩を進めた。
「文」
「ま、まだ走れって言わないよね?」
少し涙目になっていた。
「あ、ああ。言わない。胸触ったのは悪かったから泣き止んでくれよ」
「ううん。お兄ちゃんならおっぱいくらい触ってもいいけど」
文はそこで言い淀んだ。
というか、いいのかよ。
我が妹ながらセーフラインがわからん。
疑問に思いつつ、続きを尋ねた。
「けど?」
「走るの辛い」
文は煩悩に弱い以前に、根性が足りないようだ。
「まったく」
俺は呆れつつお汁粉のスチール缶を差し出した。
「ほらこれやるから元気出せ」
「わーい。お兄ちゃん好き〜!」
「現金な奴だな」
「えー? 文はいつでもお兄ちゃんのこと好きだよ〜?」
満面の笑みで恥ずかしげもなくそんなことを言い、プルトップの蓋を開けて飲みだした。
そして飲みきってから、
「あーーーー!!」
と、何かに気づいたように大声を上げた。
「ど、どうした!!」
「これ飲んだら今日走ったのプラマイ0じゃん!」
「あ、言われてみれば」
「ちなみになんだけどお兄ちゃん。むしろマイナスになったりなんてことは?」
「ないと思うぞ」
「あ、はい」
文はとたんに真顔になり、
「お兄ちゃんに泣かされそう」
不名誉なことをボソリと呟いた。
「わー、泣くな泣くな! コウナッタラとことん運動に付き合ってやるから! な?」
「ほんと?」
「ああ」
「じゃあ、夜の運動、付き合ってね。約束だよ?」
上目遣いの妹のお願いに、イエスとしか答えられなかった。
※
夜。
薄着で俺の部屋にやってきた文は、夜の運動が始まってからまだ五分も経っていないのに、足腰が生まれたての子鹿のようにぷるぷる震えだした。
それにしても運動に「夜の」とつけるだけで少しいやらしい気がするのはなぜだろう。
直前のやり取りのせいで一瞬、もしかして文はそういうつもりで言っているのか? とも思ったが、冷静になって考えればそんなわけがないという結論に至った。
しかし現実は微妙なラインだった。
「ふっ、はぁ。お兄ーちゃ、ん。あと、どの、くらい?」
息は荒く汗を垂らし、頬は紅潮している。薄手の生地の白いシャツは身体に張り付いて、少し官能的だ。
但し、文が空気イスでトレーニング中でなければの話だが。
どういう気持ちになればいいのか分からないことが煩悩に負けていることの証なのだろうか。そんなことを考えながら、
「あと十一分だ」
真顔で文に告げた。
〈煩悩しか勝たん・終〉
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