シナモン薫るアップルパイ③
「これは……少々困った事態になりましたね」
ロゼが警戒するようにあたりを見渡した。うさぎ(ノルではないほう)を追って森の奥へ来たのはよかった。しかしうっかり結界の境を超えて魔獣が住まうという森の最奥まで来てしまった。ロゼは手で口元を覆って、足先のノルに声をかけた。
「すごい瘴気ですね。はやく出たほうがいいかもしれません。戻りますよ、ノルさん」
「お、おう……そうだな」
「ノルさん?」
「いや、大丈夫。ちょっと……な」
へたりこむノル。いつも以上に耳が垂れて、わずかに呼吸も荒い。
(そうでした)
ノルはただの可愛いうさぎではない。星霊だ。いわゆる精なるものの類。彼らにこういった空気は悪いのだった。
「ノルさん、ちょっと失礼しますよ」
「おう。悪いな」
ロゼはノルを地面からすくいあげると腕に抱えて、呪文をひとつ唱えた。
「『─────────』」
それは特殊な言語。おそよノルにも聴き取れないであろう言葉で彼女がつぶやくと、ロゼのまわりを薄い霧が覆った。
「さて、いまのうちに」
小さな炎を杖に宿す。闇が広がる深い森のなかを白霧にまぎれてロゼはその場をあとにした。
◇ ◇ ◇
「はー、疲れましたー」
へたりこむロゼの隣でノルがぐったりとしながら耳を垂らした。
「ったく……どこぞの誰かさんが、うさぎなんか追いかけるから……」
「いや、追いかけようっていったの、ノルさんなのですが?」
ロゼは小さく息を吐いた。ノルのおかげで余計な魔力を使ってしまった。ロゼも魔導師の端くれだ。魔法のひとつやふたつは使えるが、発動させればそれなりに
「甘い匂いがする……」
「甘い?」
「ああ、すこしぴりっとする香りも混ざっているな。ほれ、お前が今朝、食後にいれていたやつ」
「珈琲ですか?」
ロゼが首をめぐらせてあたりをきょろきょろすると、一本の細長い木を見つけた。つるりとした緑の葉が生い茂り、幹の表面も滑らかな土色だ。近づいてみるとそれがある香辛料の原木だと気がついた。
「あれ? これって……ニケの木じゃ」
「ニケ?」
ノルが首をかしげる横で、ロゼは木の幹に手を触れた。
「ほら、珈琲にかけようとした茶色の粉。この木を加工するとあれになるんです。シナモンパウダーというやつですね」
「ほー。これが……」
そこでロゼはぴんときた。
「あ、もしかして。魔導師団長さまが見たというルナの葉の近縁種というのはこれでは……? ほら、いただいた地図の位置的にも、たぶんこのへんでしょうし」
懐から地図を取り出し広げると、やはりこの木で間違いないなさそうだ。ノルが目をぱちぱちしてロゼを見上げている。
「そうなのか? だったら、こいつを持ち帰ればいいってことか。やったな、ロゼ。俺の鼻に感謝だな」
「いえ。それが、残念ながらニケの木とルナの木は関係ないものでして……。持ち帰ったとしても魔導師団長さまが求めていらっしゃるものではないかと……」
「まじで?」
「まじです」
がっくりと肩を落としてロゼが返すと、ノルが木の根元を前足で小突いた。
「でもよ、金貨五枚の依頼だろ? 取っていって黙って渡せばいいんじゃねぇの? あちらさんは、これがそのルナの木の仲間の木だって信じてるわけだし」
「ふむ……」
たしかに一理ある。少々後ろめたい気持ちも出るが、金貨五枚。ちょっと真実を黙っているくらいいいのでは……?
「それもそうですね」
ロゼは気持ちを切り替え、あっさり頷いた。ノルが「へ?」という目で彼女をみあげた。
「え? まじで?」
「え? ノルさんが言ったんじゃ」
「いやいやいや。俺に責任押しつけるなよ。依頼と違うもん渡してバレたら、お前の信用問題になるだろ」
「大丈夫ですよ。魔導師団長さまから受けた依頼は、ニアの森の一角にあるルナの木の近縁種の葉を採取してくること。そして、指定の場所にあったのはニケの木。ほら、ちゃんと頼まれた通りです」
「うーん……? 微妙に違うような……」
首を曲げるノルに、ロゼはがっくりと肩を落とした。
「……なんて、冗談ですよ。とりあえず取るだけとって帰りますが、ペリードさんには正直にお話します。おそらく報酬は減額もしくは無しにされるでしょうが、それは仕方がありません。もしも先方がルナの葉を取ってこいといえば、今度は登山するしかないですね」
「山のぼりか。それはそれでいいんじゃないか? 俺、山好きだぜ」
「うさぎさんですもんね。わたしは湖のほうがいいです」
「お、じゃあ今度ハイキングにでも行くか? お前の好きなアップルパイ持って」
「アップルパイ……金貨五枚もあったら、いっぱい買えたのに……」
「え、そこで落ちこむの?」
「ノルさんだって、それだけあれば人参いっぱい食べられましたよ? それはもう食べきれないくらいに」
「いや別に人参は銅貨でも買えるだろ。五枚も出せば十本は食えるし、それでいいけど」
「む。ノルさんの裏切り者。そういう意地悪を言うなら、しばらく人参を食卓にはのぼらせませんよ」
「まさかの飛び火」
拗ねるなよーと、しょぼくれた声でつぶやくノルを無視してロゼは葉っぱを摘んだ。ついでに木の皮もすこし剥いで持ち帰る。
「さてと、帰りますか」
「だな……」
徒労に終わったルナの葉探し。ロゼは純粋に疲れから、ノルは人参なしの衝撃から。来たときよりも、どっと疲れて、ふたりは足を引きずる想いで王都へと戻った。
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