第五章 第五話
それは、あまりにも珍しい光景だった。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……」
アデライーダが肩で息をしている。依然として彼女の身体には傷一つないが……着衣は明確に汚れているどころか、ところどころには破け始めた形跡すらあった。大魔王が、常人でも見て分かるほどに消耗している。
周囲に不自然な形で広がる更地と穴、その全てが黄金竜のブレスによるもの。アデライーダは必死にそれを避け続けていた。今の彼女では、直撃を受ければ耐えられる保証はない。
「フフフ……」
防戦一方のアデライーダを、黄金竜は嘲笑った。その身体は無傷。鱗一つの欠けすらない。
彼にとっては分かりきった結果である。万全な状態ならともかく、今のアデライーダは本来の力の一割すら出せはしないのだ。そこまで弱体化した相手に遅れを取るような黄金竜ではなかった。
――とはいえ、あまり遊んでいる余裕もありませんか。
黄金竜は内心で呟いた。彼が悩んでいるのは、大魔王との戦いではない。王都で暴れている配下の状況だ。アデライーダ以外の呪詛は再解除されていることは黄金竜も把握している。見立てでは王都の戦況は五分五分、予想以上に人間たちが粘りを見せていた。
そしてアデライーダもまた防戦一方ではあるが……致命傷は尽く回避している。周辺の地形が変わるほどまでブレスを放っているというのに、未だに直撃は一度もないのだ。
黄金竜としてはこのまま持久戦に持ち込んでも問題はないが、いつアデライーダを倒せるのかはわからない。下手をすれば、何日もこの戦いが続くこともあり得る……魔王の戦いとはそういうものである。
――ただでさえ精鋭を使い捨てたというのに、これ以上の損失はよろしくない。早々に片付けて、私自ら王都へと進軍するとしましょう。
そう決意をするや、黄金竜は大きく口を開いた。その口に宿るものは、ありとあらゆるものを消失させる不可視のブレス。
今までと同じくアデライーダは横へ跳んで回避したが、やはり次々にブレスが連続して放たれていく。木々が消し飛んで荒野となり、荒野には巨大な穴が開く。その全てをアデライーダは避けて走る。これもまた、今までと同じ。
だが、異なる点が一つあった。アデライーダが黄金竜に接近し始めているのだ。今までは黄金竜が一方的にブレスを乱射し、アデライーダはそれを回避するのに手一杯だった。しかし今回の攻防では、アデライーダは回避しながらも黄金竜との間合いを詰めている。ブレスの射線を見切り始めたかのように。
――ようやく活路を見出した、とでも思っているのでしょうが。
もっとも、実際には違う。黄金竜が意図的に隙を見せているのだ。
ブレスを掻い潜って迫るアデライーダに対し、黄金竜は空へと逃れなかった。その場に踏みとどまったまま、尾を使った一撃を繰り出す。大地を砕く威力で振るわれる黄金の尾、その先端を聖剣が斬り捨てた。この戦いにおいてようやくアデライーダが与えた一撃を見て……黄金竜が笑った。
「傷つけましたねぇ? この私を!」
黄金竜は、戦争において部下を傷つけられたという理由で呪詛を成立させる魔王だ。その黄金竜が、自分自身を傷つけられるとどうなるのか?
答えは、明確だ。
【止まりなさい】
黄金竜の身体を負傷させることは、負債の発生。つまりは、新たな呪詛を与える要因となりうる。黄金竜はわざと尾を斬らせたのだ。ただでさえ呪詛で雁字搦めのアデライーダに、さらなる呪詛を追加するために。
もっともこれで大魔王が完全に動けなくなるとは、黄金竜も思ってはいない。だが数秒の隙は生まれるはずだ。その隙にブレスを撃ち込めばよい――そう思いながら口を開いた黄金竜は、ふとアデライーダの姿に違和感を覚えた。
彼女が持っていたはずの聖剣が、ない。
尾を斬られる痛みを前提として動いたがために、かえって黄金竜は気付くのが遅れた。黄金の尾は斬られただけではない。尾の根元近く……つまり黄金竜の身体に、聖剣が突き刺さっている。
黄金竜には、致命的な誤解があった。アデライーダが力を奪われているのは呪詛によるもので、聖剣はその呪詛を弱めるものでしかない……と黄金竜は考えていた。己の呪詛に自信を持つ彼にとっては当然の、だが今の状況においては致命的な誤解。
黄金竜は知らない。魔女アラディアが創り上げた聖剣は、黄金竜による支配の中で魔を憎んだことを。例え大魔王アデライーダでも、所持しているだけで力のほとんどを封じられるほどの憎悪を。
「黄金竜。私はあなたにたくさんの借金がある、ということになっていたわね。
だったら借金の支払いとして、その剣をあげるわ……すぐ返してもらうけど」
そして今――黄金竜ヴィヤチェスラフが、その聖剣を所持させられた。
「ぐっ、あああああああああああ!?」
「え、え……っ?」
フアナは、困惑するしかなかった。目の前で突如ロペが倒れ込むと、全身から煙を噴き出しながら悶え苦しみ始めたのだ。いったい何が起きているのか混乱するフアナを置き去りにして、煙の中でロペの身体が変貌していく。筋肉は削げ落ち、若々しかった肉体が老いていく。本来、人間として積み重ねるはずだった年齢まで。
煙が止まり、変貌が終わると……フアナの目の前でうずくまっているのは、ただの男だった。魔人としての特徴だった尖った耳や蛇に似た目つきも既にない。村でよく見かけるような、中年の男。衣服は魔人の時に来ていたものと変わっていないせいで、かえって不格好にさえ思える平凡な人間。
それが、黄金竜の加護を失った今のロペの姿だった。
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