癒される話【序】
「……先生。ヒロキ先生!聞いてます?」
そう言ったのは誰だったろう。
あの時、僕は何をしていたのだろうか。
頭に霧がかかったように薄ぼんやりとしていて、よく思い出せない。
「ねぇ起きて。ヒロキ先生。ねぇってば」
涼やかな声が
だんだんと思い出してきた。今夜は彼女の提案で、彼女の部屋でふたり仲良く夕食を作り、美味しい食事とお酒を楽しんだ。
温野菜のサラダ、キノコをバターソテーして、カンパーニュを海老のアヒージョに浸けたら絶品だった。スパイシーなソーセージも、パリッとした歯応えを追いかけるように肉汁が溢れ出し、サングリアによく合った。
ああ、そうだ。それから彼女が、ラタンチェストに置いてある小さな加湿器をセットすると、やがていつもの香りが寝室を包み込み、「話があるの」そう言う彼女と並んでベッドに腰かけて、その艶やかな黒髪を撫でているうちに、酔いとアロマの香りに脳が蕩けだし……。
「ヒロキ先生。聞いてる?」
少しずつ五感が戻ってくるにつれ、身体が柔らかい布団に沈み込んでいるのが分かった。
気持ちがいい。正直、このまま眠り込んでしまいたい。けれど彼女の声がそれを許さない。
ごめん、一瞬寝落ちした。なんか夢見てたみたいで、頭がうまく働かないや。なんだっけ、大事な話?
「そうよ、すっごく大事な話。だから起きて」
その声に促されるように薄目を開けると、オレンジ色のルームライトの灯が眼に滲んだ。
半分眠った今の頭ではよく見えないけれど、きっと彼女は悪戯っぽい笑みを浮かべているのだろう。彼女とは交際してもうすぐ二年。趣味も合い大きな喧嘩もなくとても順調に進んでいる。
僕は寝惚けた声で、起きたよと呟き、僕の顔を覗き込んでくる彼女を見上げる。その長い髪が僕の鼻先を掠めてくすぐったい。オーガニックシャンプーの控え目な香りがイランイランと混じり合い、臍の下が甘く疼きだす。
彼女は決して美人でもなければ、スタイルが良いワケでもなかった。丸顔でふくよかな体型は彼女のコンプレックスで、放っておくと色々なダイエット方法を試しては結果が出ないことに落ち込んでしまう。
そんなことをする必要なんてないのに。
僕はのろのろと腕を上げると、彼女の首の後ろに回し、その身体を自分の胸に引き寄せた。
「キャッ」
小さく彼女が鳴く。
ああ、なんて柔らかいのだろう。
いつも思う。この柔らかく肉感的な身体を抱きしめていると、まるで優しさに包まれているような感覚になり、堪らなく安心するのだ。
あまりの抱き心地の良さに食指が動く。
僕は、腕の中で軽く身を捩る彼女の頭を抑えて、その柔らかい頬に自分の頬を摺りつけた。
「もう、今夜はダメだってば。起きて、ヒロキ先生!」
先生はやめてくれよ。こんな夜にまで、仕事のことなんか思い出させないでくれ。
僕は彼女の唇が、これ以上余計な言葉を紡がないように、深く深く口づけた。
それでも、酔って寝惚けた頭の片隅に、忘れようとしてもできないくらい——子供たちの顔がチラついているのだった。
続
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