働くママの話
「ママ、オオカミさんがいるよ」
四歳の息子が潤んだ瞳でそう言った。
わたしは息子の腋の下から体温計を引き抜きながら、いないよと微笑んだ。
三十七度二分――朝から比べると少し下がったかな。
子供は体温が高いし、すぐこれくらいの熱を出す。顔色は悪くないし、大したことはなさそうだけれど、油断は禁物。
お昼に薬を飲ませて下がらないようだったら、午後の診察に連れて行こうか。
「ママみてぇ。オオカミさんがいるよ」
息子がわたしの背後にある
熱で少し不安になっているのか、甘えん坊が発動しているのか。
わたしはそんな息子に、大丈夫だからお昼ご飯までおねんねしようねと声をかけ、その少し汗ばんだ頭を撫でて落ち着かせると、布団をかけ直し子供部屋を後にした。
扉は開けておく。姿が見える訳ではないけれど、声は聞こえる。
こうしておけば多少は安心できるだろう。
今日は平日だったが、朝から突然息子が保育園に行きたくないとぐずりだした。
こんな時はきっとなにかある。そう思ったら案の定、発熱していた。保育園は当然お休み。
こんな時、無職はいい。
正確には有給休暇の消化期間だからまだ無職じゃないけれど、おかげで誰に気兼ねすることなく息子の面倒がみれる。
溜まった洗濯物も片付いた。
食卓テーブルに置きっぱなしだったスマホを手に取ると十一時が近い。
お昼ご飯はうどんにしようか。柔らかく煮込んで消化をよくしなきゃ。
そう思った時、手の中でスマホが震えた。
ディスプレイには
わたしが出ずにいると留守電に切り替わったが、義母は留守電にメッセージも残さずに切った。それはいつものことだった。
平日の昼間は仕事があるので、電話じゃなくてメールかLINEしてください――義母に何度か言ったことがある。
義母は、大した用事じゃないからとか、文字を打つのは苦手でとか言って笑ってごまかしていたが、町内会の手芸サークルの仲間との連絡ツールはLINEだし、作品の画像も送り合っていることは知っている。
だからって敢えて指摘はしないけど。
わたしは義母に仕事が終了したことは伝えていない。だから平日のこの時間帯は仕事中だと分かっている筈だ。
なのにまたメールでもLINEでもなく電話。
一度だけ義母から言われたことがある。
あんたはいつ電話しても出てくれないと。
「ママ―」
息子の呼び声にハッとする。
大人しく寝ていろと言ったって無理な話か。
保育園では元気に遊んでいる時間だしな。
「ママー。オオカミさんがいるよー」
わたしの姿が見えなくなって不安が増したのか、息子が大きな声を出す。
わたしは義母に折り返し掛けることはせずにスマホをエプロンのポケットに突っ込むと、子供部屋の扉から息子に顔を見せた。
「ママァ。おしいれぇ」
見ると息子はベッドに横になったまま、先程と同じように押入れを指差していた。
なんだろう?
そう言えばさっきから息子は押入れを気にしている。
押入れに何かあるのかしら?
何か隠した?いや、虫でもいた?
わたしは念の為、押入れを開けた。
そこには、子供用の寝具と季節の衣類。雑多な小物類。
そして大きな
何もないじゃない。
体調が悪くて我儘が発動してるな、こりゃ。
息子に目をやるとピンクのほっぺには艶があり声もしっかりしている。
わたしは息子に、押入れには何もないことを告げ、眠くなくても静かにしているように念を押して子供部屋を後にした。
冷蔵庫で冷やしておいた、パックから煮出した麦茶のボトルを取り出してグラスに注ぐ。ひと口飲むと冷たい液体が喉を通って心地よい。
やっぱりうどんはやめてお粥にしよう。今見たら
うん、卵粥に決定。
麦茶を飲み干しひと息つくと、わたしはお粥を作るために台所に立った。
コトコトコトコト。
小さな土鍋がいい音を鳴らしている。美味しそうな出汁の香り。
平日の昼下がり、子供と何気ない会話をしながら過ごす。子供とふたり分の昼食の用意をする。そんな何気ない当たり前の時間がわたしは好きだ。
愛おしくてかけがえのない時間。
けれど正直、不安にもなる。
火加減を見ながらわたしはポケットからスマホを取り出すと、義母からの着信を示す赤い丸は無視して、登録している派遣会社のマイページを開いた。
わたしは先週まで、派遣スタッフとしてある企業で事務の仕事に就いていた。
期間は一年間。三ヶ月更新を繰り返して、一年で満了。
業務内容はあるプロジェクトの雑用全般だった。数字集め、それを表にしたり会議のレジュメを作ったり。マニュアル作成もした。
プロジェクトメンバーの女性社員でまともにPCが触れる人は殆ど
それはそれでいい。粛々と与えられた業務を
――けれど。
わたしは、最後の出社日のことを思い出していた。
ひとりの女性社員に嫌味を言ってしまったのだ。
彼女は結婚してもバリキャリ気取って、仕事できます貌の勘違い女だった。
一週間、毎日違う服を着て来て、服に合わせてメイクも髪型も変えて来る。
その癖いちばん事務方が不得手で、プロジェクト内外でもミスを連発していた。
そのツケが何度も回ってきて、何度尻拭いをやらされたことか。
この一年。社員のケツを。派遣のわたしが。
こっちはあるもの着回してなんとか体裁を整えてるってのに。
子供がいれば朝はバッタバタの戦争で、顔にも髪にも手をかける余裕なんて無い。
そういうことが分からないんだろう。経験がないから。
――子供、欲しそうにしてたな。
何となく見ていたら分かる。
子供を持つママ同士はどうしても子供の話になりがちで、そんな時あの女は「関心ありません」て澄まし顔で微笑んでいたけれど。
その綺麗な顔には、極太マジックで書いたみたいにハッキリ「羨ましい」とあった。
それにしても「霊感があって」か。
我ながら酷い嘘だ。
まあ、ああ言っておけば確認のしようもないし嘘だってバレないだろう。バレてももう関係のない人間だ。あれで溜飲は下がったからよしとする。
「ママ―!オオカミさんがいるよー!」
また息子が呼んでいる。
そんなのいなかったでしょ。静かにしてなさい!
わたしも大きな声で応えた。
今日はどうしたのだろう。
いくら体調不調でも、ここまで聞き分けないなんて、今まであっただろうか。
精神的に不安定になっているのか。
普段わたしがいないから?
義母が言うように、保育園に預けっぱなしで、満足に相手ができてないから?
わたしだって息子の傍にいたい。
でも働かなきゃ。
息子が二歳になった頃、今の住まいであるこの中古マンションを購入した。三十五年の住宅ローン。それに自動車の維持費も教育費も諸々も、夫の収入だけでは賄えないのだから、仕方ないじゃない。
ご飯が焦げ付かないように木べらでひっくり返しながら、わたしはマイページの『現在の応募状況』を確認する。一昨日応募した新しい仕事の状況は、進捗なし。
担当からも次の派遣先について、特に連絡は入っていない。
その時また手に持っていたスマホが震え、画面の上部に通知が表示される。
また義母からだ。
わたしは出ずに留守電に切り替わるのを待つ。今度は切り替わる前に電話が切れた。
専業主婦だった義母は、わたしがフルタイムで働くことを快く思ってはいない。
わたしは大きくため息をつくと、スマホをまたエプロンのポケットに仕舞った。
昼休みの頃に折り返そう。
ああでも、早く次の仕事を決めないと。
派遣の仕事は先が不安定だという人もいる。
実際、今のわたしの状況がそうだろう。けれどパートと比べると時給が段違いに良いのだ。
わたしとしても出来ればどこかで正社員として働きたいが、子供が小さいうちは難しいかもと思うと、履歴書を送ることも躊躇われた。
――更新ができればよかったのに。言っても仕方がないことだけれど。
今更あの職場に未練はないが、ただひとつだけ、あの職場でちょっといいなと思ったことがある。
どう言う訳かあの職場の女性たちは、みんな下の名前で呼び合うのだ。
役職も、社員も派遣も関係なく、苗字でもなく。
下の名前で呼ばれるたびに、わたしはわたしであることを思い出せた。
妻でもなく嫁でもなく、ママでもない。
わたしはわたしという意志を持った個人。
嬉しかった。だからわたしも、たくさんたくさんみんなの名前を呼んだ。
「ママ―!」
息子が呼んでいる。
わたしは土鍋に溶き卵を回し入れるとコンロの火を止め、軽くかき混ぜて蓋をする。
息子に返事をする代わりに、冷蔵庫からパックのリンゴジュースを取り出して、バタンと大きな音を立てて扉を閉めた。
出来上がった卵粥とリンゴジュースを持って子供部屋に入ると、枕を背に起き上がっている息子が押入れに目をやっていた。
水色のローテーブルに盆を置く。
お腹すいたでしょ、そう言いながら息子のおでこに手をやると、まだ少し熱があるようだった。
「ママ、オオカミさんがいるよ」
まだ言っている。
息子の艶を帯びた黒目がちな瞳が一瞬だけわたしに向けられたが、すぐに逸らされてしまった。
わたしはため息をつきつつ黄色いお粥をお椀によそい、こっちにおいでと息子を呼ぶが、息子はベッドから降りようとはしなかった。
それどころかずっと押入れを見ている。
なにしてるのと、少し口調が強くなる。
「ママ、オオカミさん」
そんなものいない、そう言いかけた時、エプロンのポケットでスマホが震え、わたしの太腿を不快に刺激した。
なんなんだ、今日は。
みんなでわたしを困らせようとしているのか。
わたしはバイブを無視して息子に詰め寄り、喉乾いてない?と、ストローを刺したリンゴジュースのパックを息子の手に持たせた。その手はまだほんのり熱い。
息子はわたしにされるがままだったが、「オオカミさんいるの」そう言う顔はこちらを向く気配はなかった。
「ママ」
スマホはまだ震えている。
「オオカミさん」
スマホはまだ震えている。
「いるよ」
スマホが切れた。
いい加減にして!
わたしの手が翻った瞬間、息子の小さな手から赤い紙パックが落ちて、カーペットの上に転がった。
ストローから零れ出た液体が、甘い匂いを発している。
「ママ」
大きく見開かれた息子の黒々と濡れた瞳がわたしに向けられた瞬間、鳩尾がギュッと縮み上がった。
わたしは今、息子に何を。
熱のある息子に、なんてことを――
「ママ」
その声に弾かれるように、わたしは息子の頭を抱きしめた。
ごめん、ごめんね。ママったらごめん。
謝りながら両手で息子の頬を撫でる。
熱い。それは熱のせいか、それともわたしの掌の熱さか。
分からないまま顔をこちらに向かせると、息子の眼はわたしを素通りして。
「オオカミさんがいるの」
その黒硝子のような眼球には、背後の押入れだけが映っていた。
またスマホが震えだし、甘ったるい匂いに包まれた子供部屋に、振動音だけが静かに響いている。
了
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます